第二話
翔太の姿で学校に行くと、愛香は机に突っ伏した。いつも彼がしているように。寝たフリ。こうして、何事もなく過ごせるように祈りながら、周囲の声に耳を尖らせた。
クラスメイトが登校してくる。五味も来た。愛香の姿をした誰か――偽物も登校してきた。いつも一緒にいる矢田真紀、広井小町、井口翼、高山優花も来た。愛香も含め、クラスの中心にいる女子達。
ホームルームは何事もなく過ごすことができた。すぐに一時間目の授業が始まった。
愛香の偽物は、特に違和感なく過ごしていた。別人に入れ替わっていれば、どこか変なところが出てくるはずなのに。周囲に「今日、どうしたの?」と訊かれることもない。
愛香自身の目から見ても、偽物は、上手く愛香になりすましているように見えた。愛香本人から見れば、そりゃあ少し変だ。こんなの私じゃない、と口に出したくなる。それでも他の人には、いつもの愛香と同じに見えているようだ。
一時間目の授業が終わった。
授業と授業の間の小休止時間に、偽物は、いつもの面子と話していた。五味と、他の四人の女子。綺麗な笑顔を浮かべて、周囲の女子と笑い合っている。
愛香の体に入っているのは、翔太ではないように見えた。愛香の知る限り、翔太は社交的ではない。いきなり女子の輪に入って、あんなに滑らかに喋ることなどできないだろう。
では、一体誰が、愛香の体に入ったのか。
愛香の体に入っても自然に生活できるのだから、たぶん女子だろう。愛香はそう仮説を立てた。さらに、普段の面子と自然に話していることから、いつも一緒にいる誰かである可能性が高い。
では、誰が?
誰が愛香の体に入っていても、ろくなことにならない気がする。あの四人の特徴を、愛香は、しっかりと理解していた。
矢田真紀は、外見至上主義の女だ。顔とスタイルのいい男であれば、誰とでも寝る。五味とも肉体関係がある。いつも仲良くしているが、愛香は、彼女のことを、股の緩い馬鹿女だと思っている。
広井小町は、根っからの淫乱だ。生理的に受け付けるのであればという条件がつくが、欲求不満になったら誰とでも寝る。こいつも、五味と肉体関係がある。いつも仲良くしているが、愛香は、心の中で、小町のことを腐れビッチと呼んでいた。
井口翼には、言動が一致しない頭の悪さを感じていた。男の人が少し苦手と言いながら、なんやかんやで男が集まりそうな場所に行く。彼女は、愛香ほどではないが可愛い顔をしている。そんな彼女が男の多い場所に行けば、当然口説かれる。雰囲気に流されて、セックスしてしまう。こいつも、五味と肉体関係がある。いつも仲良くしているが、愛香は、翼のことを、口先と股が個別に行動している女だと認識していた。
高井優花は、SNSで裏アカウントを作成し、自分のヌードをアップロードしている。もちろん顔は出していないが。アップロードした投稿には、色んな男からコメントがつく。その中から近場にいる男を見つけて、度々会っている。もちろん、セックスもしている。こいつも、五味と肉体関係があった。いつも仲良くしているが、愛香は、優花のことを、ただの変態女だと断定していた。
――あの四人の誰かが、私の体に入っていたとしたら……。
想像して、愛香の血の気が引いた。
愛香は五味と付き合っている。セックスも大好きだ。しかし、勝ち組と言える将来を掴むために、最低限の節度は守っていた。付き合った男以外とはセックスしない。それさえ守っていれば、男性遍歴――もっと言うなら、肉体関係があった男遍歴――を訊かれても、後ろめたさなど微塵もなくこう言える。
「付き合った人としかしてないよ。だって、好きな人じゃないとできないもん」
さらに、付き合った男と別れた理由も用意していた。
「なんかね、私って、外見の割りに地味でおとなしいらしくて。つまらないって言われて、フラれたの」
言いながら涙でも流せば、男はコロッと騙される。いつの時代でも、男は美女の涙に弱い。
でも、もし、この四人の誰かが、愛香の体に入っていたとしたら。
間違いなく、付き合っている男以外とセックスしてしまう。
そんな話が、将来結婚する男の耳に入ったら。
勝ち組と言える人生が、揺らぐかも知れない。
愛香の心に、当然のように焦りが募った。早く、翔太が誰になったかを特定しないと。
現時点で断言できるのは、愛香の体に入っているのは翔太ではないということだけだ。翔太では、あれほど上手に愛香になりすませない。
――じゃあ、誰になったの?
