ワカバといろ葉……2
いろ葉は毎日夕方になると走り始めていた。その理由をワカバは知っているつもりだ。だけど、そばには行かない。今、いろ葉のそばに行けば、紫煙が逃げてしまう。今のいろ葉はすぐに紫煙に呑まれたりはしないだろうし、ワカバがそばに行く必要もない。思い描いていた結果ではないが、いろ葉が自ら消えようとしなくなったということは、彼女をトーラとしてワカバが使うとしても、都合がいい。多少均衡を崩してしまうかもしれないが、その方が、ワカバがワカバの世界を紡ぎやすいのだ。
それに、今のワカバが今のいろ葉に願えば、きっといろ葉はワカバの願いを聞き届けようとするだろう。その結果がどうなるとも知らぬまま。それはたくさん描いた結末の一つ。あちらの世界のトーラであるワカバとしては、魔女として上手く立ち回った結果として受け入れられる。
だけど、これは僥倖なのだ。偶然手に入れた幸運。ワカバは決して上手く立ち回ったわけではない。
いろ葉の弱みにつけ込もうとなんて思ってもいない。ワカバはいろ葉に世界を選ばせようとは思ってもいない。
ただ、……。
だから『いろ葉は気付いているのだろうか?』という質問を一つワカバは自身の中に落とし、その答えを考えるのだ。
知らないのだろうな。
いろ葉が無意識にしていることがほんの少し未来を変えているということや、過去を歪めてしまったことを。例えば、果穂の願いを引き受けて果穂がその存在を徐々に消していることを。
ワカバがこっちの世界へ戻ったあの時、急に妖魔が膨らんだのだ。ワカバがいなくなることで、紫煙が自由を得るということはある程度想定内ではあったが、いろ葉では対応できないくらいのものになった。
それはいつも果穂から発されていたものに似ており、その膨らみの異常さは春陽の比ではなかった。そして、その妖魔は真っ直ぐにワカバへと向かってきたのだ。
果穂は自分自身が嫌いだった。もちろん思春期を過ぎても自分を好きになれる人間なんてそうそういないのかもしれないが、果穂の場合、自分を作り出した世界を嫌う節があり、自分を構成する全てを否定するきらいがあった。
経緯はワカバの想像の域を抜けないのだが、おそらくいろ葉にリレーの選手を代わってもらった果穂が自ら消えたいと望んだのだろう。
嫌なことを友達に押しつけてしまったというような。
色々と複雑な果穂だから、行きつ戻りつしながら、存在を消しているのだろうと思われた。果穂は春陽と違い一気に畳み込みたい紫煙にとって使いにくい駒ではあったのだろうが、いろ葉は安易にそれに寄り添ってしまった。
そのいろ葉の安易さはワカバが彼女を『良い子』として感じるひとつでもあるのだが、トーラとしては失敗だったとしか言わざるを得ない。
ワカバは自分の立場が分かりすぎて、安易に動けないことがある。しかし、いろ葉はワカバのようなトーラではない。だから、そんないろ葉の一歩はワカバにとってはとても嬉しいことでもあった。
だから、簡単に紫煙に呑み込まれないようにもなってきている。
だが、紫煙はそれを都合のよい核を得たと解釈したのかもしれない。いろ葉のそばにいる世界を憂う少女は春陽と違い、彼女の意識を呑みやすい。そして、戻ってきたワカバを厭うようにして、紫煙が現れた。
ワカバがここにいなくなっていたから、都合のいい駒として使えた果穂なのだ。おそらくここに現われた理由もワカバがこれかがしようとしている果穂の確保が気に入らないからなのだろう。
紫煙からは『邪魔をするな』という思念が伝わってくる。
ワカバの足元に大きな影が広がっていく。泥濘んでいく。
そのままワカバを呑み込もうとする紫煙に、ワカバがすべきことは一つだった。
こちらの世界にあるトーラの意志を得た紫煙。
分かっていたことだけど。だけど……。
だけど……。
ワカバは足元に広がったその深淵に向けて手を伸ばす。
紫煙の正体は未来の何か。この世界で生きる誰かの意志を紡いだトーラ。そのトーラがワカバであるのなら。
苦しいよね。苦しいんだよね。助けて欲しいんだよね……。
「お願い、掴んで……」
深淵の奥にある者はやはり応えなかった。この世界の行く末。ずっとずっと未来の先にある何か。彼女たちに信じられないくらいに悲しい出来事が起きたのだろう。
トーラに願われた願いは、そのトーラにとっても大切な願いだったのだろう。助けたいのに助けられない。
ワカバの頬に涙が流れた。この先にいる者はわたしのよく知る者だ。しかし、その者が手を掴むことはないだろう。ワカバは空を掴むその手のひらから、深淵を塞ぐための光を紡ぐ。ワカバに敵わない思った彼女は、おそらくいろ葉を使うつもりなのだろう。
最後の手段として。
潮時なのだ。




