第37話 一人暮らしの鬼娘と獣の首輪
氷の洞窟は、3階層から成る洞窟である。3階層の奥に水の精霊の一種である『氷精』が住まう湖がある。
その影響で湖は氷結しており、その中でも透明度の高いものを『永久氷塊』として切り出す。これは氷精の力で凍結しているため、常温で持ち帰ることができるのである。さすがに8月の炎天下を持ちかえれば、氷精の力が弱まって溶けてしまうが、そのときは多くの氷塊を荷車に乗せ、藁をかぶせ、それを何重にもすることで、氷塊の一部を持ち帰ることができる。
『氷狐』が洞窟に逃げ込んだのならば、うちの店に氷塊を入荷することができなくなる。だがそんなことは些細な問題で、今回の件は想定していたより根が深く、大きな話になりつつある。
人間と獣人族の関係が悪いことは、リコや虎人族たちを助けた時にも感じてはいたが、王都でも現在進行形で問題になっているのに今まで見過ごしてきたことは、俺としても反省の至りだった。
「……種族の対立か」
「ご主人様は責任を感じる必要はない。対立問題があると分かっていても、それは今に始まったことではなく、国の歴史と同じだけ長く続いている。古来から変わらぬことなのだ」
俺は事務室の椅子に座って、氷の洞窟の内部をある程度マッピングした地図を広げ、リゲルたちにどう動いてもらうかを考えていた。その間につい独りごちると、ヴェルレーヌは濃いめの茶を淹れたカップを俺の前に置きながら、向かいに座りつつ言う。
彼女はまだメイド姿のまま着替えていないが、ヘッドドレスを取り、ダークエルフの姿に戻っていた。一日仕事を終えた女性が気だるげにしているのを見ると、労いたいという気持ちもあるが、気を使い過ぎると逆に怒られるという経験をしているので、普通にしておくのが一番だろう。我ながら何をそこまで従業員に遠慮しているのか、と思うところでもあるが。
「なかなかよくできた地図だな。これは、ご主人様が作ったのか?」
「最初に氷塊を仕入れるとき、俺が自分で潜ったんだ。氷の洞窟自体は、そこまで危険のある洞窟じゃない。時々湧く魔物に対応するには、Bランクは欲しいけどな」
「『氷狐』の強さを、ご主人様はどう見る?」
「……Bランク相当、と依頼書には自己申告されてるが。それも疑ってかかるべきだな」
やはり、リゲルたちだけでは少し荷が重い。もともとアイリーンに補助を頼むつもりではあったが――今から彼女に頼んで、明日動いてもらうように話をつけておかなければ。
「青の射手亭の男……ゼクトのことを考えると、氷狐はもしかすると、彼と同様のSSランク、あるいはSランク相当の魔物ということもありえるな」
「可能性としてはな。ゼクト、そして氷狐の両方に安全に対応できる人間に頼むしかない」
「むぅ……鬼娘か。光剣の勇者ということも考えられるが、相手が獣となると、対応に慣れているのはアイリーンの方だろうな。あの野性的な動きには舌を巻かされた」
「その通りだ。だいたい俺の考えが読めるようになってきたな、ヴェルレーヌ」
「私はご主人様を見ていて、策を献じるために常に頭を動かしている。今のところは、さほど褒められる結果は出ていないがな」
そう言って自分のカップを取りあげて口をつけ、彼女は足を組み替える。狙っているのか、そうでないのか――深夜という時間帯には獣が潜んでいる。日ごろ考えないことが頭をよぎってしまうからだ。
「鬼娘もあまり遅くにご主人様がやってくると勘違いするかもしれんが、鋼鉄の意志を持つのだぞ」
「寝ぼけると危険なんだ、あいつは。もう寝てたら慎重に魔法で起こすよ」
俺は戦々恐々としつつも、リゲルたちのサポートを頼むために、近くにあるアイリーンの家に向かった。
◆◇◆
アイリーンの家は俺のギルドからほど近く、12番通りの中では最高クラスの集合住宅に住んでいる。
