それぞれのわがまま。……3
いろ葉はぽかんと口を開けたまま、聞いた話を飲み下そうとしていた。よく分かるようでよく分からない。聞いた感想がそうだったのだ。だけど、そのアナという人が望んだ世界がこっちの世界だったのだとすれば、いろ葉のいる世界は間違いの世界になる。
「じゃあ、こっちの世界の方が正解ってことなんですか? あ……でも」
そう言いながら、アナの望んだ本当の世界がいろ葉の世界だったとも言えると考え直す。
「さぁ、どちらの世界が正解かなんて、もう分かりませんわ。それぞれの世界に正解があり、それぞれの魔女がその世界を正解としていたのですから。なによりも、そこで生きた人たちの人生が不正解だなんてことはありませんわよね」
確かにそうかもしれない。だけど、いろ葉の生きた人生が正解かと言われれば、自信がない。いろ葉がこの先、その人生に正解を見つけられるかも分からない。口をつぐんだいろ葉に、ラルーは優しく微笑んだ。
「だけど、ワカバは大切な者がいるこちらの世界を正解だとするでしょうね。世界を紡ぐ者とはそういう者であるべきでしょう」
それでもいろ葉はよく分からない。だから、ラルーに尋ねたかった最初の質問に戻った。
「ワカバの大切な人の中に、ルオディックさんはいるんですよね……」
蒼い瞳の、蒼い石の、蒼い海の……ワカバがとても大切にしている色を持つ人。
「その人って、」
「彼はこの世界でしか存在できない時の遺児。ワカバが唯一、時からはみ出させた、彼女の大切な存在でした。だけど、もう他界して長いですわ」
いろ葉が尋ねたかった言葉よりもずっと別の言葉がラルーの口から現われた。いろ葉はせいぜい『好きな人』くらいのイメージだったが、そのラルーの口調はそんな簡単には言い表せないような雰囲気を持っていた。「時の遺児……」そんな中、いろ葉は自分の世界では使われたことのない言葉を復唱していた。時を超えて存在できない悲しい存在。いろ葉の脳裏にルディの言葉が甦る。
ワカバの存在を望んだルオディックは、もちろんこの世界を望んでいる。
ラルーはそんないろ葉に優しい微笑みを向けながら、静かにその言葉の意味を伝える。
「時の遺児とは、世界が書き換わる時に生まれ、時間に取り残される存在のことです。例えば……そこにある時間に存在を否定されるような。おしゃべりなルディもそれは言わなかったでしょうね」
静かだった。とても。どこか、懐かしむような。いろ葉には到底届かない何かを秘めていて。きっとラルーの言う言葉が全て理解できたとしても、いろ葉にはその言葉の意味には届かないのだろう。そんなふうに思える。それでも、いろ葉は必死になってその言葉を耳に留めようとしていた。
それが、ワカバを知ることになる、そんな気がしたのだ。
だから、いろ葉はたくさん考えた。
いろ葉が解釈するに、時の遺児とは、本来なら消さなければならない存在なのに、トーラがどうしても消すことの出来なかった存在、なのだ。
いろ葉にも消すことの出来なさそうな存在はたくさんある。
いや、そもそも、存在を消すってどういうことなのだろう。そんなに簡単に人を消せるものではない。
例えば、それが、空木春陽だとしてもいろ葉は躊躇うだろう。
消すって……
いろ葉の中にその言葉は『殺す』という単語と同義、もしくは、それよりもずっと残酷なものとして響いた。そもそも存在しなくなるのだ。
そして、苦しくなった。
いろ葉が、ずっと望んでいたことは、とても残酷なこと。私なんて、生まれてこなければ良かったとは、とても恐ろしいことなのかもしれない。
斜め下に突き刺さったまま動けないいろ葉の視線の先には空っぽのティーカップがある。ワカバがそんなに恐ろしいことをするとは思えない。ワカバは……、いろ葉の知っているワカバは、変だけどいつも誰かのためを思って動いている。
ラルーが言う『トーラ』なんかとは違い、ワカバは人間の力を信じて待っていてくれているような、そんな優しさだってあったんだから。
ワカバは、人の気持ちが分からないから無差別に人の願いを叶えるような、そんな無責任な魔女じゃない。
いつだって、ちゃんと、私のことを考えてくれていて。
ちょっと変なことばかりだったけど。頓珍漢なことばかりだったけど。よく分からないことばかりだったけど。
だから、ワカバがここへ私を飛ばしたのだって、無責任じゃないんだ。
そんなワカバが消えてしまうなんて、そのワカバが大切な人が消えてしまうなんて……。
どうしたら良いのだろう。分からない。だけど、いろ葉は真っ直ぐにラルーを見つめた。
分かっていることは、消したくないということ。
「そして、わたくしはそのトーラによって世界が壊れないように見守る者。いろ葉さん、あなたがどんな世界を望もうとも、止めはしません。ワカバがここへあなたを招待したのでしたら、あなたの下す決断が、ワカバの答えと同意だということなのでしょう」
ルディの言葉が脳裏を掠める。
ワカバがルオディックの存在を望んだように。ルオディックがワカバの存在を望んだように。
いろ葉も、ワカバの存在を望みたい。いろ葉の望む世界とワカバの望む世界は違う。だけど、いろ葉はワカバに消えて欲しくなかった。
それなのに、それを言葉にしても良いのか、それすら分からなかった。
「……どうしたらいいのか、教えてください」
いろ葉の言葉にラルーは少し驚きの表情を見せたが、すぐにいつもの優しい微笑みに戻った。
「いろ葉さんは、どういう未来を選びたいの?」
いろ葉は真っ直ぐにラルーを見つめた。漆黒の瞳はどこまでも真理に近い色をしていた。揺るがない、真理。
いろ葉は、その真理に答えを求めた。
「ワカバとルオディックさんのことを」
二人のことをちゃんと知らないと、いろ葉は、この世界を選べない。だけど、……。
「消さない未来を、選びたいの……」
心なしか、いろ葉に向けられる微笑みが柔らかくなった気がした。そして、ラルーがいろ葉の隣に腰を下ろす。
「消さない未来……難しいですわね」
ラルーの掌がいろ葉のその手の上に載せられた。あたたかい手だった。
「だけど、あなたはあちらの世界のトーラです。先ほどは、どのような世界を選んでも止めないと申しましたが、あちらの世界を消すようなことは、考えてはいけませんわよ」
見上げた先にあるラルーが、いろ葉を見ていた。
「トーラは、世界を消すためにあるのではありませんわ。新しい世界を望むためにあるの。ただし、ワカバは強いですわよ。トーラと言えど、単なる人間のあなたには難しいかもしれませんわ」
「でも」
新しい世界だと、ワカバの世界じゃなくなってしまう。
「ワカバはもう答えを出していますわ。あの子は決してこの世界を諦めたわけではないはずです。だから、いろ葉さんも答えは自分で探してくださいね。他人に与えられた望みでは、ワカバに負けてしまいます。だけど、そうね。アナの望んだ世界以降、この世界のすべてはトーラに委ねられているのは確かです。トーラはより強く望まれる世界に寄り添います。世界を創るその際に、ワカバがあなたに望ませようとしている望みを歪ませることができれば、『消さない未来』に勝機はあると思いますわ」
「でも、私、ワカバのこと知らない。覚えてなくちゃ、過去を変えられないのでしょう?」
優しい笑い声がいろ葉の耳に届いた。
「では、彼らの話もしましょうね」




