第九小節 雨粒の交響曲第九番
僕の名前は蓮華唯一。
歳は32歳。
職業は漫画家。
最近、結婚した新婚さ!
自分でも中々、数奇な人生だと思う。
工業高校を卒業し、就職も進学もせず漫画出版社に持ち込みに行った。
当然、ダメ出しの嵐で、それでもしつこく付きまとっていたらとある人が、僕を見いだした。
床に散乱する僕の原稿を拾ったのは美しい女性だった。
「って、言うほど酷く無いでしょ」
「いやいや、蓮華編集長。美少女が異世界で送るスローライフでその絵柄っすよ。シュールっていうか……はい」
周辺の人々はくすくすと笑っている。
「え……」
その反応で僕はしょぼん、とした。
自分の絵柄は自分が一番分かっている。
「じゃあ、日常シュールにすれば良いじゃない」
「え……」
「中途半端に幼女なんていらん。アンタの日常を描きなさい」
「え……僕の……日常」
ここが一つの転機だった。
今までずっと、二頭身ぐらいの愛らしい、可愛らしい女の子が色々することを描いていた。
しかし、それはもう流行の過ぎたジャンル。その日から僕は編集長である蓮華景子が担当となりその出版社で働いていた。
漫画は描こうと思えば何処でも描ける。
だが家は危険だ。
誘われる、ゲーム、本。美少女……と誘惑が多いので僕は基本的に社内にある、接客用の個室を与えられそこで作業していた。
そして、考えた。
美少女。
可愛らしい女の子。
それらで一発。は確かに憧れだ。
けれど、この絵柄では無理だ。
唯一は自分が描いた女の子の原稿を広げる。
微妙にゆるいキャラクターたち。
これで日常……僕はそれは違うんじゃないか、と思っていた。
可愛らしい(仮定)とする美少女が、それで?
「はー……僕、本当に才能ない……」
「そんなことないと思うけど」
と、そんな僕の盛大なため息と共に現れたのは編集長謙、僕の担当になる蓮華景子さんだ。
美人で、仕事が出来てバリバリのキャリアウーマン、だけれど……結婚していらっしゃる。
僕はブンブン、首を振ってその人を見上げた。
「わざわざ、ありがとうございます!」
「もー、迷惑! 別の雑誌でも一個落としちゃってね。これ、埋められない?」
「良いんですか!!」
「お、……ぉお」
個室、とは言ったがそこは接客に使う手狭い部屋だ。僕の作品はページ数が少なく、調整にはうってつけで重宝された。
何処かにあったはずの原稿を慌てて探しだし、彼女に渡す。
数分後。
「つまらん」
「あ、ハハハ……」
「むーっ。もっと、違うのよ! もっーと、どうでもいい感じのこと」
「……へ!?」
「そもそも、アンタほとんどトーン使わないでしょ。それでキラキラ美少女は無理」
「うっ……」
「あー……そうよ、むしろ不要よ!」
「……へ!?」
「アンタ、結構センスあるんだから、やっぱりこう、ちょっと蘊蓄混じりの何気無い日常、にすべきだわ」
「日常……」
「そうよ、10代で漫画になった行く末。良いじゃない」
「……それは……シュール&ほっこりで……日常!?」
「そうなれば、完璧だけど」
「そ、それは……じゃあ、実際にいる人がキャラクターになるのか……」
「そうよ! アンタ、キャラデザ得意でしょ。これで、いい感じに動物使えば……ど?」
「お、ぉおおお!!!」
「出来そう?」
「や、って見ます」
と、そんなこんなあって今の僕のスタイルになった。
そんな時、景子さんの携帯電話から着信が入る。仕事中に珍しい。
もしや、急の仕事だろうか。
しかし、僕は一瞬、流れたその着信に動きを止める。
知っている曲だ。
確か、有名な曲だった。
それでも出てこない。
「ゴメン、息子。何、もう詰まってんの?」
「え、ぇええええ!?! 息子!?」
「だから、私は結婚してた、の。息子ぐらいいるわ」
「そう、なん、だ……」
『の』、微妙な間が気になるが、どうやら景子さんは違う意味に捉えられたらしい。
「……仕方ない、特別に教えてあげる」
「え?」
彼女はそう言うと、音楽プレイヤーを取り出し、僕の頭にセットする。
「え、え!?」
ドーン、と曲が響いた。
「うわー……」
「それはボレロ。中二だったかな」
「へぇーええええぇえ、息子さんって何の楽器?」
「トランペットよ!!」
