ディアトーラのというところ……2
ルディはいろ葉を屋敷へ招き入れると、その後、焼き菓子のお皿と紅茶のような色をしている花の香りのお茶を持ってきてくれた。真っ白い白磁のお皿の上に載せられた焼き菓子には見覚えがあった。
ルディはしきりにその焼き菓子をいろ葉に勧めた。しかし、いろ葉は誤魔化しながらティーカップに手を伸ばす。
一息ついた後、ルディがいろ葉にルタ様という魔女について教えてくれた。ルタという名前だけれど、魔女としてはラルーという名前の偉大な魔女であること。トーラの娘であり、時を護る守護者でもあること。
トーラを護るために存在しながら、世界のためにトーラを斬ることがあること。
だけど、ワカバという魔女はそのラルーにとってはとても特別な魔女さまであることなど。
いろ葉は、従姉妹のお姉さんと言われた『ラルー』に少なからず従姉妹疑惑を持ったが、その疑問はルディには伝えられなかった。
いろ葉の通された部屋にはびっくりするほど大きな金額縁に入った肖像画が壁に掛けられてあったのだ。きっと、書かれている人物の実物よりも大きいものだ。いろ葉はその肖像画に気圧されそうにそれを凝視していた。
「びっくりするでしょ? あの大きさ。僕じゃないよ。あれはビスコッティ様。僕の高祖父に当たる人なんだ」
いろ葉の視線に気がついたルディが笑いながら、答えてくれ、さらに説明を加えてくれた。きっと高祖父?そんな表情をいろ葉は浮かべていたからだ。
「お祖父様のお祖父様なんだって。ビスコッティ様と僕は似ているってよくいわれるんだけど、曾お祖母様だけは曾お祖母様の弟であられたルオディック様によく似ているって、ずっと仰っていたんだ」
ルディの屈託のないおしゃべりはいろ葉にとって、本当に異世界そのものだった。内容は異世界のことではない。自分の曾おばあさんについて、話すことはいろ葉の世界でもあることだ。しかし、こんなに好意を向けて誰かに話しかけられたことはなかった。いろ葉には、その話の中に入り込む話術もないので、その話をただ感心して聞くしかなかった。そして、手をつけてもらえない花形の焼き菓子に視線を落としてしまった。ワカバがいる……。思い出したくない現実がそこにある。
「きっと気に入るよ」
ルディはやはりいろ葉の気持ちに気づくことなく、それを勧める。
気づくはずもない。
きっと気に入るのだろう。美味しい物なのだろう。ワカバが作ったものではないはずだ。そうだ。いつまでも手をつけないのも悪い。きっとルディはいろ葉が遠慮していると思っているだけなのだ。
いろ葉は、恐る恐るそれを手に取り、そろっと一口かじる。どこか懐かしい甘さのある、さっくりとした味わい。
ワカバがいなくなって、ワカバよりも先にワカバの気配を醸し出したあのお菓子。いろ葉は、あの時食べなかった。今もワカバが作ったとなれば、手に取ることはなかっただろう。
さくっと解けた焼き菓子が口の中に広がった。
涙が溢れた。
泣くつもりなんてなかったのに。
「どうかしたの?」
ルディの声は驚きを秘めていた。そして、心配そうな視線をくれたルディにいろ葉は何も答えられなかった。
「大丈夫です……」
いろ葉の母親が「食べないの?」と尋ねても「食欲がない」と断ってしまった焼き菓子。翌日の朝、お皿に載せて朝食と一緒に置いてあったが、やはり一瞥をくれただけで、食べなかったのだ。さすがにその夕刻にはもうなくなってしまっていた。
いろ葉はそれを後悔していたのだ。
食べられなかった。食べたらワカバに負けてしまうような気がして。食べたら、堪えているものが流れ出てしまうような気がして。
ルディが出してくれたお菓子は、だからやっぱり寂しい味なのだ。
「……」
優しく「大丈夫だからね」と言われているような気がして。ワカバが作った焼き菓子ではないのに、勝手にそう思ってしまう。思いたくて、そう思うのだ。きっとこんな優しい味が、込められていたんだろうなと。
「イロハ?」
ルディは善である。いろ葉は……。ワカバも善なのだ。だけどいろ葉は……。
いろ葉にとってルディもワカバも眩しくて仕方のない存在だったのだ。だから、認めたくなかった。なぜなら、いろ葉だって懸命に生きようとしていただけなのだから。
果穂のようになりたくないと思ったくせに、果穂と同じようにしか生きられない弱虫で。
だから、邪魔になる。
「心配いらないよ。ワカバ様はイロハのことを見捨てたりしないから」
ルディの勘違いは間違ってはいない。いろ葉は今不安なのだ。ワカバが見捨てたりしないということも分かっている。だけど、どうしようもなく、不安なのだ。
だから、いろ葉はこくりと頷くことしかできず、溢れてくる涙を払い続けた。そうすれば、不安が払拭されるような気がして。
まさか、このタイミングで泣くなんてルディは全く思ってもいなかった。ルタにもらった焼き菓子をただ勧めただけなのに。
社交界で出会う息女達も時々よく分からないタイミングで泣くことがあった。そういう時はどうしようもないのだ。中にはこれだけ頑張っているのに、興味を持ってくれないと言って泣かれたこともあるのだから、本当によく分からない。
興味を持つも持たないも、個人の自由だろうに。
