第七小節 輝く星の子守歌
都大会後で、良かったのか。
それとも起こるべくして起こったのか。
都大会後、ある日突然響一はダウンした。何でも、風邪だが菌性ではないらしい。
少なくとも三日は来ないだろう、とセレスタンは言う。
倒れた。
また随分唐突だった気もしたが、毎日話題、問題提供を惜しまない吹奏楽部員の部長という激務。それに都大会。
更に試験まであった。
けれど、それだけで響一が倒れるのだろうか。
当然それでも練習は続く。
都大会で金賞。しかも東京支部大会行きが決まった藤堂高校吹奏楽部。
これまで、延々と基礎、基礎、基礎にメロディー、といった感じでとにかく基礎基準の底上げ練習がメインだったのだが、テクニカルな部分の練習をする為か、最近、OBのプロの演奏者がやって来た。
「スゲー! 美人!!」
「あの人、知ってる!! 暮葉 椛」
「プロだってさ」
一人は、ザ・大人音楽系の美人。オーストリアのオケでヴィオラを奏でているそうだ。
「私は、主にコンバス、木管と高音の指導になります。よろしくね」
もう一人は、体格が良くふくよかな金髪で夢野川がピクリと反応する。
彼はドラムのプロだそうだ。
明るく、また思ったことが考える前に口から出てしまっている。
「僕は八木橋 幹。八木ちゃんか、みっちゃんって呼んでや~」
何故か関西弁。けれども何故、と聞くとそれはそれで話が長くなりそうだった。
その日も当然、合奏練習はあった。
吹奏楽部の部室当然となった第一音楽室。
早朝、アイリスが音楽室に行くと夜宵に即行で掴まった。
「せんぱい?」
アイリスは以前ほど夜宵に蟠りはない。それでも、いつも突然なので流石に驚く。
夜宵は小声でアイリスに話した。
「小ピンチやわ。新しい指導の先生が来とる。けど、部長がおらへん」
「そうですね、自由曲、どうしましょう」
「お願い、アイリスちゃん、お願い!!」
夜宵はパンッと手を合わせてアイリスに頭を下げた。
奇しくもそれはあの時と似たような状況なのに頼む内容は真逆で面白い。
「良いですけど……でも」
「ずっと、一番部長の側におったアイリスちゃんがええやろ。ウチ、ちゃんと支えるから」
そんな言葉から、彼女もまた成長しているのだろう。
久々の合奏練習となる。
部員は緊張したが、ソロパートの場所に立つアイリスを見るとやはり華やかさに満ちている。
当然のように演奏は駄目だった。
むしろ、響一がいないが故に駄目な部分が浮き彫りになる。
課題曲は全体的に構成が甘くなり、失速して、音量の迫力が欠けた。
自由曲は悲惨だ。
アイリスのソロが駄目な訳ではないが、合奏部分では圧倒的に合奏に負けソロパートは確かに音量も音程も間違いないのに何処が強引な気がして。音が固い。
それでも部員たちは今までアイリスはアイリスでトランペットのメロディーを支えていたのだ、と改めて気か付かされる。
音の出し方、強弱は限りなく響一の音に近かった。
駄目だったけれど、得るものも多かった合奏だった。
何度か、指導者たちは止めようとした。しかし、セレスタンはその手を止める。
演奏が終わった。
二人の指導者は困った様子でセレスタンを見た。
「えー。ウチ回りくどいん苦手やからハッキリ言います。全然駄目です! 君達本当に都大会優勝したの?」
「そうね。全体的にガックン、って感じだけれど。でも、何か探り探り、って感じだったわ。何かあったの?」
「キョウイチがダウンしちゃって。何時もと編成、チガウ」
暫くして、八木橋は納得したように頷く。
「あら。本当。トランペットが少し違うわ」
「ああ、あの背の高くてやたら巧い。何、来てないの?」
「ダカラ! 三日ほど来ないのでその間にメロディー部分をどうにかしましょう、って話したデショ!!」
「悪い、悪い。せやけど、都大会の時とは天と地の違いだわ。そんな凄いの?」
「キミ……」
「いやね、オレは都大会に観客として一度聴いただけだからさ。ありゃあ、恐れ入る。高三の実力じゃない。プロと肩を並べる実力さ。だから直接、聴きたかったのに」
「そうね。まるで大きな木が抜けてしまったみたい。それに、セレスタン。その子に指導、したのかしら? 私達は彼に何も言うな、とはどういうことかしら?」
流石に音楽に命懸けてる系美女。
また怖い笑顔だ。
「ええ。ワタシは彼に技術面での指導はほとんどしていませんよ。必要ないし。最初と最近はちょっと感情面の指導はしましたが、それも必要ないし」