「へぇー!! ……でも、息子……だから黒髪美少女じゃないのか……」
「残念でした~」
「……上手い、よね……」
僕の残念な音感に景子さんは頷いた。
「因みに、東京支部で金。全国ダメ金だったわ」
「はぁあああ!?!!!」
「優勝は逃しちゃったかー」
「そうだったんだ……聴きに行けなくて残念ですね」
「そうねー。親父でもいれば行かせたんだけど」
「……え!?」
「……あれ、言ってなかった? 私は離婚してるわよ」
「えぇええー!?! どーして??」
その時、景子さんは酷い顔で僕を睨んだ。
「何でアンタにそんな話……」
その頃には、僕の作風は固まっていて。
シュールな動物たちが人間の日常をそのまま映す、というものになっていた。
短編、という形式が良かったのか、同じ出版社の情報誌の隅や、ネットでブログのオチを描いている間にすっかり絵柄が固定されてしまった。
その頃には、担当である景子さんとはある程度程よい距離感を保っていた。
出来れば、彼女とはもう少し、お近づきになりたい。
彼女との話は楽しい。
彼女は最近はオフになるとそんなに僕に気を使っている様子がない。
そんな彼女だが、最近は何だか少し暗い。何故だろう。
仕事は……今は締め切りの時期じゃない。最近の企画会議でも問題なかった。
僕は普段、仕事部屋から一生懸命外出して、暗い面持ちで廊下を歩く景子さんの腕を何と、腕を掴むことに成功したのだ。
「……何だ、唯一か」
その頃には僕は名前で呼ばれている。
「ど、どうしたの!?」
いつも身形に気を使う景子さんとは思えない姿だ。
僕は急いで景子さんを僕の仕事場に引っ張った。
「……、ちょっと、ゴメン」
「……景子さん……僕、駄目だったんですね……」
最近、僕は上げていた細々した原稿を一つにして一本、大きな所に投稿した。
これが上手く行けば。
「え?」
「いえ、それでも! 僕は……」
「いや、何、何の話よ?」
「景子さん!!」
「……はい?」
「僕と結婚して下さい!!」
「……へ?」
景子さんは正に、ぽかーん、とした顔で僕を見た。
「私、子持ちだけど……」
「知ってる!! でも、いい子なんだよね。そのこと話してる時の景子さんは楽しそうだ」
「……っ! 冗談じゃない、三流の癖に何を、大体、収入だって……」
「だから、今回の賞で優勝したら!!」
僕は勢いだけで叫んだ。
押し入れみたいな部屋に炬燵。それが僕の作業場だ。
原稿なんてfaxで送ればいい。けれど、彼女はこうして時々、様子を見に来てくれる。脈がない訳では……一応ない。
そうなったきっかけは有難いことに彼女の息子君だ。
最近、気難しい、とかそんな会話からだった気がするけど。
そんな時の彼女は良く笑う。
スーツでビッシリと決めた人だけれど。
「ふざけないで。私には大学生と高校生がいるの。それで仕事、出来ると思う?」
「出来るよ! だって、僕のネタは日常だから、寧ろネタの宝庫だよ!」
「それにね、私はバツ1なの」
「……え?」
「……え?」
「だって、景子さん、その人のこと嫌いでしょ? 再婚……再再婚? ナイナイ」
「ちょ、何でアンタが」
「うーん……僕は、一応。売れてないけど漫画家なんだよね。人間観察は得意だよ」
その時、唯一の瞳はうっすら開き、景子は固まる。
「アンタ、どっちが本性よ」
「どっちも同じだよ~。結婚しよう! 年頃の娘と息子……決めた。僕が家にいるよ」
「はぁ~!? 何を言って……」
「年頃の、娘と息子だよ? 絶対に寂しいよ。景子さんは働き過ぎだよ。僕が家にいるよ」
「……アンタ、家事出来んの?」
「うっ……それだけじゃ無くて! 様子を見たり!!」
「……それは……アンタが、賞取ったら?」
「そう、賞取ったら!!」
そんな会話があった数日後、僕の今までの人生の集大成とも言える作品を大きな賞に投稿した。
僕は……まさかのまさか、賞を取った。
何だか、自分の運を使い果たした気分だ。
会社から着た封筒の中身を呆然と広げる。
年始だったと思う。僕は大騒ぎで景子さんに連絡した。
相手は当然、驚いて返事も無く、電話からゴンッという音だけが響いた。
『アンタ、本当に、いい加減に、正気!? アンタ、私と再婚したら大学生の娘と高校生の息子が出来るのよ!? ペットすら飼ったことない癖に!!』
