第二小節 ラ・カンパネラのラビリンス
何故か蓮華響一が上川すみれにぶん殴られた。
その出来事は吹奏楽部員にとっても柚姫にとっても少し衝撃的だった。
柚姫は木管楽器で響一は金管楽器なので関わる機会は少ないのだが海が珍しく随分響一のことは慕っているので柚姫にしても彼に対して悪い印象はない。
むしろ無茶苦茶トランペットの巧い不動で寡黙な先輩、というイメージだ。
部長という点からすると蓮華響一は案外こざっぱりした人だ。あるならある。ないならない。多少……いや、大いに自己評価が低すぎるのも問題だが、そこは柚姫がどうこう言う話ではない。
それに最近はアイリスに随分ぽこぽこと殴られ引っ張られという様子は見ていてとても面白い。
夏はと言えばコンクール。練習は必然的にハードだ。しかも、テンポの速い課題曲に緩やかな自由曲。
合奏は週に二度。
少ないです! という部員の抗議に多すぎても変化がないんだからムダデショ? とまた美しい笑顔でセレスタンは答えた。
他は休みな訳はなくパート練習と個人練習。合奏のレベルを底上げするのならばとにかく反復練習するしかないのだ。
そんな練習にセレスタンは指揮棒は振らない。
聴いてはいるが(時々寝ているけどそれは大体、演奏が駄目な時だ)そしてその基礎的に駄目な部分のダメ出しで大忙しだ。
そんな日々。皆、色々あるがとにかく頑張ろう、というのが日常になっているある日の出来事だった。
特に二年生は心中複雑なのか噂話が絶えず演奏に集中力が欠け。結果、セレスタンが居眠りする始末だ。
蓮華響一を殴ったのは二年生のフルート。上川すみれ。儚く、少し気弱そうな美少女なのに、何故か響一を全力でぶん殴った。
必死に峠 つばめを部に戻して!
と叫んでいた。
峠つばめ。
彼女は二年生のトランペット。一年生の時に吹奏楽部が全面活動停止になり。その時運悪く腕を怪我したとか。
今日は月曜日で月曜日は基本的に朝練のパート練習だけで練習は終わる。
セレスタンの指導方針はハードな練習は慣れ。
必要なのは基礎の底上げ基礎のメロディー。
本番の際の最高のモチベーション。
誰もが憂鬱でやる気も士気もない月曜日に無理に練習は組み込まない。そして部員の様子を見てやる気が無さそうだと判断するとさっさと帰ってしまう。
そしてあれやこれや部員が驚く手を使って練習に興味を引き戻す。
コンクールとは全然関係ない曲を突然演奏し出したり。突然、謎のスポーツ大会を開催したり。突然部員達の問題会議という名の年功序列そっちのけの文句言いたい放題会を開催したり。
そういうことに関する着眼点と行動力と企画力が凄まじく流石は巨匠だ。
練習がない、もしくは早く終わる場合。
つまり自主練習してね?