あまり部屋にはこだわらないとのことだが、収入には困っていないので、家賃を気にせず「これがいい」と選んだ部屋が、12番通りの最上層のために作られた物件だったというわけだ。
とはいっても12番通りの最上層とは、情報屋の元締めであったり、疲れた男女にひとときの享楽を提供する店の店主だったりの家族である。そういった肝の据わった女性たちと普通に近所づきあいをしてしまうのが、アイリーンのすごいところである。
彼女の住む集合住宅は、二階建ての家がいくつも一つに接続したような形で建てられている。同じ形の家が並ぶ一番奥に、「シュペリア」の表札が出ていた。アイリーンと書いていないのは、魔王討伐隊の一員であったというのが知れると、観光名所扱いをされてしまうからという懸念のためである。彼女はご近所では『アイリ』と名乗っていて、なんとか正体の発覚を防いでいる。
入り口に置かれた呼び鈴を鳴らすと近所迷惑なので、ドアをノックする。『2、1、3』というリズムで叩くのが、俺が来たという合図である。こんなところまで暗号を使用してしまうのは、自分でも悪い癖だと思うところだ。
聞こえなかったらもう一度繰り返そうかと思ったが、その前にドアが開いた。
「入っていいよー」
「ああ、こんな遅くに悪いな。実は、頼みたいことが……うわっ!」
ドアを開けて中に入ると、アイリーンが予想もつかない姿で立っていた――いや、ドアを開けるときに、何か石鹸のような匂いがするなとは思ったのだが、まさか風呂上がりの、タオル一枚の姿で出迎えられるとは。
「心配しなくても、ディックだって合図で分かってるから。ふだんはこんな格好で出ないよ」
「お、俺の訪問時でも問題あるからな、それ……」
「そんなことより、何かお願いがあって来たんだよね? 急ぎの仕事の話?」
ふだん結い上げている髪を下ろしている姿も、血色のいい健康的な肌も、俺をひどく動揺させるというのに、彼女はけろっとしている。
これが男女の友情が成立した関係というやつなのか。俺は男として見られていないのか。いやそれでいい、多くを求めることで人は大切な何かを見失う。我ながらまったくもって生産性のない葛藤だ。
「そんなとこに立ってないで入りなよ、あたしは髪を拭かなきゃだから、ちょっと待っててね。あ、ディックが魔法で乾かしてくれる?」
「あ、ああ……それは構わないが。その前に、服をだな……」
「今熱いのに服着たら、汗びっしょりになっちゃうじゃない。そしたらまたお風呂入らなきゃでしょ?」
しかし、そのタオルはそこまで生地が厚くはなく、カバーできている範囲も、下方面に少し手薄だ。その状態で後ろを向いたら危険だという予感が――
「じゃあ、向こうでやってもらおうかな。ディックに乾かしてもらうとすごくラクなんだよね~、みんなも一家にひとつディックが欲しいって言ってたよ」
くるり、とあっさり振り返って歩いていくアイリーン。その部分は臀部なのか、太ももなのかという部分が後ろから見えており、俺は眉根を寄せて集中して判定に臨むが、「太ももである」という消極的な結論に落ち着いた。
◆◇◆
髪を乾かすときに俺が使う手法は、櫛を魔力で覆い、髪に回復魔法をかけて表面のダメージを補修しつつ、保湿に必要になる水分だけを残して飛ばしてしまうというものである。
アイリーンの桃色に近い髪は、住んでいる地域の過酷な環境もあってダメージには強いのだが、それでも俺が櫛を通したあとの指通りがまったく違うそうで、かなり気に入られていた。といっても、魔王討伐の旅に出ていたとき以来なので、実に5年ぶりだ。
「よし、これでいいか。何か気になるところはあるか?」
「ううん、もう最高。久しぶりにやってもらったのに、ぜんぜん慣れてる感じだね……あれえ? もしかしてヴェルレーヌさんに毎日やってあげてたり……?」
「いや、頼まれたことないしな。毎日自分で乾かしてるぞ」
「そうなんだ……それなら、今久しぶりにやったってこと? ディックってほんと器用だよね」
