星読みの間にてさようなら……2
いろ葉はワカバが言っていたことを思い出していた。
学校の裏庭がここに似ていると。
似ているのは木があるということだけで、ときわの森はもっと深く、葉擦れの音も小鳥の声が似合うものではなく、心を不安にさせるものだ。なにより頭上にあるはずの太陽が、その光をやっと零す程度の明るさしかなかった。
だけど、一人にしてくれるという点で、それは肯定の意味を持っているとも感じられる。
ひとり、ここにいる。誰にも邪魔はされない。自身が進まなければ、何も動かない。誰も何も言わない。
そう思えば、あそこは確かにここに似ている。
二人の話を聞いた後、ラルーに連れられ、いろ葉はときわの森を歩いていた。ワカバが住んでいた家に行くのだ。
鈴を転がすような鳥の声、カサカサと思い出したように擦れる葉。雨など降っていないのに、うす暗い道は踏みしめると、水が染み出す。
だけど、泥濘みに足を取られることはなかった。苔や落ち葉がいろ葉の足を護ってくれるのだ。そんな森の中を歩いていると、きっと、ワカバにとってルオディックという人は、泥濘みに足を取られないように護ってくれるような人だったんじゃないだろうか、といろ葉は思えるようになってきた。
ルオディックという人は、人を簡単に信用する人物ではなかったこと。ワカバを魔女として怖がることなくワカバと一緒にときわの森まで旅をしたことのある人物であること。
本来ならルディの館の領主として後を継いでいたはずなのに、ワカバが過去に生まれたせいでそれが叶わなくなった人物。
「ルディよりも彼の方が信頼に値する人間だと思いますわ」
とラルーがにっこり笑って最後に付け足された言葉も、いろ葉に印象深く残っている。きっとこの感想が一番、彼を物語っているのだろう。しかし、いろ葉にとってワカバの味方であると分かった時点で、ルディもすでに信頼できる者に思えるのは確かだ。
しかし、この森を歩いているうちに、思うようになったのだ。
この森は、ルディのように温かくて眩しいイメージはない。だけど、何にも揺るがない信頼感があるような気がするのだ。
きっと、魔女狩りが盛んに行われていた時代に魔女を信じることの出来た人物は、この森のような人なのだ、と。
ワカバが魔女でなく『ワカバ』であるために必要な人だったんだ、と。
景色が一変し、穏やかな光に満たされる拓けた場所に出た。一瞬、その日射しに目が眩んだいろ葉だったが、手をおでこに翳して見ると、そこには大きな木が一本佇んでいた。光に慣れてくると、とても柔らかな光に包まれる場所だということが分かった。穏やかで緩やかな、自分の時がただただ赦されているような。
ラルーがそれを仰ぎ見たので、自然といろ葉も真似て仰ぎ見る。
今まで見た木々のどれよりも堂々と、空を持ち上げるように枝葉を広げる巨樹だ。何百年もの間。ここでここを護っているのだろうなということを感じさせるその巨木は、どこかワカバのようにいろ葉を優しく見守ってくれているように思えた。
ワカバはどうなったのだろう……。
そう思うが、ラルーの話に裏打ちされている偉大なワカバの心配は、やはり浮かんでこなかった。それよりも、いろ葉は自分の心配をしている。
なんて勝手な奴なんだろう。
「いろ葉さん?」
ラルーの声にハッとしていろ葉は慌ててラルーを追いかけた。こんなところではぐれたら、大変だ。ワカバに会う前に、獣に食われてしまう。
そして、また鬱蒼とした森の中に潜り込む。しばらく歩くとワカバとラルーが住んでいる家に着いた。敷地を標すかのように突っ立っている木の押戸を進み、テラスのついた蒼い屋根の小さな家の前に立つ。玄関までは石段が三段。ラルーは懐かしむような表情を浮かべながら、玄関の扉を開き、いろ葉を招いた。入って右手には二階へ階段があり、その階段の下には扉があった。ラルーがその扉を一瞥したのでいろ葉も同じように見つめる。
「ここで、あの子とよく焼き菓子を作りました」
不意打ちのいろ葉は、言葉の半分以上を呑み込んで「はい」と答えるのが精一杯だった。
「昨日、召し上がった焼き菓子はあの子が作ったものです。もちろん、あなたに出会う前のワカバですけれど」
この頃のワカバは、いろ葉の世界に気づき始めた時分……。ラルーからいろ葉の世界の存在を知らされて、必死になって過去を駆けずり回っていた頃。いろ葉の世界を未来の『ワカバ』からラルーが知らされていただなんて、今のワカバは気づいてもいない。
そして、一昨日前にもお菓子作りをして。
「行ってきます」と言って。
