15羽 二人の始まり
チキが男に抱き着くと、男は一瞬驚いたように力を抜いた後、ぐっと強くチキを抱きしめた。
まるでチキの心に沿うように力強く抱きしめてくれる腕にチキはほっとして全身を預ける。
だが、そんな幸せな時間というのは何かしらの力によって変化が訪れるものである。
「きゃあっ」
どうやらいつの間にかエマが戻ってきていたらしく、うっとりとしていたチキはお茶のワゴンを引いて逃げようとしている己の侍女の姿を見て声をかけた。
「あ、エマ」
男は驚いて力を抜き、すぐに腕をほどくが、チキは首にぶら下がったままだ。当然離れる気はなく、ポンポンと肩を叩かれたが、いやいやと男にすり寄った。
「すまないが一度離れてくれ、これでは会話もできない」
何より、侍女が倒れる危険性がある。とは言い難く、チキの体をそっと引き離すと、侍女の方は見ないようにしてチキを見つめた。
チキは男の目をまっすぐ見つめて微笑んでいる。
「俺の名前はユリウス・グレアムという。知ってはいるだろうが…」
もちろんチキは知らなかった。が、そこは言わずに「ユリウス様」と呟いて頬を染める。
チキの姿の愛らしさにユリウスは思わず微笑んでしまい、にやけていたような気がして咳払いして真面目な表情を保とうと努力した。
「お茶をお入れしますので東屋へどうぞ」
「あ、リチャード」
いつのまにいたのか、どこからか現れた執事のリチャードがエマを下がらせ、お茶のワゴンを引いてチキとユリウスを庭の東屋へと導いた。
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午後の日差しが温かく差し込む中庭の東屋はテーブルとイスが置いてあり、チキとユリウスはリチャードに促されてそこに座る。
だが、チキは不服だった。
椅子に座るのは仕方がないとしよう。チキも午前中の特訓で足が疲れていたし、できれば座りたい。だが、ユリウスと向かい合う形で座ることになり、少し離れてしまったその距離が寂しくて不服そうにわずかばかり頬を膨らませた。
「お嬢様。忍耐も時に必要でございますよ」
お茶を入れながら告げるリチャードの言葉はユリウスには意味不明だ。
チキはぐっと喉を鳴らし、頬を引っ込ませて背筋を伸ばした。
「では、後は御若いお二人で」
お茶をお菓子をサーブし、お決まりの言葉を告げてリチャードがその場を離れる。
東屋から少し離れたところまで進んだリチャードは茂みの中に隠れるロラン、フランツ、カイル、エマの姿に呆れたような溜息を吐き、がしっと四人の襟首を同時に掴むとそのまま引きずっていった。
そんな姿をユリウスがちらりと見ながら、チキに向き直ると、チキは何処か恥ずかしそうにしながら口を開いた。
「あの、このあいだ、じゃない…先日は助けていただいてありがとうございました」
習った言葉を思い出しながら、必死に言葉を紡ぐチキは、自分の言っていることがユリウスに通じていないことなどわかっていない。
当然ユリウスは何のことかと尋ねた。
「先日というと?」
「ボブの農場で狼から助けてくれた…です」
助けられたのはニワトリの尾黒だが、ユリウスはここで勘違いを発揮する。
つまり、チキはあのボブの農場に何らかの用でユリウス達同様泊まっていて、狼の姿が見える位置におり、ユリウスを見かけたのだとそう思ったのだ。
「あの場所におられたのか。ケガは?」
「ない、あ、ありません」
「そうか」
ほっと息を吐く音がしてチキはユリウスを見る。彼はチキに怪我がなかったことに安堵してくれているようで、心がほんわりとした。
「そういうことならロラン様が農場の話をした意味が分かった。それで、その…俺で良いのだろうか?」
自分に一目ぼれをしたという話が本当かどうかなどとは聞けず、遠回しに婚約の相手が自分でよいか聞いてしまう。
話の振り方も唐突であったと気が付いていない辺り、ユリウスもかなり緊張していたようである。
案の定チキは首を傾げる。俺でいいとはどういう意味だろうと。
「あなたはまだ若い。デルフォード家の人間ならば求婚者もたくさん出るだろう。生涯を共にするのは俺でなく、他の」
俺で、とはつまり生涯を共にする者がユリウスでいいかと聞いているのだ。
チキ自身は婚約のことなど全く知らなかったが、生涯を共にする、つまり、番になってくれるのがこの騎士様であるならば、他には何もいらないと即座に応えをはじき出した。
「チキはユリウスがいい! ユリウスじゃなきゃ嫌だ!」
立ち上がって思わず叫んだのはチキ自身の飾らない言葉。
まだ幼さの残る話し方だが、ユリウスは決して笑ったりせず、興奮して肩を揺らすチキの横に立った。
「確認しただけだ。チキが望む限りは俺も拒んだりはしない」
思わず微笑んでそっとチキの肩に手を乗せる。
チキは「う~っ」と唸るような声を出すと、横に立つユリウスの胸の辺りの服を掴み、そのままゆっくりと身を寄せた。
ユリウスはまだ幼いチキをそっとその腕に閉じ込める。
彼女は幼い。見た目以上に幼い印象を受けるのはおそらく世間と隔絶された生き方をしてきたせいだろう(誤解)。だから、広い世界を見て回ればいつかユリウス以外の誰かを好きになるのかもしれない。
だが、そうだとしても、この目の離せない幼く愛らしい少女の幸せを思って生きていこうと心に決める。
よもや、この腕の中の小さな存在がこの上なく大きく、別の意味でも目が離せなくなろうとは思わずに。
一方チキは抱きしめられ、それをきゅうっと抱きしめ返して心に決めた。
絶対にユリウスをチキにメロメロにさせてみせるっ…と。
二人の恋は始まったばかり・・・・
第一部完