いろ葉については、お腹に食べものを入れて、ほっとしたのかもしれないしな、くらいは考えた。
ルタが言うには、本当に全く違う不思議な光に満ちた世界からやってきたらしいから。確かに、いろ葉の衣服は変わっているのだ。その情報は間違いではないのだろう。
だから、こんな田舎に落とされて、不安なんだろうな、とは思える。
とりあえず、こういう時は待つしかない。ルディは、一応そんなことも心得ていた。だから、その時間はルディの振り返りに使うようにするのだ。落ち度があったのだとすれば、謝らなければならない。
焼き菓子は自分が食べてから、いろ葉に出してある。もちろん、無作為に毒でも盛られていたらどうしようもないのだが、一応、念のため。
故に、ルタに今のトーラであるワカバが送ってきたいろ葉を殺す気はない確認は取れた訳だ。
そして、こういう役目は跡目の役目。領主がすることではない。跡目なら、どこかの要人の嫡男以外の優秀な者で用立てられる。
あまり嬉しいことではないが、致し方ない。
ディアトーラの領主教育を受けているルディは一応、魔女を疑う性質も持っているし、その犠牲になる第一であることも承知している。
魔女に領民を殺させてはならない。それは、もう小さい頃から叩き込まれるディアトーラ領主の心得だった。
跡目じゃなかったら、ルタをそんなに疑うこともなかったのだが、ルディは一応自分の立場もわきまえられる。
ラルーがルタとなったのならば、トーラを斬る者になる可能性があるのも確かだ。ルタは始まりの世界を護っているのだから、それはそれで、彼女の立場もあるのだ。
とりあえず、いろ葉は泣いているが、ルディは死ななかった。毒はない。ルタはワカバと同じ意志を持つと思える。
一通り考えて、いろ葉に対する自分の落ち度は見当たらないことに安堵する。
あ、でもいろ葉は領民じゃないんだから、毒味は必要なかったのかもしれないな。
そんな冗談交じりの考えも浮かべられるくらいだ。
ルディはまだ泣き止みそうにないいろ葉へと静かに視線を戻す。一生懸命涙を止めようとしているのだが、まだしばらくかかりそうだ。
もう少し年齢が若かったら、背中でも撫でて慰められそうなものだが、さすがに神父でも医者でもないルディが、家督を継げる十五を過ぎているだろう淑女の背中を軽々しく撫でられない。声を掛けるにも「大丈夫?」くらいしか思いつかないし、変にこちらの思いつきを口走って、怒られるのも心外だ。
仕方がないので、溜息を呑み込み、ルディはルタから聞いていた『こちらの世界を滅ぼすかもしれないお客人』という言葉を思い出していた。しかし、ルディは『こちらの世界を滅ぼすかもしれないお客人』にも『護りたい世界がある』ということも知っていた。
トーラとはそういう者なのだ。だけど、彼女には力がない。トーラとしての力も、人間としての権力も、武力も何も持たない幼い少女だ。
彼女はこちらに現われたことのないトーラのタイプ。どう考えても、力でワカバが負けることはない。
おそらく世界を選ぶのはルディ達が畏れを抱く『こちらのトーラ』であるワカバなのだ。
例えば、リディアスの王城に彼女が落とされたのならば、女神さまはこちらの世界を選んだということになったのだろう。リディアスなら、彼女を保護しようとは思わない。リディアスの信仰は、魔女を悪とする女神信仰だ。
リディアス城に落とされなくても、リディアスの兵は優秀なのだから、街中で引っ捕らえることも簡単だろう。それこそ、リディアスの魔女裁判なら、庭の芝生を傷つけた、で死刑が確定する。いや、最近はずいぶん穏やかになってはきているが、魔女狩りを厭わないリディアスなら、この異質な衣装のいろ葉を裁判にかけることもなく、抹殺する。それこそ、ルタの一言でリディアスはどうにでも転がるだろう。
リディアスは今も根底ではトーラを恐れているのだから。いや、確かに、そちらが正義なのだろう。この世界を護るというのならば、そちらが正しいのだろう。
しかし、ここはディアトーラだ。
女神さまの意志が、すべて。
魔女を崇拝する土地。
いくら不器用な女神さまだったとしても、まさかリディアスとディアトーラの距離を間違うわけがない。
ルタは、ルディに言った。
「こちらの世界を滅ぼすかもしれないお客さまなのですが、もしこちらにいらしたら、わたくしが来るまで、もてなしてあげてくださいね。とても大切なお客さまですから」
そのルタの言葉にもルディは含みを感じられなかった。
幼い頃からずっと慕っているルタの気持ちを読み間違えるはずはない。
ルタにいろ葉を殺す気は、ない。ルタはその不器用な女神さまと共にあろうとしている。
それに、彼女は女神さまがこの世界を好きだと言ってくれた。
……そう、女神さまは『この世界』を愛しているのだ。その上での答え。それを裏切るわけにはいかない。
「落ち着いた?」
少し気持ちの落ち着いたらしいいろ葉に、ルディは尋ねた。
彼女は、おそらく素直で疑うことを知らない良い子だ。
「ごめんなさい……大丈夫です」
だけど、願わくば。
彼女にもこの世界の一片を知っていて欲しい。
「あ、そうだ。イロハ。一緒に教会に行かない? 良い時間になってきたんだ。きっと気持ちも落ち着くと思う」
だから、ルディはいろ葉を教会へと誘ったのだ。




