68羽 一つの物語
テレジアの物語 飛ばしても可です
「子供ができたんですよ、旦那様」
右側に白いメッシュの入った黒髪の美しい娘は、嬉しそうにふわりと笑い、男の腰に抱き着いた。
とても背の高い筋肉質な男は、そのままかちりと凝固してしまい、少女は不思議そうに首を傾げて彼を見上げる。
「旦那様?」
「う、うむ」
どうやら照れているようである。顔を赤くしてわずかにそっぽを向くその姿が可愛らしくて、少女は楽しそうに笑った。
ここはセオドアの王族の使う避暑地だ。
その年で35歳になる王太子ゲルハルトは、その夏不思議な出会いをし、恋に落ちた。
元々堅物で有名だった男だ。恋なんてものは幻想で、ごく普通に政略結婚し、子供をもうけ、国を治めていくのが当たり前の幸せだと思っていた。
だが、夏に訪れたこの避暑地で出会った娘は、目を離すと池に落ちるは、素っ裸で走り回るは、とにかくゲルハルトを振り回し続け、気が付けば堅物の王太子はその娘の虜になっていた。
何度も逢瀬を繰り返し、多忙な政務の合間を縫って避暑地へ足を運び、娘の世話をする男の姿はまるで親鳥のようだとからかわれもしたが、一途に慕ってくれる子供のような娘をゲルハルトは手放せず、翌年の春には娘を抱いていた。
「お前のように年若い娘に手を出してしまうとは、私はなんと愚かな男だったのだろう」
自分は35歳、娘は14か15そこらだというのに、手放せずに手を出したことをひどく悩み、嘆くゲルハルトに、娘は首を横に振って何度も何度も口づける。
「旦那様が大好き。大好きよ」
他の言葉を知らなくて繰り返す娘を抱きしめ、ゲルハルトはわずかに涙を浮かべながら、こんな感情もあるのかと持てあます自分の激情を娘にぶつけた。
そうして迎えた秋の日のこと、ほんの少し国内の動きがきな臭くなって危険であったが、何とか娘を王宮に入れようと迎えに来たその日に、娘はこの上ない喜びを与えてくれたのだ。
「名前は生まれたら考えるか」
「今じゃないのですか?」
暖炉に火をつけ、その前に置かれたソファの上で二人寄り添い、愛おしげに頬、こめかみ、額、首筋や胸などに口づけを落として、ゲルハルトは不思議そうに見上げる娘に柔らかく微笑む。
「男か女かもわからぬものに名はつけられんだろう?」
「…きっと男の子です」
「お前に似た女かもしれん」
「男の子ですってば」
「どうだかな」
二人は笑いあい、ゲルハルトはふっくらした娘の腹を撫でてやった。
パチパチとはぜる暖炉の日を見つめてゲルハルトが口を開く。
「王宮は化け物の巣窟だが、それでも私はお前と子供と共にいたい。いずれ他の女を妻に迎えねばならぬ日も来るが、それでもともに来てくれるか?」
ゲルハルトの瞳は不安で揺れていた。
普通の娘ならば愛人になどなりたいとは思うまい。
ゲルハルトならば金だけ詰んで彼女を何の気苦労もない場所に置き、いずれ力ある男に下賜することも可能だ。
たった一人に愛し愛され、妻と夫として暮らしていく方がきっと幸せだろうとわかるが、それを考えるだけで身を切るような痛みを感じ、ゲルハルトはぐっと拳を握る。
「旦那様が望んでくださる間はずっとお側におります」
魔法生物は一途だ。
ゲルハルトは彼女が魔法生物だとは知らないけれど、まるで彼のために神が下賜してくれた娘のように感じ、何度も感謝の言葉を神に告げた。
そうして翌日、二人は離宮を離れ、娘はいよいよ王宮へと入るために馬車に乗り込むのだが、その道中に悲劇は起きたのだ。
「貴様ら…ヴィートの民ではないな」
道中マントとフードに身を包んだ男達に襲われ、奮戦虚しくゲルハルトは捕えられた。
護衛の兵もよく戦ってくれたが、ほとんどが殺されてしまい、その亡骸痛々しく、ゲルハルトは心の中で『すまない』と呟き、男達を睨んだ。
男達はわざとらしくマントとフードを外すと、さも自分達はヴィートの兵ですよという顔をして、ゲルハルトを捕え、その場に跪かせたのだ。
当然ゲルハルトは彼等の正体を悟った。
第二王太子…ではない。彼はどちらかと言えば王になることを嫌がっている節がある。そうはいっても周りが、となりそうなものだが、彼の周りはこんな過激なことをしでかす者はいない。
下手をすればヴィートと戦争になるような作戦だ。
何故なら、数人の護衛兵は止めを刺されず生きているからだ。彼等が誤解してヴィートの民に襲われたなどと言えば間違いなく国は混乱する。
その隙にあの男ならば国を乗っ取るに違いない。そしてヴィートへと進行するのだ。
優しいが取り柄だけの第三王子…。
誰もが騙されているが、あの男の狡猾さは賢帝とうたわれた父をも凌ぐ。
「旦那様!」
馬車から身重の娘が飛び出し、男達の目の色が変わった。
「出てくるなと言ったろう!」
「へぇ、いいのがいるじゃねぇか。少し楽しませてくれよ」
男の一人が娘を捕え、ゲルハルトが暴れて一時その場が騒然とするが、娘の目の前まで駆けつけた時、がら空きだったゲルハルトの背に剣が突きたてられた。
「がっ」
目の前がぼんやりと霞み、ゲルハルトは手を伸ばして娘の頬に触れると、そのままどさりと地面に倒れて事切れた。
「・・・・旦那様?」
驚いた娘はゲルハルトに触れようと手を伸ばすが、ならず者が腕を引くせいで手が届かず、苛立つ。
「離して」
男達は下卑た表情で娘を取り囲んだが、娘が自分からそれぞれの男達の首筋に歯を立てるので、さらに笑みを深めた。
だが、次の瞬間皆ひゅっと声を上げてその場に倒れこんだ。
娘の牙からは血がしたたり落ち、男達は声も上げられずのたうちまわっている。
それを冷ややかに見降ろし、娘はゲルハルトの傍らに座り込んで腹を押さえた。
「旦那様…赤ちゃん産まれたのよ」
いつの間に生まれたのかわからない。だが、18個の卵が足元に転がり、娘はゲルハルトのまだ温かい気がする手を取って頬に当てた。
「旦那様。どうして好きだって言ってくださらないの? 旦那様、私、旦那様がいなければ生きていけない…。どうして返事をしてくださらないの? 旦那様。ねぇ…返事をして…。死んでしまったの…? まだお別れも言ってないわ…死ぬときは一緒に行くって…決めていたのに…どうして好きだっていう言葉を笑って聞いてくださらないの…。ねぇ、返事して…ゲルハルト!」
悲痛な叫びは事切れた彼には届かず、涙は全て地面が吸い取りやがて枯れ果てた。
翌朝、娘は生き残った護衛と共に城に上がり、ゲルハルトの死を伝える。
「兄上が殺されたと!?」
転がるように現れた第三王子を見て、娘は唇に弧を浮かべると、優雅な挨拶をし、その男を一瞬で魅了した。
(月の神よ、どうか私に時間をください。旦那様を奪ったすべての者に報いを…。全ての人間に復讐を!)
「私の名は、テレジアと申します」
それは、純粋で、悲しい恋の物語―――――――