と、いうことだ。
これを単なる休みだと思い怠けると週二回の合奏練習で痛い目を見るのである。
朝練習が終わり柚姫は椅子や楽譜台を片付けながら首を傾げる。
何故、フルートの上川すみれがトランペットの響一を殴ったのだろう。
アイリスは最近特に響一と親しい。何か知っているだろうか。
柚姫はトランペットのメンテナンスをしているアイリスを後ろから捕獲する。
「うわっ!! 柚かよ。ビビッた」
「ごめん、蓮華先輩、大丈夫だった?」
頬を指差し尋ねるとアイリスは頷いた。
「ああ。ちょっと唇が切れて血が出ちゃったけどリップ貸したら直ぐ治った。殴られた頬はちょっと赤くなっただけ。見た目通り非力な美少女だってさ。相変わらず特に怒っても無かったぜ」
「そうなの。良かった。……って、リップって」
「ただ! 薬用のリップを選んで買ってあげただけ!」
「はい、はい」
「ゆずー」
「ごめん、ごめん。でね、どうして、あの先輩は蓮華先輩を殴ったりしたの?」
二人はこっそり今日も練習に来ている上川すみれを覗く。寡黙にフルートの基礎練習を奏でている。巧いが音が異常に淡白で更に音量も小さい。まるで本人を現しているかのようだ。
「ごめん。それは分からなかった。きょ……蓮華先輩的にはちょーどうでも良くて、ちょー面倒くさいって言ってたけど」
「蓮華先輩らしいね。で、どうして理由を聞かなかったのかなぁ。ただ蓮華先輩が関係無さそうにしていただけかなー?」
つん、つん、と柚姫はアイリスの頬をつつく。
アイリスは照れながらも白状した。
何でも、その日の週末の晩は蓮華家に泊まったらしい。
アイリスは学校寮なので良くあることだし柚姫の家に泊まったこともある。
確か聞いた話だが響一の家は所謂、都内の高級マンションらしい。
トランペットのメンテナンスと蓮華家の大きなお風呂、更に響一の作る食事は美味しい。
彼は母子家庭であるという話は有名だが、更に彼の母は漫画雑誌の編集長だと聞く。有名出版社の編集長らしく忙しいので帰宅は遅いか帰らないことも多いとか。
噂通りの女系一家だ。
響一が随分、女性に興味が全く無さそうなわりに扱いが上手く紳士的なのはこの家庭状況が大いに影響しているとアイリスは語る。
姉はデザイン科の大学に通い、何でも夏? は忙しいらしくまたいない時が多い。アイリスはちゃんと挨拶したい、と何度か響一に言ったが姉と母の反応が面倒過ぎるのでもう少しアイリスの気持ちが固まってからの方がいい、と言われたそうだ。
悔しいがそれは正論だと柚姫も思う。
お風呂上がりに防音の部屋でセッションして。
そんなこんなで気が付いたらアイリスはすっかりその話を忘れていた、ということだ。
そんな話を一通り聞いていた柚姫は美しい笑顔で微笑む。
「つまり楽しい週末を過ごしていたらすっかり忘れちゃったのね」
当然。トランペットのセッションだけではなかったのだろうけど。
「うっ……」
アイリスの様子を見れば言い訳する言葉も思い浮かばないのは一目瞭然だ。
「今日、その人来ているらしいですよ。峠つばめ先輩」
梓の言葉に柚姫は驚く。アイリスは知っている様子だ。
「……え!?」
「蓮華先輩に話があります! ってまた大きな声でさ。ボーイッシュな人だったよ~」
梓は思い出したように言った。
「ま、部長は嫌々引きずられてました~」
と。
それはまた響一らしい話だが。
「ぶちょーなら低音パートの教室にいるよ」
「ひゃうぅう!!」
突然、後ろから話し掛けられて振り向くと低音の先輩だった。綺麗な飴色の髪をポニーテールの位置で横に括った今風の可愛らしい先輩だ。
名前は藍沢紫織。二年生だが彼女は筋金入りの……スザーフォンに命懸けている系少女でやはり低音の中でも飛び抜けて上手な人だ。
彼女の楽器は珍しくスザーフォン。愛称はスザンヌと同学年には呼ばれている。