それは驚きの事実だった。
「それに、ワタシが一番、彼の演奏が好きなので。言うこと無くなっちゃって」
正確には、好きになってしまったのだ。
聴いている間に。
一人、レベルの違うトランペット。
最初はセレスタンでさえ、彼の特殊性に気が付かなかった。
努力家で、こちらの注文には素直に、何も疑いもせず答えて。
「彼の演奏は本番、というか、合奏、演奏会では常に全力の情熱に満ちた、蠍座のアンタレスなのです。けれど、木のようで土、土壌のような演奏者です。直接聴かない限り、今文句を言っても後で後悔するだけですよ」
蠍座のアンタレス。
アンタレスは蠍座の星で赤色超巨星だ。セレスタンらしい例えだし、確かにその通りだ。
「それと、キミが噂の留学生? おーい、やーい、フランス人ちゃん? Bonjour? やる気、ある?」
男は、ひらひらとアイリスの前で手を振る。
「それは、どういう意味で?」
「いや、悪くない。せやけど、ちょっと違うんだよなぁ。もっとキミらしくやったら?」
「これが私の全力です。今の私はソロパートの支えです。ずっとその練習をしていました。そりゃあ、ソロを吹けと言われれば吹きますが、誰しもが蓮華先輩と違うと思うでしょう」
また随分、冷徹な声と言葉に、八木橋は固まる。セレスタンの内弟子、と聞いていたから、もう少し愛想があるだろうと思ったのだが。
「それは、私が一番そう思っています。同じ星には成れません。夜空に同じ星は存在しない」
そんなこと。アイリスが一番分かっている。
「こりゃ、またお上手。分かった。分かりました。ソロを抜いた。メロディー部分の底上げ。これが僕らの指導内容ってことね」
「そうね。その部分なら幾らでもこちらも容赦も手加減もしないわよ?」
と、彼女はまるで美女なのに、何故か悪魔のような微笑みで言った。
「打楽器と、パーカスは覚悟しな」
そんな八木橋に、海はまるで興味無さそうに、一睨みして眼鏡の位置を戻す。
「ええ。上等。お前ら、いつも通りに。テクニカルな部分の指摘は基本的に聞くこと。三日後最終調整」
「イエッサー、ボス!!」
打楽器とパーカスは完全に海の支配下だ。全員が直立して海に敬礼した。
そんな様子の海を見て八木橋は面白そうに笑う。
「あはははは、いいねぇ、面白い! んじゃあ、ズバズバ行くぜ!!」
そして、全員がズバズバ所か、ズサズサに刺された。
今日も暑い。
しかし、やはり合奏ばかり練習は出来ないので基本的にパート練習になった。
アイリスは練習中、突然セレスタンに呼ばれて驚く。
夕刻。誰もいない職員室。
温度が設定された冷房には紐が付いて風に揺れている。
セレスタンの席は和洋折衷ごちゃごちゃしていて、お洒落な電灯の上にチリン、と風鈴の音がする。
「響一が倒れました」
「はい」
「アイリスはドコマデ、知ってる?」
「部活終わりに。突然クラっと目眩がしたみたいに倒れたと聞きました。私はその時、居なかったので……」
「ワタシは、あれから救急車、呼ぼうかと思った。でも響一に止められた」
「……え?」
「彼はワタシに言った。『理由は分かっているんです。自宅まで、送って頂けませんか』ワタシはそうするしか無かった」
「後で連絡だけ来ました。『両親が再婚して、ちょっと家が……』と」
「……え」
蝉の鳴き声が妙に職員室に響く。
いや、コピー機の音、パソコンのブラインドタッチ音。色々な音が中途半端にフェードアウトする。
「母子家庭だとワタシは知っていますが、彼の家庭事情はそこまでではないのです。再婚。名前、変わる?」
「えっと……どうでしょう」
「セレスタン知ってる。キョウイチ、ずっと母親だけだった。父親なんて、この歳で……なんて……こんな……突然……」
セレスタンは最後まで言い切れず、頭を抱えた。
「アイリス」
「……はい」
「お見舞い、頼んでも良いですか?」
セレスタンは本当に心配した表情でアイリスの手を握る。
昔だったら、無条件にときめいて。騒いで。煩かった心臓も今や大人しく。アイリスはその手を握り返す。
「……はい。分かりました」
元々、藤堂があるのは自由が丘、汐留だ。アイリスは電車を二、三本乗り響一の家まで行った。
何度か行ったことはある。
響一の家庭事情も知っている。
「母親が……再婚」
セレスタンは聞いた。名前が変わる?
