第148話 世界の渦と動き出す影
――アルベイン王国暦二千三年 乙女神の月 アルベイン東方諸島周辺海の孤島
地図の上にない島。周辺を船で通ることが困難な海流に囲まれた、人間が立ち入るには運良く流れ着くしか方法のない場所。
そこは浮遊島『クヴァリス』がアルベインに向けて移動した際の軌道近くに位置していた。
孤島の地下に残された遺跡。『遺された民』の手によって作られたものの一つ。
そこから地上の出来事を観測し続けていた少女は、『クヴァリス』の進路が変化し、アルベインから遠ざかり続けている事実を、どう捉えるべきなのかと考えていた。
少女は水色がかった色素の薄い髪を無造作に肩の辺りで切りそろえ、頭に金属のサークレットを身に着けている。簡素な貫頭衣は端が擦り切れてぼろぼろになっていて、両腕と両足に輪のような装飾具を着けていた。それが力を抑え込むための封環だということは、熟達した魔法使いしか知りえない。
自らの力に及ぶものなど、彼女の属する組織の長以外にはそうは見つからない。そう、少女は自己評価をしていた。
しかし『クヴァリス』の進行方向を変えた者は、自らを超える可能性がある――そう思うと、今まで一度も覚えたことのない感情が生まれる。
畏敬に類するものではない。自分の使役者に対して覚えるその感情なら、少女は十分に知っている。
少女はそのことについて考えることを一度やめて、自らの役割である情報分析に思考を傾けた。
「……浮遊島の軌道を変えるほどの力を持つ者たちが、やはりあの国にいる」
世界に『根』を張り、各国の情報を知ることができる彼女たちが、正確な情報を得ることができない国が一つある。
アルベイン王国。エクスレア大陸で最大の版図を持ち、初代アルベイン王から連綿たる治世を続けている大国である。
かの国は、五年前を境にして大きな変化を迎えた。その事実を王や貴族、政務に携わる者すらも把握していない。
情報を重んじ、それを収集し、同時に情報の漏洩を防ぐ仕組みを構築した者が現れたのである。
それだけではなく、冒険者の強さを示す指標であるSSSランクパーティでも困難な状況を打破するほどの力を備えてもいる。情報を統制している存在と同一かどうかはまだ確証が取れていないが、もしそうであるならば、比類なき力を持つ存在だと言える――そう、水色の髪の少女は考えていた。
巨大な水晶球に映し出された、アルベインの版図を含んだエクスレア大陸の姿を見つめていた少女は、指先を王都アルヴィナスの地点へと伸ばす。そのとき、背後に別の人物の気配が生じて、少女はゆっくりと後ろに振り返った。
「『あの方』からの指示が下りました。彼らが『資質者』かどうか、実情を確かめてまいります」
少女のいる半球状の広い部屋に、もう一人が姿を現す。そこにいたのは、緑がかった長い髪を持つ女性だった。ローブを身にまとっているが、その下は肌の露出が多く、ほとんど肌を覆う部分がないような装束を身につけている。
その衣装と右手に持つ曲がりくねった杖は、彼女が呪術師に類することを示していた。
柔和な微笑みを浮かべているが、この女性が組織の命令を手段を選ばず遂行する『代行者』であることを、少女は経験をもって理解している。それでも彼女の口をついて出たのは、警告を意味する言葉だった。
「私も同行する。もしSSSランクを超えている者がいるなら、可能であれば六名以上のメンバーを揃えるべき。カルウェン個人の能力はSSSランクの域を出ていない」
「手厳しいお言葉、切実に受け止めさせていただきます……しかしご同行は必要ありません。今回『クヴァリス』の撃退を成したのは、おそらくアルベインの最高戦力である『奇跡の子どもたち』でしょう。ならば交戦するより先に、試みるべきことがあります」
彼らの存在については他大陸まで知れ渡っているが、現状の能力についての情報は伝わってこない。魔王討伐隊として志願した当時、9歳から13歳までの少年少女五人が、SSSランクを記録した――しかし、五年が経った現在については、公式に冒険者強度を記録したという情報が出ていない。
「……動いたのが、彼らという確証がない」