立奏を前提として設計されており演奏者を中心として管は大きく円形に巻かれ大きく開いた朝顔は演奏者の後方から立ち上がりほぼ前方または上方を向く。袈裟懸け状に一方の肩に乗せてチューバ奏者によって演奏される。彼女も演奏の構成でチューバを担当する時もあるが、その時の差は一目瞭然だ。
スーザフォンはパレードやマーチングといった行進のほか、デキシーランド・ジャズなどで好んで用いられる。動きのある野外演奏を大前提として考案された楽器なので立奏用のチューバと比べ楽器の保持が容易で長時間の演奏に適しトランペットやクラリネットなどの小型の楽器とともに俊敏な動作もできる。パレードで見かける白く大きな楽器をイメージすればいい。
スーザフォンの大きく前を向いて開いた朝顔に団体の名称や絵などを描き入れた薄い布を強く張って使うこともよくある。隊列の後方から放たれる重低音とともに巨大な姿による圧倒的な存在感を観衆に示している。
簡単に言えば大きな環の付いたチューバだ。
鼓笛隊からの経験者が多く、この高校にはチューバが多いのでスザーフォンは彼女だけだ。
それでも中音舐めんな、コラー!! チューバ、ユーフォがなんじゃボケー! という彼女の存在感ある演奏は柚姫は好きだった。
正し、やはりチューバに命懸けてる系女子の梓と仲良さげに時々衝突している。
「え。蓮華先輩が?」
「うん。っていうか話し合いに偶然空いていた教室がそこしか無かったの」
「……話し合い?」
その時、隣にいた梓が立った。
「気になります!!」
「えー?」
「アイリスちゃんは気になりませんか? だって……誰もいない教室に……」
「……そっちか」
柚姫はカックリと首を傾げる。
「部長に至ってはないでしょ。部活の話じゃない?」
紫織はまた随分興味無さそうに言った。
柚姫はさくさくとクラリネットのメンテナンスに戻る。その言葉には柚姫も同意だ。
アイリスに振り回されまくっている響一が更に面倒な二年生。
つまり内心は関わりたくないのだろう。
「だろうな。それでも面倒そうだったよ」
「そりゃまた蓮華先輩らしいね」
そんな様子の一年を見て紫織は感心したように頷いた。椅子の向きを反対にして座る。
「へぇー。一年って部長を信頼してんの?」
「信頼……とは違いますけれど、やっぱり巧いですし。努力、っていうか練習量鬼だし。それが当然みたいな人ですよね」
柚姫は微笑みながら言った。確かに、一年生は二、三年ほど響一を馬鹿にもしていないし、むしろ吹部の男子のほとんど全員は彼を尊敬していた。
そうしていると、初心者組の一年生が集まって来る。
「信頼っていうか……大きな大黒柱みたい! でーんとしてて。ひたすらトランペット吹いてるでしょ?」
「代わりに。それ以外何もしないけどね」
と、言い残し去って紫織は練習に戻った。何となく。個人的な意見になるが、どうやらこの藍沢紫織は響一を良く思っていないのか、あまり関わらないようにしているのが分かる。
気さくで、ちょっとおちゃらけた所もあるが頼りになる先輩だそうだ。
派閥で言うなら高音パート女子は夜宵。低、中音は紫織、二年女子は聖。パーカスは海。ホルンは夢野川、彼らが権力者という印象が強い。
当然、彼らは上手い。
しかし男子は皆先述の通りそれぞれ響一を慕っている。
問題は二、三年生の女子だ。個性的な部員が多い。一年間、部活を活動停止しても辞めなかった人々だ。それだけ楽器に懸けているしプライドも高い。
取っ付きにくさはあったがあのホールで響一に怒鳴られたせいもあり最近は夜宵とのボケとツッコミもあり宗滴とのボケとツッコミもあり。響一がいかなる人物か部員は段々と理解している。
人の良いセレスタンと武骨な響一の相性も良いのか部の雰囲気は格段に良くなり最近は二年生も気さくに色々と教えてくれるようになった。
元々一年の多くは経験者が多く蓮華響一のトランペットを聴けばレベルの差が圧倒的なことぐらい分かる。
それでも、響一を慕う部員と、そうではない部員は現在7対3、と言った所か。つまり一部の女子が何故か響一に対して何か蟠りを持っている印象だ。