突然?
蓮華響一では無くなるのか。
ずっと、母親と姉だけだった家族に男性。父親。心境なんて想像も出来ない。
響一の家は高級マンションだ。
母親が出版社の編集長だという事までは知っている。
何度か会ってみたい、挨拶もしたいと響一に言ったことはある。
しかし、またズバズバ言う人らしくアイリスが彼の母と面会すればそれはほぼ結婚を前提とした挨拶も同然だとか。
そこは親子、似ているのか有り無しハッキリした人だということだけは分かった。
けれどアイリスはどうしても響一に会いたかった。
彼が家族に対して複雑な心境を抱えているのは知っている。
苦しみも、葛藤も、やるせなさも。全て抱えて、察して、誰にも悟られず。
不動の部長としてトランペットを奏でているのだ。
彼はただの天才ではない。
例え母親がいても。
父親と呼ぶべきなのか分からぬ人がいても。
アイリスは響一の家に行く決意をする。
高級マンションのドアのインターフォン。
押そうとして気が付く。
響一に連絡を全くしていなかった。
インターフォンを押そうとしていた指が止まる。
それは流石にまずい。
いくら親しいとはいえ、礼儀は大切だ。
けれど行くしかない。
アイリスには気持ちを全力でぶつけるしかないのだ。
インターフォンを押すと随分と長く音が響いた気がした。
数分の間。
きょろきょろと周囲を見渡していると、キィ、とまたゆっくり、小さくドアが開いた。
そこから予想通りと言うべきか、どんよりした表情の響一が顔を覗かせる。
まるでホラーだ。
「……アイリス?」
「はい。アイリスです」
「……アイリス!?」
数分後、響一は復活したかのようにドアを開く。
黒いシャツにジャージという随分ラフな格好をした響一は新鮮だ。
「え、あれ、」
「すみません、お見舞いです。連絡するタイミングが……」
「あ、そう……」
「今、大丈夫ですか?」
「あー、いや、大丈夫、だけど……」
「出直します? 帰りましょうか?」
アイリスが踵を返すと、途端に腕を捕まれ流石のアイリスも驚く。
「先輩!?」
「……アイリスだ」
「……はい。アイリスですけど」
「……会いたかった」
そのまま抱き締められ、更に驚く。
「あの、ここ、玄関ですよ!」
「会いたかったんだ」
響一の頭がアイリスの肩に乗る。
その素直で弱々しい姿が妙に愛しくて頭を撫でようとしてアイリスは思い止まる。
ここは外だ。
「あ、あの、お家の人に……」
「やだ」
「やだって……」
「多分いない。俺の部屋」
「……はい」
何故か響一の家は妙に暗い。
確かに、家族は誰も居ないようでリビングの机の上に妙なメモがあった。
「これ……」
「親父。いいタイミングに来たな」
メモには『買い出しに行ってくる』という内容だけなのにやたらとごちゃごちゃした絵が描かれていて、アイリスにはそれが何だか分からずしばらくそのメモを凝視する。
「んー、熊?」
「俺だそうだ。ああ、親父は漫画家なんだ」
「へー!? でもなんで熊ー!!」
「ゆるきゃら? 風の俺らしい」
響一は麦茶を用意しながら苦笑する。
「嫌な人じゃない? 父親? 悪い人? 先輩は蓮華じゃ無くなるの?」
アイリスの怒濤の質問に驚きながらもコップに麦茶を注ぐ。
「詳しくは俺の部屋で話すよ。ちょい待ってて」
「分かりました。これ、貰っていいですか?」
「え? そのメモ?」
「熊、先輩、ハチミツ。そう思うと可愛い」
「……そうか?」
アイリスはこくこくと頷いた。
見れば見るほど愛嬌がある。
確かに似ている気がする。
響一の反応を見るに、父親、となるべく人は悪い人ではないのかもしれない。
そんなメモをによによと眺めながら響一の部屋に入ると、そこには鍵があって驚く。
勉強机とベッドが主な家具なのだが、そこには蓄音機とレコードがどっさり、ごっちゃりと散乱していた。
ベッドはぐちゃぐちゃで、それは突然来たのだから当然だ。
