第七話 ―その1―
(そう遠くはなかったはず……だけど)
アシェルは道に迷いながら、拭い去れない違和感に焦り続けていた。
ミラム寮長から教えられた場所はサムギラグムのあるソムニャ地方よりも険しい山岳地帯。とはいえ、目印はハッキリしていた。
山頂付近にずっと雲が掛かっている。それが「結界」なのだそうだ。
(そして雲の中に入ってもう二日……真っ直ぐ登り続けているのだから、もう山頂に着いておかしくないはずだけど)
しかし妙なことに、アシェルはずっと道なりに進んできた……そう、はっきりとした道があった。絶壁など一度も登っていない。そしてなにより、かなりの標高のはずなのに気温や酸素濃度が低地と変わらない。そのくせ周りは岩と砂利だけである。
今日で登りはじめて一週間………さすがに水と食料の残量が厳しい。いくら血を得たとはいえ、自分は不死者ではない―――食べなければ死ぬ。
(どこかに水場は……いや、引き返す?)
諦めの文字が頭に浮かんだとき。
「な……っ!?」
アシェルは立ち尽くして、言葉を失った。
急に視界が開けてきたと思った途端、目の前に現れた色は、青々と茂った一面の緑だった。広大な原っぱに背の低い木々が生えていて、とても見通しが良く………地平線が見える。
「バカな……」
後ろを振り返る。すると後方も同じく、先ほどまでの風景は緑に塗り替えられている。
………どこだ? ここは。
(…………落ち着け)
足を動かす前に、その場に剣を突き立てた。方向を見失わないための目印代わりである。
とりあえず、足元の草に触れてみる。どこにでも生えていそうな、ありふれた雑草の感触。これは間違いない。
幻覚にしては出来すぎている………しかし、そうでなければ説明がつかない。
幻覚を見せられているのではなく、催眠術の類いで無意識に移動させられたのでは?
いつ? いつそんな術をかけられた?
わけがわからない……
「……う?」
いつの間にか暑くなってきた。まるで砂漠の真ん中のような、じりじりと身を焼く暑さ………
「こんな……この標高でありえるわけが―――!」
空を見上げた瞬間――――一面が渦巻く吹雪に呑まれ、視界はあっという間にホワイトアウトする――――。
トントントン……
「…………」
まな板を叩く音。洗い立てのシーツの感触に、暖かいスープの匂い。
……寒くない。
「ん? あー、ようやく目が覚めました?」
部屋に入ってきた女が歩み寄ってくる。歳は……自分と同じくらいだろうか? 丸く整った顔に人懐っこそうな柔らかい笑みを浮かべている。ゆったりした布をきゅっと細身で締めた独特な服は民族衣装のようだが、顔立ちは下界の町のものだ。
かわいらしく、小奇麗だ。しかし子供でもない。その曖昧な雰囲気はアシェルの警戒心を和らげようとする……が。
「…………」
「どうしたの? 熱…はなかったと思うんですけどね。気分悪い?」
この甲斐甲斐しさ。それが、この状況自体が幻ではないかという疑心を生む。
(下手に対応すれば、術に嵌りかねない……)
対して、ベッドの脇に立つ彼女の方は困り顔だ。
「……何か言ってもらえないと、こっちもどう対応していいのかわからないんですけどー? 声出せないわけじゃないんでしょ? うなされていらっしゃったようですし」
「………」
アシェルはゆっくり視線を流し………脇に立てかけてあった剣を手に取った。
「なっ…何する気!?」
彼女が三歩下がる。仏頂面で剣を抜けばビビるのも当然だが、あえて無視した。
(剣の感触は……いつも通りか)
刃先の鋭さ、薄い乳白色もそのままだ。
「……悪いわね、驚かせて」
剣を収めて初めて彼女に向き直った。彼女は……いい顔はしていない。
「ここはどこ? ちょっと状況が把握できていないんだけど……」
「聖山ビラコーサの八合目です。あなた、マキルマサイタ様の結界の中で倒れていたんですよ」
「マキルマサイタ……?」
「この山に篭っていらっしゃる大聖者様。……やっぱりあなた、聖者様に会いに来たんじゃないんだ?」
「やっぱり…?」
「ここは聖人・僧侶の修行場としても最高ランクの場所なのよ? だから、普通は若い女の人はこない」
「………なるほど、普通はね。じゃあ、あなたは?」
「私? 私はマキルマサイタ様にお仕えする身だもの。それにリタイアした人をピックアップしたりしないとダメだし……ねぇ?」
「………」
拾ってもらった身だ、意地悪そうに言われても仕方ない。
(そもそも、私のほうが先に悪いことしたし)
初対面の人間を前に突然剣を抜くなど、無礼の極みだ。
「本当に悪かったわ」
平謝りすると、途端に彼女は態度を翻して笑った。
「別に謝らなくてもいいよ、見つけたのは偶然だし。大方が半分腐ってから発見されるんだから」
「そうなの!?」
「う・そ。ここに登ろうってのは三十年に一人くらいだし。不死者だって近寄らない。だから、聖地」
……思った以上に凄まじい場所のようだ。実際に結界に触れたから、彼女が言うことも大げさではないとわかる。しかしそれならば逆に、大聖者とはそれほど神懸りな力を持つ存在なのか? 期待は膨らむ。
「私は大聖者様に会いに来た。その……マキルサマイタ様はどこに……?」
「マキルマサイタ様。っていうか………一つだけいいですか?」
「?」
疑問符を浮かべると彼女は眉をハの字に曲げた。
「助けてもらって、お礼の言葉もなし? それに名前くらい教えて欲しいのよね」
「あ……」
それはそうだ。
「今さらだけど、助けてくれてありがとう。私はアシェル・ミロー」
「……………」
「……?」
名乗った末の沈黙に小首を傾げると、彼女の方は口を尖らせる。
「いや、次は『貴女のお名前は?』でしょう? もー、山に篭ってる私より全然社交性ないしー!」
「ご、ごめん………『貴女のお名前は?』」
「オウム返しほど恥知らずなものはないのよねぇ………まあいいけど」
と、また彼女の顔がパッと咲いた。
「私はコルサータ・レガ・マキーノス」
「コルサータ・レガ………割と古風な名前なのね」
「一応はそれなりの家柄だったから。と言っても、もうないけどね。家族もいないし」
「そう……」
「こらこら、ここは暗くなるところじゃないよ?」
コルサータはこちらの頬をツンと突付いてきた。
「私のことは気軽にコレットって呼んでよ。ま、仲良くやっていこ。少なくとも一週間近くは一緒に生活することになるし」
「どうして…?」
「マキルマサイタ様は瞑想中だから、九合目から上にも結界が張られているのよ。それにアシェルは『大冬圏』の中で倒れてたから凍傷になりかけてたし。剣が握れるくらいだから大丈夫なんだろうけど、服を脱がせてのマッサージは結構手間でした」
だから着ている服が違うのか。それに「大冬圏」…?