それでも彼はどんな酷い演奏でもソロを素晴らしく完璧にこなすので文句を言えないのが現状、と言った所だ。
海は本当に珍しく上級生として蓮華響一を慕っているしアイリスに至っては最初はライバル心剥き出しだったのに気が付いたらコロッと……かはともかく惚れてしまっている。
つまり柚姫の周囲には響一を慕う人間しかいないので現状がまるで分からなかった。
「アイリスちゃん、やっぱり気になるよー」
柚姫は負けじとアイリスの制服の裾を引っ張る。
「だから何で私が」
「だって二人の美女に囲まれてるんだよ?」
柚姫の言葉に、アイリスは思わず吹き出す。
「何で笑うのー!!」
「いやー、あの二人に呼ばれた時の、蓮華先輩の顔思い出しちゃって」
「顔?」
アイリスはうん、うんと頷く。
「こんな感じ」
と、限りなく死んだ瞳を柚姫に見せた。そんな表情に流石の柚姫も固まる。
「えー……」
「蓮華先輩はマジ俺関係ねぇよ、って思ってるみたい。同じトランペットだから、って言うなら分かるけどさ。だったら女子ってみーんな瀬戸内先輩でしょう?」
「そういえば……」
「だから、どうして」
「じゃあ見に行ってみる?」
「アイリスちゃんがいれば怒られないかな?」
「そりゃ、関係ねぇって。本当に興味無し、って感じだったし」
と、三人はこそこそとその噂の現場に向かった。
けれど、等の響一は教室の外で一人、ポツンと腕を組んで立っている。
確かに。超絶どうでもよさそうな表情に柚姫と梓は固まる。アイリスはまた慣れた様子だ。
響一は三人を見ても表情すら変えない。
そっと耳を近付けると教室から声が響いた。
「だから何で止めるの!! 私は蓮華先輩に認めて貰うまで、部には戻らない!」
この声が峠つばめだ。確かにショートカットのボーイッシュな人だ。
「どうして……つばめ、あんなに練習して……つばめ全国行くって……約束して……」
このおどおどした感じの守ってあげたい系美女が上川すみれ。彼女の表情は真っ赤で今にも泣き出しそうだ。
「すみれには関係ない」
と、つばめは震える声で冷淡に言った。
「何故、そこで俺の名が出るかな」
また響一はそれ以上に興味無さそうに言った。梓が珍しく叫ぶ。
「それは蓮華先輩が部長だからでは?」
「だから何故」
「……え」
「全く。ゴールポストが動いてどうする」
正しく不動の部長。
無表情の響一ほど怖いものはない。流石に梓も言い返せない。
教室から出る気配がする、と思ったら響一は既にその場におらず三人は同時に『逃げやがったー!』と叫んだ。
「アイリスちゃん!」
「分かってる。それよりな柚は自分の問題をどうにかすべきだぜ! こっちはまかせな!」
と、アイリスは男らしく親指を立てて走った。
全く。アイリスは本当に物事をハッキリ言ってくれる。そして柚姫も梓もポカン、とアイリスに見とれた。
「ちょー格好いい!!」
ぴょんぴょん梓が喜ぶのも頷ける。
「でも。アイリスちゃんの言う通りです。梓だって知ってますからね。柚姫ちゃんだって色々大変で複雑でしょう?」
「……梓ちゃん」
「……私だって……二人と、パートも違うし恋人は楽器だし話は合わないかもしれないけれど……私だってもっと二人と仲良くしたいです!」
「うん! 私もだよ! ありがとう、梓ちゃん!!」
柚姫は気が付いたら走っていた。
目的があった訳ではないのに。気が付けばあの植物園に辿り着いていたのだ。
そこには慈しむように草花の世話をする逆月稔がいた。
「おや」
「……あ、えっと」
「今日は、あのトランペットの音は聴こえないのですね」
何もかも解決した訳ではないのに。唐突に訪れた柚姫に対して稔はまた唐突な話題を柚姫に振る。
「……え?」
「今朝は聴こえました。僕、あの音が凄く好きです」
それはおそらく響一のトランペットの音だ。
「それは部長のトランペットです。聴こえるんですか?」
「ええ」
こんな所まで響くのか。あの人の音は。流石に凄まじい。