部屋は響一の匂いと生活感に満ち溢れていて、アイリスは胸がきゅっとなる。
これはやるしかない。
「えーい!!」
そのベッドに勢い余ってダイブすると、胸がいっぱいだ。
「すごい、先輩の匂いだー!!」
ばたばたと暴れる。
「あー、その、……そんなに綺麗な部屋ではなく……」
「ひ、ひゃぁああ!?!?!」
麦茶とお茶請けを抱えた響一はそんなアイリスに苦笑しながらも部屋に入る。
アイリスは挙動不審でお茶請けを挟み響一と向き合った。
スッとセレスタンから渡された和菓子を真っ赤な顔、無言で差し出す。
「ああ、すまん」
「い、いえ……」
しばらくして、アイリスは訪ねる。
「先輩は、蓮華先輩じゃ無くなるの?」
「ん? いや。親父が婿養子になるから蓮華のままだ」
「そうなんですか……親父、って呼ぶの?」
「うん……まぁ、……第一印象はな、悪くない人だよ。絡み方がちょっとウザいけど」
「そうなんですか……」
「うーん。まだ、会って三日も経ってないからなぁ。何ともだ。嫌な人じゃない。それは分かる。けれど、……アイリスや篠宮に会ったらそりゃあ、ウザいだろうな。そういう人」
「どういう人じゃ!」
アイリスのツッコミに響一は苦笑する。実際に会えば分かるだろうけれど。
「嫌なこと、ない?」
アイリスは響一の瞳だけを見て尋ねた。
「男の弱音なんて聞きたいのか?」
彼女は頷く。
「言って。知ってる。先輩は絶対に弱音は吐かない。挫けない。逃げない。それは格好いい。そういう所も好き」
アイリスは響一のシャツの端を掴む。
「けど、私はいいの。弱っている先輩も、苦しい先輩も、そんな先輩も、響一君も好きなの。だから、私に我慢される方が嫌。……えっと、分かる? 日本語、あってる? ……えっと」
「アイリス」
そのまま、ぎゅっと抱き寄せられる。
「会いたかった」
「うん」
「嫌なことはない。でもキツい」
「キツいの?」
「そうとしか言いようがない」
「慰めていい?」
「是非」
「じゃあ、おいで」
「え……」
アイリスは両手いっぱい広げる。
妙な間の後、響一はアイリスの胸元に頭を置いた。
そのまま、ベッドに寄り掛かるとアイリスは優しく響一の頭を撫でる。
「重くないか?」
「はい。大丈夫です。何も考えないで」
アイリスはゆっくり、響一の頭を撫でる。昊が夕刻の緋色に染まり部屋は柔らかい色に包まれた。
アイリスは思い出したように響一に聞いた。
「そういえば、先輩ってアンタレスって知ってますか?」
「……ああ、蠍座の……ええっと、アンタレス(Antares)は、さそり座星。さそり座で最も明るい恒星だ。全天21の1等星の1つだな。夏の南の空に赤く輝くよく知られる恒星の1つ」
「流石詳しい」
「ちょっと待って」
響一はアイリスに体を預けたまま、近くの本棚から一冊の厚い図鑑を取り出す。
ペラペラとページを捲ると赤い星が写真に写っていた。
「本当に真っ赤だ」
「アンタレスは凄く大きくて、太陽より大きい恒星だな」
アイリスは興味深げにその図鑑をペラペラと捲っていた。
「先輩は星が好きですね」
「星、というか宇宙かな。広くて、限りが無くて。未知で。そんな空を眺めていると自分の悩みなんてどうでも良くなる」
響一は遠い目をしながら言った。アイリスにもその感覚は少し分かるかもしれない。
「セレスタンが響一はアンタレスだって言ってました」
「それはまた大層だ」
「私は何かな」
「シリウス」
「ええっと……」
「シリウスは、おおいぬ座で最も明るい恒星で全天21の1等星の1つ。太陽を除けば地球上から見える最も明るい恒星なんだ。冬の大三角形の一つだ」
「あ、これか」
図鑑には青白く輝く星の写真が載っている。
「そういえばアイリス、お盆は暇か?」
「一応、実家に帰る予定はないですよ」
「そうか。良かったらキャンプしないか?」
「キャンプ!!」