「うっ……でも、本当に景子さんは子供第一だね」
『当然でしょ! どんだけ、今まで無労させたと思ってんの?』
「……きっと、いい子なんだろうなぁ……」
『ちょ、唯一?』
「良いじゃん。僕を利用したら」
『……え?』
「賞は取った。お金は少し来る。仕事は家で出来る」
『そ、……そんなの!!』
「息子君とコミュニケーション、出来て無いんだよね。良いよ。僕がクッションになれば愚痴でも会話があるかも」
『……そんなの……アンタ、そんな小賢しいこと、考えられたのね』
「これでも、頑張ったんだよ~!」
『そこは、認める。分かったわよ』
「……え!?」
『アンタの勝ち』
「やっっっったぁああああ!!」
『五月蝿い!! 鼓膜破れるわ!!』
と、こんな経緯で僕は蓮華唯一になった。
現在、出版社で編集長をしている嫁と大学生の娘、高校生の男に囲まれて都内のマンションに住んでいる。
最初は大変だった。
僕は仕事でほとんど籠りきりだし、聞いた話だけれど大学生の女も漫画を描いているらしい。とりあえず、こっちは大学生の女の子。
彼女は長女。男の子は次男なのだけど、急に勝手に娘、息子なんて呼んだら失礼だよね。自分でも実感してないのに。
問題は。
「今年、高三になる響一。背が高い。暗い。趣味はトランペット。あ、料理は出来るから困ったことがあったら響一に聞くのよ」
僕は一端、家で景子さんの話を聞いて必死にメモした。
「背が高い……って他に特徴はないの?」
「他、他……そーね、多分彼女いるんじゃない?」
「圧倒的リア充!!」
思わず僕は血反吐を吐いた。
僕は男子工業高校卒だ。……そこで察して欲しい。
「どーしよう、リア充か……」
ヤンキー、ではなくてもちょーっとチャラい子だったらどうしよう。
「あはは、アンタの考えてること分かったわよ。安心なさい。響一はそんなんじゃ無いわ。暗い。根暗ね」
「……え」
そんな人はイメージ出来ない。
席を入れた時、写真は見たけど、確かにどんよりした感じだった。それは、まぁ、母親が再婚、という事実をまだ飲み込めていないのかも。
けれど背は聞いていた通り高そうだし。トランペットが吹けて、……彼女がいて。
これは油断ならない。
僕はそう思っていた。
出会ったのは家の中のキッチン。
景子さんが遅いと聞いたから、ここは僕がご飯を作ろうと思った……のだけれど。
冷蔵庫に中身は詰まっている。
あ、これは不味くないか……。
冷蔵庫の中身はほぼ食材だ。
魚も肉も、野菜も、正しい方法で丁寧に保存されている。
冷蔵庫を一度閉め、僕は数分唸った。
その時、偶然良くある乾麺のパッケージを僕は見つける。
「そうそう! こういうので良いんだよ!!」
でも……鍋はドコダ?
えーと、ネギは使っていいのかな?
卵は……?
なーんてやっていたら、どんどん収集つかなくて。他人の家だから、という理由ももちろんあるけれど。
お湯すら湧かせず、絶望していた時。
「……え、えーと……」
その時、現れたのが響一君だ。
制服の上からエプロンを着用して、シャツの腕を捲る姿は様になっている。
流石、景子さんの息子だ。良い男だ。
「乾麺がいいんすか?」
「あ、えーと……これなら、僕でも出来るかな、って……」
確か僕らの始めての会話はこれだった気がする。なんたる、不甲斐なさ。
しかも彼は料理が出来るそうで。
サクサクと彼は悲惨な状況のキッチンを掃除して一からラーメンを作った。
それは素晴らしく無駄のない作業で。
最早刃物に気を付けて、火に気を付けて、なんて言葉は野暮だ。
僕は何も言っていないのに。
具はキャベツ。
作り置きなのか、ジップロックに入った出汁卵、チャーシューには少し感動してしまった。
そんな無駄のない作業を高校生男子がテキパキと続けるのだ。
そんな姿を見て、僕は決意した。
急に、親子になるのは無理だ。
生きてきた環境が違いすぎる。
そんなことより、僕はもっと彼のことが知りたい。
何が嫌いで、何が好きで。
そんなどうでもいいことでいい。
彼は、不思議な魅力がある。
確かに、簡単に言えば彼は背が高く、フォーマルの似合う好青年だ。
しかし根暗、無口、寡黙、それは違う。そういう子ではない。
何故って?