「どんな人が奏でているのか知りたい。けれど知らずに音だけに酔っていたい。そんな気持ちです」
「それは……少し分かるかもしれません」
「さて。共通の雑談はこのぐらいにしましょう。僕に御用ですか?」
「……あの、えっと……変な言い方で申し訳ないのですが普通に接してくれるんですね」
稔は顔をあげて柚姫を見つめた。本当に美人な人だ。
確かに、上川すみれも美少女なのだが彼は知的好奇心に満ち溢れた美少年だ。
儚さと知性が混ざる魅惑的で不思議な人なのだ。
「ええ。まぁ。以前……話しましたっけ。貴女のお兄さんとは……んー、そうですね友好的でしたので別に貴女に対して特に嫌な感情はないですよ」
その魅惑的なコバルトグリーンの瞳をすっと細めて柚姫を見つめた。そこには好奇心しか感じとれず好意的な視線ではない。
「そうですか……」
「長いお話ですか?」
「あ、はい、ご迷惑じゃ……」
「いいえ。他人との馴れ合いは好きではないのですが興味深い噂話でしたら好きですよ」
と、稔はまた優美に微笑み二人分のパイプ椅子を用意した。
彼の瞳の色は光の加減で変わる。普段はコバルトグリーン、明るければエメラルドグリーン。更に暗いとフォレストグリーン。どんな時でもそれはまるで宝石のような色だ。
そしてこれ以上、どうする気なのかまあ容姿に似合った泣き黒子。
髪は艶やかなプラチナブロンド。
「あ、言いましたっけ。僕はクォーターですよ」
「そうなんですか!?」
「親戚にイギリスの家系があるのです。まあ、その家系も花屋ですけど」
なるほど。それは筋金入りだ。そして何故、彼が生粋の日本人なのに日本人離れした容姿なのかも理解した。
植物園には簡易的な長机があって、そこにティーポットまで置かれている。
「兄は良くここに?」
「ええ。それはもう同じ委員会なのにサボりに」
と、彼は柚姫に紅茶を差し出した。その言葉に柚姫は苦笑する。兄ならやりそうなことだ。
「いいんですか?」
「これも話ましたっけ……家、花屋で紅茶も売っているんです。これは売れ残り……で申し訳ないのですが賞味期限は大丈夫でしょう」
「ありがとうございます!」
「セイロンティーです。急でしたので、ミルクもレモンも茶菓子もないのですが……」
「大丈夫です。実は私お茶の甘いの苦手でして。抹茶味も時と場合でちょっと苦手……というか飽きる……というか」
柚姫の言葉に稔は意外そうに頷いた。
「そうなんですか。正樹さんは甘党なのに」
やはり、この人は兄と相当親しかったようだ。どんな関係だったのかはまだ分からない。けれど単なる先輩、後輩だけではないような気がした。
「あの……先輩なら分かるかもしれません。ちょっとお話しても良いですか?」
「どうぞ」
柚姫はなるべく簡潔に上川すみれと峠つばめについて話した。でないと稔の話術は巧みであれやこれやと色々な話題に話の方向性がずれる。
「さて。そろそろ、お茶を口にしても大丈夫でしょう。いい頃合いです」
「……え?」
「僕が先に飲むまで待っていたのでしょう? 僕は貴女が猫舌だと正樹さんから聞いていました。それに貴女は茶道を習っている。歳上が茶を口にするまで待っていたのでしょう?」
「ふぇええ!!」
この人、見た目通りに賢い。
言われた通りにお茶を飲むと素晴らしく調度いい温度だった。
柚姫は紅茶を飲み込み思わず叫ぶ。
「じゃ、じゃあ、分かります!? どうして上川先輩は蓮華先輩を殴ったりしたのか?」
「少し落ち着きましょう。……そうですね。これは……その二人の間、に関して言えばですが。これは三角関係の縺れです」
「さんかくかんけい……?」
予想外の言葉に、柚姫はポカンとする。
「まず、大前提。何故。上川すみれは蓮華さんを殴ったのか。僕は正樹さんから聞いただけですが蓮華さんはとても良い人だと聞いています」
柚姫は頷く。
「そして、かなり自己評価が低く遠回しな……そうですね。流行しているメッセージやメールが苦手な方だと」