「父の父……ええっと、俺の義理の祖父が芦ノ湖でキャンプ私設を経営しているそうだ。道具等、色々貸すから良かったら来ないか、って」
「それって、富士山見えます!?」
「天気が良ければ見えるんじゃないか。息抜きにどうかな」
「行きたい! 実は富士山、まだ見たこと無いんです!」
「そうか」
そんな会話をしながら、アイリスはよしよし、と響一の頭を撫でる。
本当に行くのかは未定だけれど、そんな会話は嫌いではない。
アイリスは行ってみたい所を色々と話した。
「中禅寺湖、竜頭の滝にも行ってみたいんです。聞いただけなのですが、竜頭の滝ってエレベーターでグーンと行くって!!」
「ああ、そういえばそうだな」
「後、温泉!」
「王道に京都じゃないのか」
「行ってはみたいけど、ちょっと遠いし見るところ多すぎ」
「確かに」
いつかの仕返しだ。
気が付いたらアイリスは懐かしき子守歌を口ずさんでいた。
「Au clair de la lune,
Mon ami Pierrot,
Prête-moi ta plume
Pour écrire un mot.
Ma chandelle est morte,
Je n'ai plus de feu;
Ouvre-moi ta porte,
Pour l'amour de Dieu
Au clair de la lune,
Pierrot répondit:
«Je n'ai pas de plume,
Je suis dans mon lit.
Va chez la voisine,
Je crois qu'elle y est,
Car dans sa cuisine
On bat le briquet.»
Au clair de la lune,
L'aimable Lubin
Frappe chez la brune,
Elle répond soudain:
–Qui frappe de la sorte?
Il dit à son tour:
–Ouvrez votre porte
Pour le Dieu d'Amour!
Au clair de la lune,
On n'y voit qu'un peu.
On chercha la plume,
On chercha le feu.
En cherchant d'la sorte,
Je n'sais c'qu'on trouva;
Mais je sais qu'la porte
Sur eux se ferma.」
優しく囁くように響一の頭を撫でながら口ずさむ。
「この曲は……」
「『月の光に』っていうフランスの童謡、子守歌です」
「通りで。なんだか眠くなって来たぞ」
「そのまま寝ちゃって下さい。この曲、初心者向けの練習曲にも使ったりするんですよ」
アイリスはぽんぽん、と響一の背中を撫でながら囁く。
「月の光に、わが友ピエロ、
君のペンを貸しておくれ、一言書きとめるために。
私のろうそくは消えている、私にはもう火がない。
扉を開けておくれ、
どうか後生だから」
月の光に、ピエロは答えた。
「私はペンを持っていない、私はベッドの中にいる。隣の家へ行きたまえ、彼女がそこにいるに違いない、なぜなら台所で
誰かが火打石を打っているから」
月の光に、優しいリュバンは
栗色の髪をした女性の家(の戸)を叩く。
彼女はすぐに応じる。
「そんな風に戸を叩くのはどなた?」
そこで彼はこう告げる。
「扉を開けて下さい、
どうか後生ですから!」
月の光に、
二人はほんのわずかしか見えない。
二人はペンを探した、
二人は火を探した。
そんな風にいろいろ探して、
何を見つけたのやら私は知らぬ。
でも私は知っている、扉は
彼らの方に向けて閉まったのだから」
アイリスが翻訳してくれた歌詞は不思議な言葉だった。
彼女の呼吸を感じ、体温に身を任せて優しい旋律を聴いていたら響一はすっかり寝てしまっていた。