「貴女もお分かりでしょう? 『クヴァリス』を押し返せるとしたら、可能性を持っているのは彼らのみです。情報封鎖を行っているのも、彼らと見ていい……来るべきときが来たということですよ」
女性は腕を組み、片方の手を頬に当てる。そして瞳を細めると、恍惚とした表情で、水晶球に映し出された地図を移動する赤い光を見つめた。『クヴァリス』の位置を示すその光は、今も北東に進路を取って進み続けている。
「王都アルヴィナスが滅びたあとで『クヴァリス』の内部に侵入し、『擬神核』を取り出すことができれば良かったのですが。調査の結果、かの浮遊島は現在何者も通さない障壁を展開していることが分かりました。『遺失魔法』の一つである『異空隔絶陣』を展開しているようです」
「……『管理者』を介さなければ、浮遊島の結界は解除されない」
「ええ、そうです。彼らの仲間に『管理者』そのものがいるか、それとも『管理者』の力を媒介する能力を持つ者がいるのかは定かではありませんが。いずれにせよ、アルベインには私達が求めるものがあると考えられます」
「一人で行くというなら、止めはしない。私はあなたたちの所在を把握しておかなくてはならない。それさえできていれば干渉はしない」
「ええ……そうですね。あなたが『クヴァリス』と接触することをあの方は望まれませんでしたが、それも含めて想定の範囲内といったところでしょう」
「……『盟主』は予言をしない。未来の予測は、私に一任している」
カルウェンと呼ばれた女性は、水色の髪を持つ少女を無言で見返す。その瞳に宿る感情は、必ずしも友好的なものではなかった。
「貴女が盟主様と同格であるというのは、彼自身が言うのですから疑うべきではないのでしょう。しかし、誰もが無条件に同意しているわけではありません」
「……発言の意図を、理解しかねる」
「感情というものは、抑制の効かないものなのですよ。マキナ様……貴女にとっては不必要なものなのでしょうが」
水色の髪を持つ少女――マキナは続けて質問することはしなかった。
自分に心がないということは理解している。しかし生物と同じように心臓は動いていて、人間や魔族と同じように思考することができているのだから、擬似的に心というものを再現することは不可能ではないはずである。
それを言っても、カルウェンは微笑むだけなのだろうと分かっていた。無為なことは可能な限りするべきではない。
「……私は盟主の末端であり、一部である」
「そう……それでいいのです。そう言ってさえいただければ、私は貴女の存在を全面的に肯定することができるのですから。では、行ってまいります」
胸に右手を当て、頭を下げる。それはカルウェンの一族における慣習であり、マキナが観測できる範囲では、カルウェンのみしか行わない挨拶だった。
彼女の一族は、既に地上から消えている。その能力の希少性から組織に加わり、それゆえに今回も『盟主』から命令を与えられた。
「……私は盟主ヒューゴーの一部。それ以外に存在する理由はない」
カルウェンが去り、一人になったあとでマキナは呟く。
ここにはいない盟主――マキナの主にだけは、自分の言葉が届いていることを自覚しながら。
◆◇◆
幸運というものについて、一度真剣に考えてみたことがある。
世界に存在する幸運の量は決まっており、人々の行動によって割り振られる量が変化する――などと定義してみようとしたり、あるいは運の総量などは存在せず、幸運も不幸もその都度運命の女神がサイコロを振って決めるものであるだとか。
そんな女神がいるとしても気まぐれなもので、個人個人の幸運の偏りなど無いと考えている俺だが、すこぶる偏っていると言わざるを得ないような人物も中にはいる。縁起の良くない異名がついてしまったせいで、女神に嫌われているとかそういうことでもないと思うのだが。
「うぅーん……」
『銀の水瓶亭』一階の酒場。カウンターで俺の横に座り、うんうんと頭を悩ませている女性こそが、『不運の女神』と王都の賭場で名を馳せている女性冒険者、セレーネ・ラウラだった。