「そんなこと言って、またやってくれと言われても困るぞ。一ヶ月おきくらいにしてくれ」
「はーい。あはは、なんか子供に戻ったみたい。昔はお母さんに乾かしてもらってたから」
俺は子供の頃、姉に面倒を見られていたなと思い出す。両親が留守がちだったので、俺にとって二人の姉が母親代わりだった。
たまに実家の家族は元気だろうかと思うものの、帰るという気にはならない。俺の家は自立した人間の集団であり、家族にとって実家は拠点の一つという考えでしかないのだ。それを言うと寂しくはないかと聞かれることもあるが、家族にもいろいろあると思っている。
「でもそっか、ディックと一緒に住んでても、毎日乾かしてもらえないんだ。ヴェルレーヌさんって意外に遠慮がちなところがあるのかな?」
「アイリーンがその話をして、頼まれるのが目に見えてるな……まあ、毎日じゃなけりゃいいけどな。それより、アイリーン。前の仕事が終わったばかりで悪いんだが、急ぎで頼みたいことがあるんだ」
「ん、いいよ。急ぎって明日とか?」
「ああ。リゲルたちに頼んでる仕事があるんだが、他のギルドと依頼が競合してて、SSランクの冒険者が介入してきた。ゼクトって男なんだが、そいつとぶつからないように立ち回って欲しいんだ」
俺は事情を説明するために依頼の資料を見せる。アイリーンはふむふむと言いながら、それに目を通していった。
「うん、なんとなくわかった。氷狐をやっつけるんじゃなくて、生け捕りにしたいってことね。そのゼクトって人は、氷狐の前にあたしたちに会ったら、攻撃してきそうなの?」
「可能性はあるが……たぶん、こちらから仕掛けなければ大丈夫だろう。あっちは、氷狐の元に自分が先に辿り着ければそれでいいって感じがした」
俺は『氷狐』が、『青狐族』の獣化した姿である可能性があり、ゼクトと何らかの関係があるようだとアイリーンに説明する。
「……獣化した獣人の人を、珍しい動物だって言って売ろうとするなんて。ねえディック、そのガラムドア商会はやっちゃわないの? そんなひどいことしてるの、ほっとけないよ」
「サクヤさんに調査を頼んである。もうすぐ帰ってくるはずだ」
「あ、それなら安心だね。サクヤさんも獣人だから、怒ってめためたにしてきちゃったりして」
「それはないとは言えないが、彼女も分かってくれてるだろう。ガラムドア商会に制裁を加えることはいつでもできるが、然るべき形ってものがある」
「うん、お仕置きするって決まってるのなら大丈夫。あたしが譲れないのはそこだけだから」
アイリーンはぐっと拳を握る。しかしずっとタオル一枚なのだが、まだ湯上がりで暑いのだろうか。
「アイリーン、そろそろ服をだな……」
「あ、そうだった。ごめんね、すぐ着替えて……」
――無敵の武闘家でも、SSSランクでも。避けられない事故というのはあるのだろうかと、俺はアイリーンが立ち上がった拍子に、ゆるんだタオルが落ちるのを目の当たりにしながら思っていた。
「あ……っ」
それしか声が出ない、という様子のアイリーン。俺は微動だにできず、声も発せず、頭が真っ白になった状態で、ふだんアイリーンの武闘服の下に隠された、無駄なく鍛えられ、しかししなやかさを失わない肢体を目の当たりにしていた。
それにしても特筆すべきは、やはり胸であった。鍛えると胸から減っていくと聞いたことがあるのに、そんな法則もなんのそのと、旅をしている間も常に発育していた。いつも友人としてさっぱりと接しているうちは気にせずにいられるのに、一瞬で意識を切り替えられてしまう。
そしてアイリーンも能動的に隠そうとせず、辛うじて長い髪が胸にかかって、大事な部分を隠している。彼女は羞恥に慌てるわけでもなく、ただ俺をじっと見つめている。
「……ディック……」
何度も呼ばれてきたはずの名前が、今は違うもののように聞こえた。
