ディアトーラというところ……1
光に包まれていた。あっという間に視界は光に奪われて、いろ葉はやっと他の色が見え始めたところだった。なんとなく緑。奪われていた視界を取り戻すために、何度か瞬きをしているとそこが芝生であることに気がついた。
そして、羽ばたく音が聞こえ、そちらへと視線を向けた。まだ、胸の鼓動は早く、手先にわずかな震えが残っている。果穂はどうなったのだろう。ワカバは何をするんだろう。先ほどの状況への疑問は膨らむが、自身の状況にも疑問が膨らむ。
平穏な場所だ。穏やかな日射しが差し込む庭。先ほどの状況が単なる悪夢に感じられるような、そんな世界。
だけど、ここはいろ葉の住む世界ではない。恐る恐る体を動かす。青い空を見上げる。その眩しさにゆっくりと手を翳す。
赤い何かが青い空に……。
いろ葉の視界の端っこに赤い色が移ったのも束の間、人の気配を感じて向けた視線の先には別の者があった。
紺碧の瞳に赤みがかった金髪。長身の男性がいろ葉の視線の先にいた。彼はなぜか苦笑しながらいろ葉を見つめる。間違ってもここはいろ葉のすむ日本ではない。もっと言えば、世界ですらない。いろ葉の着る制服がかなり浮く場所。ワカバの着るマントが当たり前のように闊歩する場所。背後には石造りの青い屋根の教会だろう場所の裏側。もしかすると、彼の苦笑は足元の芝生にあるのかもしれない。踏んではいけないものかもしれないとわずかに足を動かすが、何も解決しそうになかった。
あぁ、どうしよう。いや、笑ってくれているのだから、いきなりの手打ちになることはないかもしれない。だけど、罪を問われるってことだってあるよね。だって、ここ、日本じゃないもの。
恐怖を通り越したような興奮状態で、なんにしても安全を考えられないいろ葉の考えは目まぐるしく状況を判断した後、やはりここに帰結する。
日本じゃない場所で、いきなり知らない人の敷地内に入る。ここにおいてのルールは分からない。ここが異世界でなくても、単に地球上の世界のどこかだったとしても、ここのルールが分からない。いや、例えどこであろうとも、これは多分、不法侵入罪。
あぁ、ワカバ……。
助けてくれたのは嬉しい。あんな訳の分からない煙の塊が私を狙っているのだから。足手まといの私がいるよりもずっとここが安全なのかもしれない。
だけど、ワカバ?
いろ葉は、もう一度、彼を見上げた。
いろ葉は、やはりワカバを思った。
あの人は、ワカバの知っている人なの?
ラルーは従姉妹のお姉さんだから、あの人は別の人だよね。
しかし、ここにワカバはいない。ここがどこなのか、どこかの諸外国だとしても彼に尋ねるしかないのだろう。いや、先に芝生を踏んでしまったことを謝るべきか。でも、何語で話せば良いのか……。いろ葉は悩みながらワカバを恨んだ。いや、目の前の脅威から遠ざけてくれたということには変わりない。あの場にいろ葉がいれば役に立つどころか足手まといでしかない。
それに、……ワカバはきっとちゃんとあれをやっつけて、いろ葉を元の世界へと戻してくれる。ワカバがここにいろ葉を飛ばしたということは、いろ葉になんとか出来る状況であるということだ。だから、いろ葉は、まずは謝罪をする。深く深く頭を下げて。こんなところで、手打ちになんてなってはいけないのだ。
「あ、あの……すみませんでした」
お願いします。どうか打ち首にだけはしないで下さい。これは色々なことが、……。ワカバという魔女がいて、それから、私に有無を言わせずこんなところに飛ばしてしまったんです。
大きくお辞儀をしたまま、心の中でいろ葉は言い訳の練習をしていた。そして、ワカバを信じる。もちろん、いろ葉は少し位置軸がずれていたことなんて露も知らない。ワカバがいろ葉を預けたはずの場所はラルーの住む家だったのだから。
「いや、頭を上げて。魔女さまのお客人」
テノールと言うよりもややアルトに近い声がいろ葉の頭の上に優しく降ってきた。
「えっ?」
思わず顔を上げると彼はいろ葉のすぐそばまでやって来ていて、優しい微笑みをいろ葉に向けている。そんな彼を前にいろ葉はわずかに首を傾げる。聞き間違いかと思ったのだ。
滑らかに語られたのは、日本語じゃないか?