「それは……素直にお礼を言うわ」
「いいよ、人助けも久しぶりだったから。しっかし……ここまで登ってきた割には、アシェルの肌ってツヤツヤだよね。手だって荒れてないし」
「あ、えっと……」
「そういう人もいるよね、たまーに。羨ましい限りだけど! でもアシェルは基が綺麗だからねー………なんで此処に来たわけ?」
じっと見詰めてくるコレットの瞳。見つめられると口を開かずにはいられないような、そんな不思議な力がある。しかし不死者に関することだけは避けねば……ここが聖地なら、不死者の血を受けた自分は異端者なのだ。
「何というか………自分がこれからどうすればいいのか、わからなくなったから……」
「ふうん、そうなの? 普通は人生相談でこんなとこまで来ないと思うけどね。ま、いいけど」
一応は納得したようだ……そっと胸を撫で下ろす。
「スープとか飲む? 丸一日寝てたんだから、お腹空いたでしょ。持ってきてあげる」
「あ、うん……ありがとう」
部屋を出て、コレットは台所へと戻っていったようだ。
(それにしても……)
改めて見ればおかしなもの。丸太組の建物は、山の中に建てられているにしては妙に頑丈で綺麗だ。それにコレットという彼女、やけに馴染みすぎている気がする。こう言ってはなんだが………とても大聖者に仕えているような人物には見えない。この地に来てから日が浅いのだろうか? とにかく、軽いというか調子がいいというか………
「……よくわからない」
そうとしか言いようがない……。
「あ…う…くぅっ…あああ…!」
夜の帳が落ち、空気が冷えてくると、獣人の影が浮かんでくる。虚ろになりかけた意識は殺気へと変わり、身体は強張り、歯軋りが止まらなくなる―――。
「……あーっ、もう!!」
メガネをかけるのも忘れてレジーメが跳ね起きた。
「いい加減にしてよ! こっちが眠れないでしょうが!」
「レジーメ、声大きいって…」
ラウナが仲裁に入ってきたが、今の自分には関係ない。
「黙れ……!」
牙を剥く。その気がなくても、勝手に力が入る。しかし、だからといって怖気づくレジーメではない。特に大口の仕事で神経がささくれ立っている時のレジーメは、あのミラム寮長ですら手を焼く。ラウナにとってみればこの三人部屋は猛獣の檻も同然だ。
「アンタ、もう三ヶ月になんのよ! ちょっとは落ち着いたらどうよ、犬みたいに唸ってばっかりで!」
レジーメが投げつけてきた枕を払い飛ばす。枕は開いていた窓から飛び出していく。
「どこの野生児か知らないけど! 引きこもって、暴れて、何様!? 大事な人が死んだのか知らないけど、いつまで引きずってんだか…!」
「…何!!?」
拳を握り締めると、ラウナが慌ててレジーメを抑えた。
「言い過ぎだってバカ! よりにもよって、そんな抉るように……!」
「違う、ラウナ。いい加減にこっちから言わなきゃアシェルは認めない。アシェルの大事な人はアシェルを守って死んだ、アシェルが足枷になって死んだ、それがもうどうにもならないことだって!」
「――だまれぇっ!!」
レジーメに飛びかかり、もみくちゃになりながらベッドから落ちる。力なら自分のほうが上のはずだったが、馬乗りになったのは小柄なレジーメのほうだった。
「何が一番腹立つって、アシェルが私らを全く頼りにしない! ひ弱で今にも崩れそうなツラしてるクセに! ヒト一人の悲しみなんて、どれだけでかくたって、三人で分ければ何とかなるっての! ずっと惨めな背中を目の当たりにして、私たちが何も感じなかったと思ってる!? ナメるな!」
アシェルの頬に、容赦ない平手打ちが落ちた―――。
「……………」
目が覚めた。カーテンの隙間からは朝日が差し込んでいる。
(なんで……)
身体の調子は悪くない。少し思考がぼやけるが、頭痛はない。異常はなかった。
前回謎の「X.」をアップしましたが、なんかどうにもしようがなかったのでああいう形にしました。「?」と思われた方も多かったでしょう、すみませんm(_)m
またあるかもしれませんが(´ε`;)