そういえばアイリスも言っていた。響一はスマートフォンを持ってはいるが使うのは電話機能ぐらいで流行りのアプリは全く使わないし使えないとか。
「そうです。あまりコミュニケーションが得意ではないのかな……」
「それは違います。つまり彼、蓮華響一という人物は言いたいことがあるなら直接本人に言わなければ伝わらない。彼直に影響を与えたいなら尚更」
腕を組み、知的な表情で言い切る稔はまるで名探偵のようだ。
「そっか……だからアイリスちゃんと仲が良いのか」
彼女はいつも言いたいことはハッキリ、キッパリ本人に言う。つまりあの二人、相性が悪そうに見えて最高に良いのだ。
「ごほん。話が逸れました。僕も、蓮華さんは好ましい方だと思っているのでつい」
「いえ、私もです」
「話を戻しましょう。貴女が一瞬で理解出来るかは分かりませんが、つまるところ、その上川すみれは峠つばめを愛しているのです」
「……え」
時計が無くとも数分経ったことぐらい柚姫には理解していた。
「……愛」
「そうです。友愛ではありません。肉欲を含む愛情です。盲目的に」
「に、にくよく……」
「しかし。峠つばめは彼女に対してそんな感情はこれっぽっちもないのです。さて。何故、上川すみれは蓮華さんを殴ったのでしょう?」
柚姫は必死に考えた。稔は新しいお茶を淹れてくれた。
「……あ、蓮華先輩がいるから……峠先輩がソロを吹けないと思っているんですか?」
「お見事」
茶菓子はない、と言っていたのに。彼は何処からかスッと縦長の透明な綺麗なパッケージに並ぶマカロンを柚姫に差し出した。
甘党ではないのだが茶道を習っている以上、習慣で苦いお茶の後には甘味が欲しくなる。稔はそこまで計算してこのタイミングでマカロンを取り出したのだ。これは頂くしかない。
限り無く稔は聡明だ。
「~!! 美味しい!!」
「それも家の商品です。これは売れ残りではなく、開発中の新商品です」
「先輩の家はお花だけじゃないんですか?」
「花は送る場合がほとんどですから。合いそうなプレゼントとして」
アイリスもそうだが彼らは本当に商売熱心だと柚姫は思わず感心する。
「あい……あい……」
また紅茶に良く合うラズベリー味のマカロンを口にしながら柚姫は必死に考えた。
「篠宮さんは同性愛に理解はありますか?」
「んぐっ!?」
また唐突……ではないのかもしれない。つまるところ、そういうことなのだ。
「えっと……自分はともかく、その、好きになっちゃったら仕方ないですよね。同性でも」
「それを聞いて安心しました。つまり、そういうことです」
「すみれ先輩はつばめ先輩が好きなんですね」
稔は頷く。
「更に、これは多分ですけれど。峠つばめさんは蓮華さんが好きなんだと思います」
「ふぇっ!?」
「だから三角関係と言ったでしょう?」
稔はころころと愉快そうに笑った。またその表情も愛嬌に満ちていて第一印象の無機質さとのギャップが凄まじい。
「ここからですが蓮華さんのトランペットの音を聴く限り、あの人以上に上手く吹ける部員があの吹奏楽部にいるとは思えませんね」
「……そうですね」
「音楽を齧っていない僕ですらそう思うのです。以前、聴こえました。あの曲……そう『新世界より』ですね。あれも素晴らしかったです。それだけではありません。単調な曲だろうが知らない曲だろうが彼の音は素晴らしい。はっきりと言えます。才能があるのです。それが僕にでも分かる。彼女は理解していない。それだけ上川すみれは峠つばめに対して盲目なのです」
「……そういうことか……確かに。私も蓮華先輩は特別、才能があると思います。努力家ですけれど、それだけでは説明出来ない」
柚姫はようやく理解した。
「でも……これってどうすればいいの……」
そして、それはもうただの一人言だった。しかし稔は律儀に答える。
「さあ。どうでしょう。全ては蓮華さん次第だと思いますが。あの人が失態する道を選ぶとは思えませんね。才能を持ちながら地道に努力出来る人間に対して嫉妬したくなる気持ちも分かりますが」