おそらく、もうラルーの元には戻ってこないのだろう。ラルーは自身の髪にそっと触れ、思う。もう、必要ないとされた色。トーラからの解放の意味を込めての色。
「あなたに食べて欲しかったのだと思うのです」
いろ葉はそんなラルーの僅かな機微には気づかない。だから、ラルーはそのまま「こちらへ」といろ葉を案内した。廊下の奥にある図書室へは五段の階段を下りて、たどり着いた。てっきりそこが最終地点なのかと思っていたら、違った。ラルーは一冊の本を取り出して、いろ葉に手渡した。
「これがあなたの世界ですわ」
金色の鍵穴に護られた本。その本を胸にラルーはさらに来た道を戻った。
焼き菓子を作ったと言っていた扉の向こう、キッチンを裏口からぬけて、裏庭に出ると、井戸があった。
「時の井戸と申しますの。あの中には様々な時が湧き出ては流れていくのです。世界を落とさないようにしてくださいね」
ラルーがその井戸の端に立つ。いろ葉もそのラルーを真似て、井戸に近づき、真っ暗なその世界を見つめた。水の音が聞こえた。水面は見えないが、真っ暗なその奥に光る何かがある。目を凝らそうとすると、ふと体が軽くなったことに気がついた。
落ちた、と思った時にはすでに浮遊感がいろ葉の回りにまとわりついていた。井戸の水の中に落ちたのだと思った。そして、狭い空間から光が失われた。暗闇に必死になって手足で水を掻き、水上へと戻ろうとするが、全く体が上昇していかない。いろ葉の手から本の厚みが消えている。口を開けると、あぶくが、僅かな光に輝き水面へ向けて、上っていく様子が見えた。そして、不思議なことに気が付いた。
息ができるのだ。
いろ葉は満天の星空の中にいた。光っているのはあぶくではなく、星なのだ。ただどこまでも広がる空間に浮遊している。しかし、体は動くが、思うように進めない。初めて泳ぐ子どものよう。息はできるが、どこにいるのかは全く分からなかった。
しかし、怖くはなかった。誰に会うのかも分かっていた。やっと自分自身の重力の方向が分かり始めた時にいろ葉は人影を見つけた。それは、いろ葉がとても会いたかった人物。
ワカバ……。
遠く、ワカバがぽつねんとして立っていた。
見上げた空に輝く光。満天の星をただ見上げ、いろ葉に気付いたワカバは静かに微笑んだ。
「おかえり」
ワカバがいろ葉を認識したからなのだろうか、いろ葉の意志が許されたかのようにして、いろ葉の歩みが許された。
「……ただいま」
静かな場所だった。だから、静かに囁いただけなのに、二人の声が広がる。消えてく。
「ごめんね、10秒って言ったけど、少しだけオーバーしてる」
ううん。
いろ葉は頭を振った。ワカバが10秒と言った言葉は、確かにいろ葉の世界では10秒なのだろう。そして、その10秒はここで果穂がバケモノになってしまった10秒。
ワカバがいろ葉から奪った時間が果穂をバケモノにしなくなる。きっと、いろ葉がどんな過去を選ぼうとも、果穂はバケモノにはならない。
それを少しだけオーバーしたからって、謝らなくてもいい。いろ葉はそんなことを言葉に出来ないまま、ただ、頭を振った。それよりも、……。いろ葉は縋るようにして、次の言葉を紡いだ。
「私、ワカバのこといっぱい知らなくて」
いろ葉の言葉にワカバはやっぱり微笑んだ。切ない微笑みだった。いろ葉の出会った魔女なんてワカバとラルーしかいない。それなのに、二人とも切ない微笑みをいろ葉に向ける。
「あのね、ワカバが大切にしている世界見てきた。あのね」
……酷いこと言ってごめんね。だから、友達でいて欲しいの……。消えないでいて欲しいの。
いろ葉が言葉を続けようとすると、人差し指を唇に当てたワカバがそれを制した。
「いろ葉が知る必要のない世界だったの。ごめんね、飛ばしちゃって。もっと上手くやるつもりだったんだけど、結局、力業になっちゃった」
やっぱりいろ葉は頭を振った。違う。ワカバが謝る必要なんてない。私はワカバのこと何にも知らないくせに勝手に羨ましがって、勝手に避けて、きっといっぱい傷つけたんだ。
ワカバが納得いかないのは、私が素直にならなかったからだ。
ワカバは私を護ってくれていただけなのに。
だから、いろ葉は頭を思い切り振ったのだ。それなのにワカバは寂しい笑顔でいろ葉を見つめていた。
「そして、これもわたしのわがまま。ごめんね、付き合わせて」
何が我がままなのかいろ葉にはさっぱり分からなかった。ワカバが勝手に消えようとすることだろうか。それなら、わがままなんかではなくて、ワカバが優しいからなんじゃないの?