今は夜営業で店が賑やかになってきた時間なので、多少音を立てても客に迷惑をかけることはない。そういう時間に店にやってくると、セレーネはだいたい俺に勝負をせがんでくる。
他の賭場で大負けして文無しになったあと、俺が相手なら勝てると思って挑んでくるのだが、その自信がどこから来るのかがわからない。
彼女はすでに五連敗しており、自分の身につけているものを装飾品以外は全て賭けていた。本当に賭け金を徴収したら裸にアクセサリーをつけているだけという、俺の人格に疑問符をつけられるような状態になってしまう。
「さっきは奇数だったから、次は偶数……裏をかいて奇数……? はぁ~、ここでアイリーンちゃんが来てくれたら、賭け金を借りて勝負できるのに。弟くんったら、久しぶりに会ったお姉ちゃんにも容赦ないんだから」
「ちょっと前にも来たばかりだろ……ヴェルレーヌに負けてウェイトレスをさせられてたが、まだ貸しが残ってるんじゃないのか」
「弟くんには借りてないからいいの。ヴェルレーヌさんとシェリーさんとカスミさんには借りがあるけどね、それは返せるときでいいって言われてるから」
誰彼構わず勝負を挑んでいるのか、と呆れてしまう。名前を出されたヴェルレーヌは、常連の女性客に対応していた。オーダーされたドリンクを銀のシェイカーでシェイクする姿がさまになっていて、思わず見入ってしまう。
「よそ見してる弟くんに負けちゃうなんて悔しい……絶対に勝って帰るんだから。それでお家賃を払って、他の賭場でのつけも返してきれいな身体になるの。そうしたら弟くん、お姉ちゃんのこともらってくれる?」
「わざと誤解を招く言い方をしないなら、もらうというか再雇用は検討してもいいけどな」
「誤解ってなに? ふふっ、私ってそういうことに疎いから、そういうのは良くわからないわね。弟くんったら、年上の私を手のひらの上で転がしちゃって」
酒が入っているのもあるのだろうが、セレーネの色気は並々ならぬものがあり、まともに相手をするには俺では役者が不足している。かといってゼクトを連れてきたら、堅物の彼では全く間が持たなかったりするのだが。
最近はスフィアの母親である七人以外と仲良くしていると、スフィアが俺にささやかなお小言を言うようになった。
「お母さんが見たらなんて言うかな?」というのがお決まりのセリフになりつつある――そういったわけで、セレーネが暑そうに胸元をぱたぱたとしても、うかつに反応することもできない。
「ここに来るまでと、今日お店に来てからで、そろそろ私の幸運はピークを迎えつつあると思うのね。やまない雨がないように、不運だってずっと続くわけじゃないの。必ず光が差すって信じていれば、大きな勝ちが巡ってくるのよ」
セレーネの言うことは一理あるとは思うのだが、その法則を信じてずるずると負けてしまうこともあるので、俺としては一応忠告をすることにしている。
「いいのか? 次に負けたら、もう賭けられるものがないと思うんだが……そもそも、服だって俺は受け取る気がないしな」
「私も冒険者だもの、支払いは冒険者の流儀で行うわ」
「身体で払うとかそういうことを店で言うなよ、俺の店は清廉潔白が基本方針だからな」
「っ……ご、ご主人様……いえ、ディック殿。セレーネ殿が言うよりも、ご主人様が言う方が刺激が強い文句だと思うのですが……ご主人様は、まだご自分の主人としての適性を理解していらっしゃらないのですね」
「い、いや、そこに反応されてもだな……というか、ご主人様は駄目だと言ったろ」
「そういう弟くんだから、むしろからかいたくなっちゃうのよね。そうだ、私も住み込みの従者さん二人目になってもいい? 一日金貨一枚でご奉仕してあげる」
ご奉仕なんて言葉を選ぶあたり、やはり清廉潔白な俺の方針とは合わないのではないか――というとヴェルレーヌにも刺さるので、あえて何も言わずにおく。
金貨一枚で一週間は生活できるので、日給金貨一枚は王都の住み込み家事手伝いとしては高給といえる。酒場の利益は食材や酒の仕入れで代金に糸目をつけず、可能な限りの安価を心がけていることから、一日金貨十枚といったところだ。あこぎな経営をすれば倍にはなるが、12番通りが庶民の街であることを忘れてはならない。