紺碧の瞳に赤みがかった金の髪。そして、その様相。いろ葉はもう一度彼の顔を眺める。
緑のベストにYシャツ、そして何かの……虫。ムカデだ。ムカデの模様が入ったカメオ様のブローチで止めてあるループタイ。そして、緑のマント。たぶん、いや絶対に日本人ではない。いろ葉が黙ったまま見つめていると、男性はそのままふんわり微笑み、いろ葉にに対して軽く会釈をし、驚くべき言葉を掛けた。
「ようこそいらっしゃいました。魔女さまのお客人。私はここの領主跡目ルディ・w・クロノプスと申します」
いろ葉の驚きは、もはや日本語のレベルではなく、彼が何故にいろ葉を魔女の知り合いだと知っているのかに移っていた。
「あ……私は、あ、えっと、いろ葉です。鈴木いろ葉……と申し、ます」
自己紹介され、思わずいろ葉も名前を名乗る。しかし、緊張に喘ぐいろ葉の様子を見たルディが優しく微笑む。もはやその仕草がいろ葉にはおとぎ話の王子様のようにも思える。
「こんなところではなんですので、どうぞ館の方へいらしてください」
いろ葉の疑問は全く解決していないし、緊張は増すばかりだ。しかし、自然に差し出された彼の掌の上にその手を置いてしまっていた。そして、恥ずかしさのあまりうつむく。この手どうすればいいんだろう。そんないろ葉の様子にルディはまたクスリと笑った。そして、さらに身を竦めるいろ葉になんて構わず話し出した。
「魔女さまのお客人って聞いてたからどんな方なのかなって思ってたんだけど、イロハでよかった」
いろ葉は黙り続けるが、ルディは構わず話を続けた。いろ葉はといえば、繋がれた手をそのまま任せるべきなのか、握り返すべきなのかを考えながら、どちらも居心地が悪くてまた俯く。そして、ルディの綺麗に整った顔が胡散臭くも、恥ずかしく、戸惑いばかりで。
きっと、恥ずかしくて、ここがどこか分からなくて、怖いんだ。いろ葉はその胸のドキドキをそんな風に位置づけることで平静を保つ。
だって、今まで出会ってきた男の子ってみんなこんなに優しくなかったんだもん。騙されているとしか思えない。だけど、いろ葉を騙して彼が何を得することになるのか、そこも分からない。
だから、やはりどこかでワカバに助けを乞う。
ワカバ……。私どうすれば良いの?