アイリスは少し安心した。
思ったよりも新しい父親なる人物は悪い人ではないらしい。
そんなことは響一の言葉の数々で分かる。
新しい父や、その親族について語る響一は穏やかだった。
アイリスは響一にそっと掛け布団をかけて部屋を後にした。
長居するのも悪いだろうと置き手紙を残し、アイリスはそのまま帰ろうと玄関の扉を開いた。
しかし、何故、タイミング良く現れるのか。ドバン!! と開いた扉から謎の男が突然飛び出した。
「うわああぁあ!?」
「きゃぁああ!?」
お互い、絶叫の後、数分見つめ合う。アイリスは思い出したようにペコリと頭を下げて自己紹介をした。
「あの、えっと、お邪魔しています。私は……響一さんの後輩のアイリス・クリスティーヌです」
「うわぁああ!! 銀髪美少女だぁああ!!!」
と、スライディングで飛び付いて来たのでアイリスは華麗に避けた。
なるほど。これがウザいという反応か。
「あんまりウザいと嫌われちゃいますよ」
「うっ……。僕は蓮華唯一。きょーくんから話は聞いてる?」
アイリスは頷いた。
「そうだ。折角だからお茶でも飲んで行きなよ。それにちょっと聞きたいことがあるんだ。時間は大丈夫?」
「大丈夫ですけど……」
これが、この人が蓮華唯一。響一の新しい父親。想像よりも若い人だ。
そして何故かにこにこ笑顔で人は良さそうだ。アイリスは数分考えて頷いた。
普段は響一が主に使う台所。
少し手つきは怪しいがお茶はちゃんと美味しかった。
唯一と向き合うと少々謎の空間が生まれる。そんなことお構いなしに唯一は話し出した。
「びっくりした。本当に銀髪なんだねぇ。もっと白髪っぽいのかなぁ、と思ってた」
「そういう感じの銀髪もありますよ」
「今日はどうしたの?」
「お見舞いです。……あ、すみません、突然連絡もせずに……」
「いいよ、いいよ。きょーくんの部屋には入れた?」
「ええ」
「ええっと……きょーくん、やっぱり色々あって疲れちゃったみたいで……様子は大丈夫?」
「まだ、ちょっと落ち込んではいましたが暗い感じもしなかったし、体調は大丈夫そうでした」
「本当!? よかったぁ。僕が行っても邪魔だからさぁ」
ほっとした様子の唯一を見るに、父というよりは兄のような感じだ。
アイリスは響一との関係を話すべきか考えた。
しかし、響一はまだ全快ではない。
余計なことを話して唯一が騒ぐのも困るだろう、と判断してアイリスはお茶を飲む。
「きょーくんってトランペットが好きなんだよね」
「はい。知らなかったんですか?」
「景子さんから話だけは聞いていたんだ。小学校の頃からずーっとトランペットと水泳一筋でとっても上手だって」
アイリスは頷く。
「上手ですよ」
「それに吹奏楽部の部長で、大会でソロをやるって」
「はい」
「凄いよねぇ。聴きたいなぁ。ねぇ、部活ではどんな感じなの? やっぱり部長らしくビシビシ仕切るの?」
どうやらこの人は一端話出すと止まらないらしい。
「いいえ。そういうタイプではないです。黙々としている人ですね。それに、よっぽどのことがないと滅多に先導する人でもないです」
「そうなんだ……実を言うとね、僕はちょっと悔しいんだ」
「悔しい?」
「きょーくんが倒れた時にさ、顧問の先生が家まで送ってくれたんだ。僕だって車、持ってるのに」
ぶー、と唯一は不満そうな顔をしている。アイリスはくすくすと微笑みながらも話を聞いていた。
「そりゃあ、突然ってのは流石に無理があるのでは?」
「それは分かるんだけどね。父親……やっぱり、突然ってあんまり実感が湧かなくて」
「でも、先輩は嫌いではないって言っていました。確かに、突然親子になるのはちょっと大変だけれど」
「君はいい子だね。流石、きょーくんが選んだ彼女だ」
「え!?」
「これでも一応、僕は漫画家なんだよね。人間観察は得意なのさ」
と、唯一は軽く片眼を瞑った。