そんな稔の言葉に柚姫はアイリスを思い出した。彼女の感情はつまりそういうことなのだろう。確かに分かる気がした。
才能があって。努力家で。更に人が良く。駄目な所はあるのだけれど何故か憎めない人でもあるのだ。
「逆月先輩って蓮華先輩が好きなんですね」
「だから最初に言ったでしょう。僕はあの人が奏でるトランペットの音色が好きなんです。毎朝、草花達ですら。彼の音色を聴くと元気になるんですよ。彼の音は葉に落ちる朝露です」
「え、……まさか」
「本当ですって」
稔はまた愉快そうに笑う。そして立ち上がって植物園のガラス張りのドアを開いた。
「覗いてないで入ってくればいいのに」
「うるせー!」
そこに立っていたのは海だ。
「海君!?」
「貴女のボディーガードがお迎えですね」
「稔……お前、俺には全然、正樹の話しなかったくせに……」
「それは申し訳ない。しかし貴方に説明するのは少々難しいんですよ。貴方に理解させるように、という意味を含めると」
「お前、……柚に」
「男の嫉妬は醜いですよ。単なる女子会のようなものです」
その言葉のチョイスに柚姫はポカンとする。
「女子会……」
「会話の内容的にね」
と、また稔は軽くウィンクする。
それはもう魅惑的の一言に尽きる。
「柚、帰るぞ」
「ちょ、海君!!」
海は強引に柚姫の腕を引っ張った。
「ではごきげんよう。そのマカロンは差し上げますので是非味の感想を聞かせて下さいね」
それはそれは猟奇的で魅惑的、更に知的な笑顔で稔は手を振った。
帰り道。自転車を転がす海は不機嫌丸出しだ。
「だから、ちがうよー」
「なにが。そもそも稔が他人にあそこまで好意的なことが珍しい」
「うーん。良く分からないけど、違うんだよ!!」
柚姫は必死にポコポコ海の背中を叩く。最近のこともあってか海は少し不機嫌だ。
「ちがう?」
「そう。多分あの人は私に恋愛的な意味での親愛はこれっぽっちもないと思うな。だから女子会、なんて言えたんだよ」
「ほー」
「そんなんだから海君は逆月先輩と知的な会話が出来ないんだと思います!」
「うるせー! 分かってら。俺は……てっきり稔は人間嫌いなのかと思ってたぜ」
「それも違うよ。ほとんど話したことないのに蓮華先輩のことは好きらしいし。多分、海君のことも嫌いじゃないよ。だって遠慮がないもん」
「まー、嫌われてないのは分かってっけど。そりゃ俺じゃアイツが何考えてるかなんてさっぱりだ。アイツは正しいよ。蓮華先輩なら分かる。そもそも、あの人を嫌う人間の方が稀だ。けど、だからって何で柚に……」
「……それは多分ですけれど。私がお兄ちゃんの妹だからじゃないかな」
「は……?」
「少し会話しただけだけれど。多分、逆月先輩が一番慕っているのはお兄ちゃん。その妹の私を邪険にするような人じゃないってこと」
しばらくして海は自転車のサドルに伏せて叫んだ。
「もー、分からん! お前に任せる!」
「だから逆月先輩は最初から海君じゃ理解出来ません、って言ってたんだよ。本当に賢い人だねぇ」
「柚……」
「安心なさい。私は海君一筋です」
柚姫はビシリと海を指差し言い切る。
「……はい」
そんな柚姫に海はただただ素直に頷いた。
「つか、お前、兄貴については?」
「それはまだ時期じゃないって思った。多分、逆月先輩も私がどんな人なのか見定めてるんじゃないかな。だから私は聞かなかった」
「兄貴について?」
柚姫は頷いた。
あの時。あの場所で即座に兄の深い事情を聞くのは違う気がしたのだ。そんなことをすれば多分だが余計に稔は話さない。だから柚姫は彼が兄の話題を口にするまで自分からは問わないと心に決めたのだ。
『是非、感想を聞かせて下さいね』
また洒落た言い回しだ。
つまり、また来て下さいね。そして物事の顛末を教えて下さいということだ。
もしかしたら、あの人は分かっているのかもしれない。
普段はおちゃらけて何を考えているか分からない。
誰しもがそう評する兄の本当の姿を。