もし翔太が、愛香の知らない誰かになっていたら。
そうなったら、もうお手上げだ。
込み上げる焦りと、翔太になったことへの恐怖。自分の体が変なふうに使われるかも知れないという、憤り。心が毟られるような感情を抱えながら、愛香は、必死に、クラスメイトの観察をした。授業など聞いていられなかった。
四時間目終了のチャイムが鳴って、昼休みになった。
愛香は鞄から弁当を取り出し、口の中に一気にかき込んだ。翔太の母親が用意した弁当。ゆっくり食べている暇などなかった。食べたらすぐに机に突っ伏し、こっそりとクラスメイトを観察する必要がある。
昼休みが始まってわずか四分で、愛香は弁当を食べきった。弁当箱を鞄にしまい、机に突っ伏し、クラスの様子を探った。
五味と偽物、他の女子四人は、和気藹々と昼食を食べている。他のクラスメイトの声にも耳を傾けるが、翔太らしい発言は聞こえない。翔太になった愛香には、彼の記憶がある。彼の人となりも分かっている。けれど、誰が彼なのか分からない。
昼休憩に入って、二十分ほど経っただろうか。
五味達が、翔太に――愛香に近付いてきた。彼等が何をする気なのか。そんなことは分かり切っている。昨日まで、愛香自身がしていたことなのだから。
「おら! 起きろや! 食後の運動の時間だ!」
言って五味は、机に突っ伏した愛香の頭を思い切り叩いた。彼は運動神経がよく、力も強い。対して、翔太の体は小柄で、力も弱い。思い切り叩かれ、愛香の――翔太の体の――額は、ゴンッという音を立てて机に叩き付けられた。
「ぃ……っ……」
あまりの痛みに、声が詰まる。
五味は、震える愛香の襟を掴み、椅子から引き釣り降ろした。
「おら、川野。今日は四つん這い鬼ごっこだ」
床に尻餅をつきながら、愛香は五味を見上げた。二枚目だが、下劣で醜悪な笑顔。自分の体にいたときは、彼のそんな顔も悪くないと思っていた。けれど、翔太の目から見た五味は、ゾンビにすら劣る醜い怪物だった。
――私は、こんな奴と付き合ってたの?
愛香は、五味が好きなわけではない。ただ、現時点で一番都合のいい男だから、付き合っただけだ。それでも、こんな男と付き合っていたことに、吐き気すら覚えた。
吐き気すら覚えるほどの嫌悪感が、愛香に、反抗心を持たせた。
「誰がやるかよ! ふざけるな!」
愛香の記憶にある限り、翔太が五味に反抗したことはない。泣きながら「やめて」と懇願したことはあっても。
「……あ?」
反抗した翔太に、五味は、一瞬だけ驚いた顔を見せた。直後、苛立ちを全面に出して怒鳴った。
「誰に言ってんだ!? てめぇ!」
言葉と同時に、顔面に蹴りが飛んできた。五味の足の裏が、愛香の顔面に叩き付けられた。
尻餅をついていた愛香は、蹴られた勢いで、床に仰向けに倒れた。潰れた蛙のような格好になった。
立て続けに五味は、愛香に、足の裏を叩き込んできた。
「なに調子に乗ってんだ!? チビブタのくせに、俺に逆らうんじゃねぇよ!」
何度も何度も、踏みつけられるように蹴られた。体を丸めて痛みを堪えようとしたが、とても耐えられるものじゃない。愛香の目から、涙が零れてきた。涙に続けて「ひぐっ、びぐっ」という嗚咽も漏れてきた。痛みと屈辱、怒りと惨めさから流れた涙。嗚咽。
泣く愛香を見て、五味はまた口の端を上げた。しゃがんで愛香の襟を掴み、顔を近付けてくる。
「おら、ブタ。お前に謝罪するチャンスをやるよ」
「……」
「すみませんでしたって謝って、四つん這いになれよ。そうしたら、今回だけは許してやる」
「……」
体を何度も蹴られるのは、想像以上に痛かった。これ以上蹴られたら、どうなるのか。骨折するかも知れない。もしかしたら、死ぬかも知れない。川野翔太として、人生を終えることになるかも知れない。そして、愛香の体に入った偽物は、このまま愛香として生きてゆくんだ。
そんなのは、絶対に嫌だ。こんな体のままで死ぬわけにはいかない。
「……すみませんでした……」
愛香は涙声で、喉から言葉を絞り出した。命令通りに、四つん這いになった。
五味の言う「四つん這い鬼ごっこ」とは、翔太を四つん這いで走らせ、五味達六人で追いかけ回すという遊びだ。通常の鬼ごっこは、タッチで鬼が入れ替わる。でも、この鬼ごっこは、タッチなどしない。尻に蹴りを入れられる。そして、鬼が入れ替わることもない。
「よし。じゃあ、十数えるから、その間にできるだけ逃げろや。あ、教室の外に出るのは反則だからナシな」
涙を流しながら、愛香は、四つん這いで教室の中を這いずり回った。五味が十を数え、愛香を追ってくる。真紀や小町、翼や優花も追ってくる。もちろん、偽物も一緒に。
六人が愛香を追いかけ回し、尻に蹴りを入れる。愛香が必死に逃げる姿を笑い、蔑み、追い詰め、暴行を加え、また逃がし、追う。
徹底的にいじめられ、嬲られて。
愛香は初めて、翔太の気持ちを理解した。彼の記憶を共有しているから、いじめられる辛さを理解したつもりだった。でも、過去の記憶と現在の体感は、まったく違う。地獄としか言いようのない時間。
初めて理解できたからこそ、許せなかった。
――私は、勝ち組になる女なのに!
そんな自分を、こんな目に遭わせた翔太。彼のことは、絶対に許せない。
必ず翔太を見つけ出してやる。見つけ出して、元の体に戻させて。
――その後に、ぶっ殺してやるんだ!