しかし、視線をいろ葉から外したワカバの雰囲気が魔女然としたように思えた。
教室でいろ葉が感じた疎外感によく似ている。あなたと私は違うのよ、と言われているような。だけど、いろ葉は自分を鼓舞して言葉を続けようとした。負けてたまるか、ずっと鳴りを潜めていた、いろ葉の負けん気がやっと芽吹いた。
あのね、私ね、ワカバにも……。
それなのに、ワカバはさらにいろ葉の言葉を制する。
「いろ葉」
はっきりと響くワカバの声に、いろ葉は身を竦ませた。とても冷たい。敵わない。
「わたし、『あなたの世界』を滅ぼしたわ」
突然の言葉に、いろ葉の頭が真っ白になった。瞬きも忘れてワカバを見つめるが、ワカバは一向にいろ葉の方に視線を向けない。
「ワカバ?」
負けたくない。だけど、ワカバらしからぬ雰囲気にいろ葉は負けてしまいそうだった。
「言葉通り。元々わたしはこの世界がわたしの世界を奪うのならば、消してしまっても構わないって思ってた。だから、別にいろ葉が謝らなくちゃいけないことなんてないの」
そんなワカバの冷たい言葉が耳に流れる。だけど、違う言葉が脳裏に浮かぶ。
あなたはトーラじゃなくて人間だから、望んで……。この世界なら、トーラが全ての人に備わっているこの世界なら、あなた一人が生きていればこの世界の全てが繋がるわ。
手を伸ばしてワカバに触れようとするが、いろ葉には触れられない気がした。
「ワカバ?……」
いろ葉の世界がどうでもいい世界だなんて、ワカバが思っているわけがない。それに私、ちゃんと考えてきたんだから。
私ね、みんなのいる世界が……。
ねぇ、ワカバ……。
「世界を創ることは、そんなに簡単なことじゃないのよ。一つ駒が増えるだけで何かが消えるかもしれない。それが、あなたかもしれない」
いろ葉の声にやっといつもの視線をくれたワカバだったが、その声色は違っていた。
「不安定なあなたの望みがどれだけ完璧だと思う? 生きたければ、望みなさい。ただ、生きたいと。そして、願いなさい、あなたの生きる世界を」
いろ葉はただ静かに頭を振る。嘘ではないことは分かっていた。だけど、どこかでそんな恐ろしいことをワカバがしたなんて思いたくないのだ。それを否定したいのだ。
「つまらないことを考えていたら、全部消えてしまうから。望まなければ、失われてしまうわ」
「本当に、消しちゃったの?」
ワカバがゆっくり頷いた。
「嘘……」
「ほんとう」
「みんないなくなったの?」
言葉にすると、胸が冷えた。
ワカバが静かに頷くと、いろ葉の瞳に涙が溢れる。
「だから、望んで。わたしが書き換えただけの世界には、あなたの望むものすべては存在しないの」
ワカバがそう言った瞬間から、いろ葉の足元が急に崩れ始めた。天を掴むが何も掴めない。ワカバだけが残されて、墜ちていく。息も出来ない。星空だと思っていた場所が海の底だと気付く。星だと思っていたものが、空に昇るあぶくだと気付く。喘ぐいろ葉の脳裏には「望んで」と言ったワカバの微笑みだけが焼き付いていた。
望まなければならないのも、分かる。ワカバもいろ葉も崖っぷちに立っているのだ。
ワカバは、そんなことするはずないと思っていたのに。
そんな何の保証もない期待が、裏切られたという気持ちでいっぱいになっていた。
なんて弱いのだろう。負けたくないとあれだけ望んだのに。ワカバの望みなんて叶えないんだからって、あんなに思ったのに。
実際に失われたと言われ、自身の命の危険すら感じたら、この様だ。そう、どうしようもなく、いろ葉はいろ葉の世界を望んでいる。
みんなは?