ギルドのAランク依頼の達成報酬は、その危険度を鑑みて金貨二十枚からが目安となる。必要経費は別途請求というのが王都のギルドの通例だ。魔王討伐はSSSランク依頼と言えるが、その報酬は古金貨五千枚で受け取ることもできた――金貨の価値にして百万枚にはなり、まさに破格である。国家予算に響かせるわけにもいかないし、俺たちは誰も現金を欲しがらなかったわけだが。
前にユマの父親であるグレナディンさんから持ち込まれた依頼では、最初に金貨五百枚を提示されたが、その金額でももちろん破格である。この国はアルベイン神教という一神教のみが崇拝されているので、国中の教会から寄進が集まる。グレナディンさんはそういった寄進からではなく、個人として支払える額の限度を提示してくれたと考えられる。
教会のトップであるグレナディンさんは国でも有数の資産を持っているわけだが、俺としては金はギルドが回るだけあればよく、どちらかといえば同時に報酬として受け取った『タリスマン』の方に価値があると考えていた。
マナリナの婚約破棄の件で報酬として受け取った『王家のしるし』も、持っているだけではただの持ち腐れだ。アルベイン国内に五つある遺跡迷宮に入るための鍵となるもので、そのうち三つは建国二千年と少しの歴史の中で、未だに踏破されていない。つまり、このままいくと俺達のギルドが最初に入ることになる。
「あ、冒険者の顔になってる。それとも、敏腕マスターの顔?」
「っ……こ、小声で言ってくれるのはいいが、距離感が近すぎないか」
俺は今日も飲んだくれのふりをしているので、ギルドマスターと呼んでもらっては困る。一部の常連客に明かしている素性も、店のマスターというだけで、俺は冒険者ギルド運営者としては認知されていないのだ。
「なるほど……ご主人様との距離を近づけるには、そのような手法もあるのですね。しかし、あえて苦言を申し上げるなら、胸元が開いた服でその距離感は、淑女の嗜みとしては少々問題かと……」
「弟くんを信頼しているから……っていうのは、なかなか通じないのよね。最初に会った頃からずっと心に入る隙間がないというか。それは、最近になって事情は理解できたんだけどね」
セレーネが視線を送る先には、店のホールで竪琴を奏でている師匠の姿がある。今までそんな話を聞いたことは無かったのだが、長い人生の中で彼女は俺がまだ知らない経験をいろいろと積んでいるそうで、店の手伝いの一環として音楽の演奏を始めたのだ。
「あんな完璧な女の人が生き方を教えてくれたなんて言ったら、当然そういうことも……って思ってしまうわよね。無粋な勘繰りと分かってはいるけれどね」
「本当に……私もディック殿ともっと早く知り合っていたらと思うと、少なからず嫉妬の感情を禁じえません」
「何を想像してるんだ……俺はだいぶ昔からあまり変わってないぞ。もっと前に知り合ったとしても、生意気な子供だと思うだけなんじゃないか」
生意気というか、生きることを諦観していたというのか。今にして思えば、俺の悩みは狭い世界におけるものでしかなかったと分かるのだが、師匠がいなければそこから抜け出すことはできていなかっただろう。
しかし皮肉めいた俺の物言いにも、ヴェルレーヌとセレーネは顔を見合わせて楽しそうに笑い合う。どうも、俺が何を言っても好意的に取られてしまう状況が続いている――一人で『クヴァリス』を撃退しようとした後から、皆が一様に優しい。
理由が分かっているからこそ、落ち着かないというのはある。一緒に戦った皆に、そうでなくても心配してくれた仲間たちに、それぞれ改めて礼くらい言うべきだろうか。
「……私がリムセリットさんの立場だったら、弟くんをもっとこう、自分だけを見るように教育したりしたんじゃないかと思うんだけど。ヴェルレーヌさんもそうでしょう?」
「そ、それは……こほん。私は五年前のご主人様でも、少年として以上に、自分を倒した勇者の一人として見ているので。教育するというよりは、ご主人様が一人ではないのだということを実感させてあげられれば本望と言いましょうか……」