こんな何処からやって来たのか分からない男に対して彼はちゃんと目線を合わせて会話する。
こちらが向こうを知っていると理解すると自己紹介、なんて野暮はせず。僕の話を聞いてくれる。
どちらかと言えばテンションは低めだけれど、やっぱりいい子だと僕は思った。
あべこべしていたけれど、多分彼の方も僕の事を絶望的に嫌いでは……ないと思う。
フランス美少女の彼女にはびっくりしたけれど彼女は響君の彼女で確かに二人はお似合いだ。
見るに、彼は明るくて素直な人と比較的相性が良い。
だから僕も馬鹿っぽくなるのは仕方なく、なるべく明るく振る舞った。
僕も一応、漫画家だ。だから陰キャっぽい所もあるのだけれど。もう呆れられるぐらいそういうことは考えないようにした。
お姉さまの方は同じ漫画を描いているって事でコミュニケーションは取りやすいんだけど、中々響一君は難しい。
そんな事を考えて書店周辺をぶらぶらしていた。
いや、これは決して現実逃避では無く、買い出しで、そう! 画才……いやいや、画材を追い求めて……いたら。
本棚には僕の本があった。どうやら、僕の本にもフェアがあるのか、と少し感動してしまった。
新刊を手に取っていたのは響一君だ。
それを目一杯、背伸びしてツインテールのアイリスちゃんが覗き込んでいる。
「え、先輩、それ買うの?」
「え? ああ」
「へぇ。そういうのって貰えないの?」
いや、あげる!!
あげるよーーー!!
僕は叫びそうになるが、必死の思いで止まる。
「いいや。……いや、貰えるだろうけど、こういうのは自分で買いたいんだ」
「確か、先輩のキャラが出てるのはここからでしたよね?」
「うーん、今月は色々移動もあって厳しいから、こっち」
「一巻から読むんですね」
「おう。……なんか、気になって。俺、絵は分からないけど、線が綺麗で、柔らかくて。丁寧で白黒なのに読みやすい」
「ペンネームまで自分で描いてるのは凄いです! 読み終わったら貸して欲しいです!」
「ん」
響一は本を掲げて頷いた。
その時、約五分ほど。
なのに、何故か僕は賞を取った時以上に嬉しかった。
何も無ければ。
(正確には嬉しすぎてもう、あの時のちょっとした返事、めっさイケメンだった、あげたい!! けど、ちょー買ってる所みーたーいー)
という葛藤で僕は蹲り……僕はそのまま見守っていた。
けれど、そんな時。僕の真横を何かが通り過ぎた。
背が高い。がっしりした白髪だけれど年齢が分からない。そんな人だ。
ブルーグレーのコートを濡らした人が明らかに響一君を尾行している。
響一君には可愛い銀髪彼女もいる。
そっちの可能性もある。
けれど彼は授業だけで柔道初段を持っているから、そんな焦らなくても大丈夫。……だと思ってた。
けれど、そのオジサンは響一君の腕を強引に掴んで引っ張った。
当然だけれど、彼も驚いている。
書店で買ったものがガサガサと落ちる。
彼は驚いて居たものの、咄嗟の判断でアイリスちゃんを後ろに隠した。
ここは、警察か……でもでも、その人、多分、彼の本当の父親だ。そうなると、感動の……再会?
「何の用だ!!」
響いたのは珍しい。彼の怒声だった。
僕は、今更知る。
彼の腕は振るえていた。
雨の音が嫌に響く。
「聴いたぞ。都大会」
「ふざけるなよ!!」
「……お前ね、今より良い場所がある。来い」
「なっ……」
「先輩!!」
その男は強引に響一君を引っ張っていた。本が落ちる。必死に止める、小さな少女さえ見えていない。
「ちょ、離せ!!」
「何をこんな所で燻っている! お前ならオーストリアのオケでもやれる!!」
「……知らねーよ!!」
響一は精一杯、拒絶した。
男は押し倒される。
けれど、あの目はヤバい。
僕は走った。
「お前、こんな所で燻っているのか? お前ならイギリス、フランス、オーストリア。どこのオケだってやろうと思えばやれる。才能を潰して何、している」
「……違う」
「それがお前の幸せだ」
「違う! アンタはもう親父じゃないんだ!! 頼むから、そうつきまとうのは止めてくれ!!」
バコン!!