「いらっしゃるとすれば教会くらいかなとは思っていたけど、まさか裏手に下ろされるなんて想像もしてなかったから、本当に驚いた」
うん、私も驚いた。
声を出せないくらいの緊張の中にいるいろ葉は大きく頷く。その様子を見てやはりルディはクスリと笑う。
「あの教会の中には白磁の女神さまがいてね、その掌に海を抱くんだ。からくりは天井に埋め込まれているステンドグラスなんだけど、太陽の光の入射角がきっちり測られてあって、とっても綺麗だよ。時間があったら案内するから」
そしてルディは空を見上げた。真っ直ぐに。その視線に合わせるようにして空を見上げる。とても高い空だった。青く澄み渡る空。どこまでも永遠を思わせる空。この空もいろ葉の知る宇宙に繋がっているのだろうか。いろ葉はそんな思いと共にふとルディの横顔を見上げた。その表情はとても綺麗だけど、どこか切なげ。あんなにもにこやかな表情だったのに。
「僕は魔女さまに会ったことがないんだけど、どんな方なの?」
もしかしたら、いろ葉の緊張を解すために気を遣ってくれているのかもしれない。それに気づけるほどの余裕はまだいろ葉には生まれてこないし、そう思い至るには時間が掛かる。ただ、その切ない横顔と優しい口調から尋ねられたことに対して真面目に答えることはできそうだった。それも、さっきから小さい子に話しかけるようにして、山ほどしゃべり続けるルディのおかげなのかもしれない。
あぁ、ワカバはちゃんと私を守ってくれているんだ……。ただ、そんな風にだけ思った。
「魔女さまっていう感じは、ない、です。私とそんなに変わらない年齢で……」
いろ葉はワカバを思いワカバを語る。ルディはその言葉に耳を傾け、面白そうに頷き、感嘆する。親切なようで迷惑で。お節介とも言えないような。それでいて、いつも一生懸命で。好奇心旺盛で何にでも興味を示して、時々寂しそうに見える。
何よりも、とても強い。
「なんとなく思うことが、ワカバはここに住む人たちのことがとても大好きみたい……だと思います」
ワカバがここの人たちについて語ることは少なかった。時々名前が出てくる程度。しかも、いろ葉の知る名前は『ラルー』くらい。だけど、そのほんの少しの回想だけでワカバの表情は和らいだ。いろ葉には絶対に見せない、そんな表情だった。
「そっかぁ、魔女さまはワカバって言うんだ。教えてくれてありがとう。イロハ」
ルディの表情がワカバのように和らいだ。それはいろ葉にとっても嬉しいと思えることだった。
ルディにエスコートされながら、いろ葉はディアトーラ領主館の大きな庭を案内された。いろ葉が歩いてきた大きな庭にはバラ園とハーブ園があり、その両方の庭はかつての領主夫人が大切にしていたものだとルディが言う。そして、今もそれらはとても大切にされている。
ルディの言う庭にある記憶という言葉の意味は分からなかったが、いろ葉もその話を聞きながら、知っている花を見つけて安心する。
バラの花は赤に桃。ハーブ園にはラベンダーとローズマリーが花を咲かせている。足元にはミント、そして、レモンバームにバジルもある。いろ葉はその説明を聞きながら、ハーブたちの匂いを嗅いだ。聞いたこともない名前のハーブ、その全ての匂いを嗅いだことがあるのに、なぜか日本とは違う匂いに思えた。風が違うのだろうか? そう思いながら、やはりワカバを思う。
あぁ、ワカバもきっと同じ気持ちで町を歩いたんだろうな。学校にいたんだな。
緑の匂いも土の匂いも。人の匂いも、生活全ての匂いが違っていたんだろう。家の形も花壇の植え方も植え込みの切り込みも。服装だって違う。
広いお庭もない世界。
せめて海外だったならルディに似たような人はいたんだろうけど。ワカバがいたのは日本だから、出会う人間だって違っていたのかもしれない。金髪の人なんてほとんどいない国だし。あんなに馴染んで見えたけど、私、ルディほどワカバに優しく接してなかった気がする。
それにしても、ワカバは何を思って私の世界へやってきたのだろう。
あ、そう言えば日本語?
そんな余裕が出てきた頃、大きな屋敷の扉の前にいろ葉は立っていた。蒼い屋根に灰色の石造りの、お城とも言えそうなお屋敷だった。
「ようこそいらっしゃいました。ここがディアトーラ領主館です。さぁ、中へ」
ルディはそう言うと大きな扉を開いた。扉が開くと新しいことが始まる。何が起きるのか分からない。そんなことにいろ葉の心臓は飛び跳ねて、同時に夢から醒めるようにして、この世界からの逃避のために並べてきた御託を現実のものとして受け入れ始めていた。
ここにワカバはいない。
この知らない男性はルディという。
信用するに値するのか、分からない。
だけど、まだ王子様然としたルディをまともに見ることは出来そうもない。