どういう想像を巡らせているのかと思う――そもそも俺が強くならなければヴェルレーヌの護符を預かったりしていないのだが、それを指摘するのは無粋だろうか。
「……ああヴェルレーヌ、お客さんが待ってるぞ」
「はい、では行ってまいります。最後の勝負を見届けられないのは心残りですが」
品良く微笑み、ヴェルレーヌは店主の顔に戻った。王都の婦人の世間話も問題なく通じるのだから、彼女の適応力には恐れ入る。
「おや、このお店はいつから賭博場のようなことを始めたのかな?」
話しているうちに、皆が来店したことには気づいていた――コーディだけでなく、その後ろにはアイリーン、ミラルカ、ユマが揃っている。
「ちょうどアイリーンちゃんが来てくれないかなって話してたんだけど、四人もいるならお姉さんとっても心強いわ」
「……ディック、セレーネさんにどんなお酒を飲ませたの? 変な酔い方をしているみたいだけど」
「いや、普通の潤しの杏の乙女椰子割りだけどな。勝負に酔っているっていうのはあるかもな」
「もー、ディックったら真面目な顔して上手いこと言っちゃって」
「勝負ごとの熱狂は、アルベインの神も好むと言われています。戦を司る女神様ですので」
セレーネは皆の話を嬉しそうに聞いている。彼女はすでに、四人を勝負に巻き込む気でいっぱいのようだった――さっぱりした笑顔で俺の肩に手を置いているコーディも、遅れて厄介なことになったと気がつくのだろう。
「ディー君、聞いててくれた?」
「お父さん、リムお母さんが楽器を弾いてるところ、とっても素敵だったよね!」
師匠は竪琴の演奏を終えて、ウェイトレスをしていたスフィアと連れ立ってやってくる。
「あ、あれ? 何かいい雰囲気の曲が流れてるなとは思ってたんだけど、もしかしてリムセリットさんが弾いてたの……?」
「うん、こう見えても昔は流浪の楽師なんて呼ばれてたんだから。今流行ってる曲は分からないから、古いわらべ歌を雰囲気だけ今風にして弾いてたんだけどね。あ、そうだ、ユマちゃんも今度一緒に歌ってくれない?」
「はい、ぜひスフィアさんも一緒に。孤児院のほうでも演奏に来ていただけたら、子供たちもきっと喜びます」
「僕は音楽方面はあまり得意じゃないから、見ているだけになってしまうね」
「あなたは夜会の貴公子なんて呼ばれるくらいダンスが上手じゃない。アイリーンは鬼族の祭事で、拳舞を披露したりしていたんでしょう」
コーディは騎士団長として振る舞うために努力をして、俺と舞踏の稽古をしたこともあった――男同士でどうかと思っていたが、女性だったと分かった今となっては、大胆な振り付けを遠慮なくやっていたことが懐かしく思える。
アイリーンが故郷でどんな暮らしをしていたかは、未だに詳しく聞いていない。たまに家族の話や村のことが話題に出るが、アイリーンの父親が族長であるという意外はほとんど知らないままだ。
「……ディック、もしかして興味を持ってくれてたり……?」
「ま、まあ長い付き合いだしな。一度はアイリーンの故郷を見てみたいって気持ちはある」
「近い内にコーディおか……お父さんの故郷にも行くんだよね。お父さん、行くところがいっぱいで楽しみだね!」
一応営業中の店内ということで、コーディの正体がばれないようにスフィアはすぐに訂正する。コーディの故郷に行くのは明るいばかりの理由ではないが、彼女が生まれた場所ということ、大切な場所だということに変わりはない。
「私は王都の生まれですから、ここが故郷ということになりますね。ミラルカさんも……」
「そうね……父は王都の生まれだから。私も、王都が故郷と言っていいわね」
ユマに答えるミラルカの返事は、どこか歯切れのよくないものだった。彼女は父親のことを話すことはあるが、母親のことが詳しく話題に出たことがない。
一緒に住んでもいないようなので、何か事情があるのかもしれない――しかし詮索するよりは、ミラルカが話したいと思った時に聞ければいいと思うし、そう思わないのなら無理に知ろうとするべきではない。
「ミラルカも何か楽器やったことあるって言ってたよね、子供の頃に」
「ええ……鍵盤を少し。母が弾く人だったから、少し教えてもらっていたわ」