響一は鞄を目一杯、その人に向かって投げた。
しかし、鞄はずるずる落ちる。男の表情は変わらず。
「相変わらず、聞き分けの悪い子だ」
手が、伸びる。
雨の中。
僕は気が付けば、その場の中央に立ってその男と向き合っていた。
「それは犯罪です!!」
「何だ、その貧相な男は」
「……父さん」
後ろから響一君の声がする。
僕は荒い呼吸を必死に隠してガードレールで両手を広げる。
「僕は蓮華唯一。彼の父親です。これ以上、不信な行為を続ける、と言うのなら通報しますけど」
僕は携帯電話を掲げた。
「あははは!! 残念だねぇ。僕は彼の親父だ、そんで、いー就職先紹介していたんですけど」
また、良く口が回る。
そんな事を思っていたら、僕の片腕が響一君に引っ張られた。
「大丈夫、荷物拾って逃げる準備しといて」
僕の小声に彼は頷く。
「はぁー? 何、言ってるんですか。今更。彼の親父は書類上、問題なく僕ですけど?」
「ふざけるなよ! 作曲家のこの僕と! どっちが良いか、ぐらい分かるだろうが!!」
強引な拳を僕は片手で受け止めた。
「これで最後です。次、警察呼びます」
「呼んだ所で、逮捕されるのはお……ぐぇえ!?!?」
男は最後まで言葉を発することなく、アスファルトの上に沈んだ。
蓮華家宝刀回し蹴りも本気でやれば、これぐらいの威力は出る、と。
僕はそのまま、男の頭を踏んで見下した。
「あのさぁ。普通、今、来る? 馬鹿じゃねぇの?」
「……と、父さん」
ちょい、ちょい、と僕のジャージが引っ張られる。
「え、もう良いの?」
僕の問に彼は何度も頷いた。
「そ。じゃあね。まあ、次はないと思うけど」
今は可愛いフランスの女の子もいる。
むやみやたらに警察沙汰にするのは良くないだろう。
僕は二人を引っ張り、途中でタクシーを拾い、何度も撒いたであろうと確認して家に帰った。
その途中、今更だけれど、本当に父親との感動の再会、だったらどうしよう。
「あの……」
「ありがとうございます。父さん」
彼は何も戸惑わず、何も疑わず、僕を真っ直ぐ見つめて『父さん』と呼んだ。
何があった訳ではない。けれど。
「良いよ。これぐらい」
何も言わなくったって分かる。僕は彼の濡れる手を握った。
家に帰ったら速攻でアイリスちゃんを二人でお風呂に押し込んだ。
着替えについては深く考えてなかったけど、お姉ちゃんの分もあるし大丈夫だろう。
響一君は濡れないようにお風呂場の後ろに体を預けていた。
呼吸が荒いのでペットボトルの水を渡す。
僕は、タオルやら何やらを用意して大忙しだ。響一君の様子を見るに、『茫然自失』と、言った感じだ。
「……はー、すみません」
「え? 良いよ、良いよ。っていうかあれで良かった? やっぱり警察呼ぶ?」
「……いえ、強いんですね、驚きました」
「まあね。僕、男子ばかりの工業高校で、ちょーっと齧ってたんだ!」
僕が拳をシュッと動かす。
そんな姿に響一君はようやく苦笑した。
「ねぇ。あれって……始めて……じゃないよね?」
響一君は暫くして頷いた。睫毛に付いた水滴が落ちる。
「景子さんには……?」
首は振られた。
「小学校の頃から、ずっと、音楽で何かがある度に。必死に逃げて、でも、もしお袋が知ったら引っ越ししなきゃならない。ウチにそんなお金、無かったから」
「……」
僕の拳は怒りに振るえた。
やっぱり、景子さんには話した方がいい。
そんなことを考えていると、お風呂のドアが控え目に開いた。
「!?」
「あの……先輩、貸して欲しいです」
「……へ!?」
ドアのすき間から覗くアイリスちゃんはびっくりするほど美しい。
もう、性的にどうこう、なんて思い浮かばないレベルで。
彼女は顔だけひょっこり出して響一君の腕を強引に掴んで引っ張った。
「え!? いや、いやいやいや」
「だいじょうぶ。慰めてあげる」
「……はい」
ぱたん、とドアは閉まる。
気になる!
気になる!
気になーるー!!
けれど僕は流石に空気を読んだ。
そうか、あれが響君の本当の父親、なのか。何かの作家だった、という情報は知っていたけれど。
今、僕がしている指輪は景子さんが選んでくれた。新しい物だ。
彼は自分の進路はもう決まっている。
一応、日本の音大に進学して、春か夏に、どうやらフランスから来ている指揮者に一緒にちょっと来ないか、と誘われているのだ。
だから、もう暫くはウチに居ますよ。
そんな話をしたのが最近。
彼の本当の父親がまさか作曲家だったとは。
それもそうなのだけれど、それはそれで……お風呂場を覗きたーい!!
一緒に……お風呂……は駄目だよね。それぐらい、分かってるよ!!
そんな時。僕は度々あった、景子さんの様子が可笑しい時を思い出す。
「そうか……彼女、知ってるのか……」
ぴちょん、と水滴が落ちる。