お母さんは?
お父さんは?
果穂は?
みつるは?
……空木春陽は……?
色々な顔が現われた。思い出したくない顔もあるのに、瞬く間にイメージが膨らんでいく。
いろ葉の見つめる先には光がなかった。光は……
見上げれば、ワカバが手を伸ばしていた。その手を取れば生きることができる。その手を取れば、叶えられるのだ。
直感的にそれは理解できた。
そして、それはワカバの望みなのだ。
「どんな世界だって叶えてあげるわ」
涙が零れる。
どうしてそんなに泣きそうなの?
違う、いろ葉は目の前のワカバを見つめてそう思った。ワカバが望む世界を望めない自分がいるから悲しいんじゃないだろうか。ワカバはそれを知って、望めと言うんじゃないだろうか。だから、ワカバも泣きそうなんだ。
だけど、勝手に消えるって、本当に残酷なことなんだからね。
いろ葉は、一生懸命言葉を選んだ。ぼろが出ないように。完結に。間違えないように。
勝つ必要なんてない。私が望むのはたった一つ。ワカバが世界を滅ぼさないことは、知っている。私は、ワカバを知っているんだから。
たくさん、ワカバのこと考えたんだから。
いろ葉は思い切り手を伸ばした。
「返して……私の世界を……」
いらないと思っていたもの全てをいろ葉は望んだ。いらないのに……いらなかったのに。ワカバのせいで、必要な世界になってしまったのに。ワカバが来たという記憶が、ワカバみたいになりたいと思ったあの世界が、いろ葉にとって愛おしいと思ってしまう。どうして、最初に出会った時に言ってくれなかったの?
あの時だったら、私、ワカバの世界を選んであげられたのに。
だから、いろ葉は望んだ。この世界には必要のない、一つの記憶を。
いろ葉が今のいろ葉であるための全てを。
「……ワカバ、私、ワカバを覚えておきたい、だから、私の記憶、消さないで」
ワカバの瞳が僅かに丸くなる。
「本当に、それでいいの……ね?」
いろ葉はワカバに力強く頷いた。そして、ワカバが困ったように微笑む。それでも深く頷く。
白い光が広がった。それはワカバが沈んでいくいろ葉の手を掴んだ瞬間だった。
いろ葉を依り代に世界が埋められていく。
「いろ葉の望む世界を」
ワカバの澄んだ声とともに、世界は光に奪われた。
どこかで、わたしじゃないトーラが全てを変えればいいのにって思っていたのかもしれない。
ねぇ、いろ葉、……。
いろ葉はこの世界が好き?
いろ葉が好きな世界なら、その望み、全部私が叶えてあげるわ。
いろ葉に悪知恵をつけたのは、ラルーね。隙がないこの答えはいろ葉が出したんだろうけれど、やっぱり、あっちの世界になんて避難させるんじゃなかったわ。
だけど、信頼できる場所なんて、あそこしかないし。要するに負けはしなかったけれど、勝ちもしないいつものわたしなんだけど。
どれだけ、あなたに未来を変える力があるのか分からないけれど、少しでも長くこの世界が続くことを祈っておくから。
いろ葉……だけど、覚えておいて。
わたしは、決して味方ではないの。
光が世界を包み、世界が紡がれる。
この世界にもいずれ滅びがやってくる。それは、わたしが見た未来。
だから、この世界が終わるその時に、わたしはもう一度誰にも負けない夢を見るの。いろ葉が覚えていなくても、忘れてしまったとしても。
いろ葉の世界では人類全てがトーラの欠片を抱えているから。トーラはより強い願いに引かれてしまうものだから。
「いろ葉、わたしはわたしの世界が大好きだったの。だから、初めからすべてを諦めて負けようとしていた訳じゃない」
……だから、……
……護りたいのなら、負けないで。わたしは、いろ葉のことも大好きだから。
いろ葉にも消えて欲しくないから。