こんな夜に訪ねて行って、迎え入れられて。俺なら大丈夫だからとタオル一枚の姿を見せられ、それでどうして冷静でいられたのだろう。
そう思っているのは、彼女も同じようだった。
何か言葉を発すれば、決定的になる。
何を言えばいいのか、自分でも分からないままに、俺は……
「……マスター、お取りこみ中でしたでしょうか?」
「ひゃぁっ……あ、あれ? サクヤさん、いつの間に……?」
「お返事がありませんでしたので、異変を感じて鍵を開けて入らせていただきました。マスターはこちらにいらっしゃると、ヴェルレーヌ店長もおっしゃっていましたし」
「い、いや……取り込んでるというか、ちょうどサクヤさんを待ってたとこだよ」
「……裸で、ですか?」
「え、えっと、そのっ、それはあの、私の結び方が甘くて……ご、ごめんなさいっ!」
アイリーンは着替えをするためか、脱衣所に駆け込んでいく。タオルを巻きなおしてないので、その後ろ姿は――いや、俺は何も見ていない。そう思っておくのが世界平和のためだ。
「……少し予想外のことで動揺はしましたが、私の中では事故として処理しておきます」
「あ、ああ……そうしてくれると助かる。それでサクヤさん、早速なんだが……」
「はい。詳しい報告は後ほどギルドに戻って行いますが、ひとまずはこれを……」
サクヤさんは外套の中から、革のベルトのようなものを出す。それには魔法文字が入れられ、魔石とおぼしき宝石があしらわれていた。
それは、人が身につけるものではない。獣につけるために作られた首輪だった。
「……獣化した獣人を、獣の姿のままで留めておくための魔道具。それが、これなんだな」
「はい。ガラムドア商会の地下で、幸いにも一つだけ残っていたものを発見することができました」
「よくやってくれた。この首輪の効果については、調べられたか?」
その質問に、サクヤさんの長い耳が垂れ、瞳が陰る。それは、首輪の効果がろくでもないものだということをこれ以上なく示していた。
「これは獣人から理性を奪い、獣の本能を目覚めさせる。そうして使役するための魔道具です」
『氷狐』がガラムドア商会から逃げ出したのは、この首輪で獣化した状態にとどめることができても、『使役』が完全ではなかったからだ。
獣の本能の赴くままに、氷狐は脱走した。そしてサクヤさんの話によれば、ガラムドア商会の扱っていた希少動物とは、ほぼすべてが獣人の獣化したものだということだった。
最後に残った疑問は、ゼクトと氷狐の関係。それがいかなるものであったとしても、するべきことは決まっている。
氷狐の首輪を外し、獣人の姿に戻す。理性を取り戻せば、会話は成立するはずだ。それで、氷狐がなぜ捕まったのか、ゼクトとの関係についても、全てが判明する。
「サクヤさん、ありがとう。あとは、依頼を遂行するだけだ」
「はい。氷狐が獣人であったとして、首輪から解放された後に、ガラムドア商会の告発を行うということですね」
「前金のみで終わることになるが、そんなことよりも、今回の仕事で得るものはずっと大きい。俺たちに依頼を持ち込んだことを後悔させることにはなるが……それも教訓ってやつだ」
サクヤさんは張り詰めた面持ちでいたが、俺の言葉にふっと微笑む。
「マスターは、ご自分では否定なさいますが、やはり魔王討伐隊の一員にふさわしいお方です」
「俺はなりゆきで動いてるだけだよ。そこまで言われることはしちゃいない」
「それでも私はこう思います。やはり、これからもあなたについていきたいと」
結果的に獣人を救う方向に動いていることを、サクヤさんは心から喜んでくれていた。
彼女の過去について、俺は少ししか知らない。月兎族は滅んだ種族であり、彼女はその生き残りである。そして、彼女は人間を憎んでいる――今知っていることはそれだけだ。
だからこそ、なおさらに思う。人間と獣人のいさかいをこれ以上続けないために、陰から働きかけるべきときが来ているのだと。