「お母さんも楽器が弾けるの? すごーい、私も練習したらギルドの人たちで楽団みたいにできるかな?」
「まあ、それぞれできる楽器はあるだろうけどな。俺は草笛くらいしか吹けないぞ」
「弟くんに合ってる楽器っていうと、口風琴とか? 哀愁漂う音色でいいわよね、弟くんみたいな陰のある少年が吹くと」
適当に誤魔化そうと草笛と言ったのだが、セレーネの言う楽器には触ったことがあった。村の子どもたちが参加する楽団で必要になるからということで、兄から貰ったのだが――俺は結局楽団に参加することはなく、このギルドハウスにやってきてからはどこに仕舞ったかも忘れてしまった。
「あ、遠い目をしてエール飲んでる。ディックってこうなると、後ろから捕まえたくなるよね」
「とりあえず、僕も一杯もらおうかな。セレーネさんの勝負はまだ終わってないようだから、見守るとしようか」
「そう、まだ私は負けてないから。でもお店も忙しいし、ここは一度場所を変えて、月が空の中心から傾くころに決着をつけない?」
詩的な言い方をしたいようだが、つまりうちのギルドが所有する別邸に行きたいということだろう。確かに営業時間内は俺も落ち着いて飲んでいたいので、そこは反対する理由はない。
「セレ―ネさん、お父さんとどんな勝負をしてたんですか?」
「よくぞ聞いてくれました。この銀のカップにサイコロを二つ入れまして……」
二つのサイコロを振って出た目の合計が奇数か偶数かを賭ける勝負だ。三回で一勝負で、同じ側に賭けてもいいが、必ず一度は相手と違う側に賭けないといけない。
セレーネは俺より先に賭けたり、俺が賭ける側を見てから違う側に賭けたり、何も考えずに同じ方に賭けたりと頑張っているが、今のところ見事に全敗している。俺の運がいいわけではもちろんない。
ヴェルレーヌが忙しそうにしていて、飲み物のオーダーを新しく受けるのは大変そうだ。俺はエールをもう一口飲んで喉を潤し、席を立った。
「スフィアちゃん、私たちはもうちょっと頑張ってお仕事しよっか。ミヅハちゃんがお休みだからお手伝いしなきゃ」
「うん、わかった。お母さんたち、ゆっくりしていってね」
師匠とスフィアが働いているのを見ると他の皆も手伝いたくなるようだが、最初の一杯くらいはゆっくり飲んで一息ついてもらいたい。
「ディック、オーダーはおまかせでいい? 私は麒麟乳酒が好きだけど、せっかくだから今日は別のにしようかな」
「甘口がいいか、辛口がいいか? こういう切り口では普段オーダーは取らないんだけどな」
「僕はエールがいいな。他のお酒と合わせると酔いが回りやすくなるっていうから、なかなか他のお酒を試せないんだけどね」
「コーディさんは、ディックさんと同じものがいいんですよね。私も大人になったら、一度はエールを飲んでみたいです……神に身を捧げる者としてはいけないことなのですが」
実は酒精のないエールというものも開発しているのだが、酔わないと意味がないという客が多いので需要は少ない。しかしユマに気分を味わってもらう意味では、そういった酒を作ることに大いに意味がある。
「ユマがジュースしか飲まないのだから、もう一人くらいしらふの方がいいかもしれないわね」
「いえ、私のことは気になさらないでください。この人いきれの中で魂の熱気を感じていると、それだけで気分が昂揚してきますので」
ユマは微妙に顔が赤くなっている。彼女は魂を鎮めることも得意だが、魂の波動であるところの、他人の感情に共感する能力も優れている。雰囲気酔いというのがあるが、ユマの場合は本当にほろ酔いになると言っていいわけだ。
「そう……それなら、私もアイリーンと同じように、おまかせでお願いできるかしら」
「ああ、分かった。ちょっと待っててくれ……セレーネもお代わりは必要か?」
「負けが込んでる状態で大変申し訳ないんだけど、私もお任せできたら嬉しいなって。弟くんって本当に優しいわよね」
一応遠慮はあるようだが、この状況で優しいと言われても素直に受け取りづらい。一応彼女の出身地などを考慮して、口に合いそうな酒を作ることにした。




