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アスタリスクを五線譜に*  作者: kisaragi
第二楽章 虹色オクターヴ
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第一小節 愛情のためのソナタ

 事件は支部大会直後に起きた。

 最早熱い夏。

 藤堂高校は確実に全国への切符を手にしていた。


 当然、少し校内では騒ぎにもなったがセレスタンがいるなら、と数度の演奏会での演奏の実力により少しづつ騒ぎも治まった。


 目指すは全国優勝。


 歩けば汗が落ち元々日陰に位置していたのだが音楽室には教頭命令で数ヶ所に扇風機が置かれた。

 当然、セレスタンは音が乱れる、と抗議したが熱中症で生徒が倒れた責任は誰が取るのでしょう? という先生の笑顔に流石のセレスタンも黙った。


 教頭先生は眼鏡の若く、しかし食えない人でにっこり、全国優勝したらクーラー設置を約束しましょう。だなんて笑顔で言うのだ。


 ハードだったはずの練習も気が付けば当然になっていた。セレスタンは技術より基礎を大切にする人で、とにかく基礎練習と反復練習が大半を占める。残りはテンポの刷り込み。合奏は通常なら週二回。大会前なら三回とパッと見ただけでは少ないが、その合奏練習は通称地獄巡りと呼ばれ、永遠と駄目な部分を指摘され、その部分がセレスタンのイメージ通りになるまで繰り返される。


 そうなると全員くたくただ。

 日も暮れかけて運動部ですら練習を切り上げる。


 そんな日々の日々の途中経過のような例えるならば地獄温泉と誰が言ったのか。そんな時だった。


 部活が終わり、皆せっせと楽器のメンテナンスをしている時だった。


 ガラリと音楽室の扉が開く。


 半分寝こけていたセレスタンはカタンッと起き上がり、キョロキョロと周囲を見回した。


 そこに立っていたのは絶世の美女だった。多くの男子は楽器のメンテナンスに使っていた道具を膝の上に落とす。


 そんな状況でも響一はまるで何も何事も無いかのようにトランペットのメンテナンスを続け、終え、ケースを閉じて立ち上がる。


 こうして見ると響一は背が高い。


 そんな硬直した部を無視して響一は教室の外に向かって歩いた。


 その表情は恐ろしいほど無表情。無感情。瞳の奥からは何も見えない。

 アイリスは柚姫に制服の裾を握られるがアイリスは直感で分かる。この時の響一は正に木だ。変に話し掛けるべきではない。


 その、儚く美しい黒髪の美女は口を開く。


「つばめ、治りました」


 なんて、なんて機械的な口調だろうか。

 それに対し響一はまるで表情を変えず、そのまま去ろうとした。


 その腕を美女が掴む。


「つばめを部に戻して下さい」


「何故」


 アイリスは純粋に驚いた。響一の表情は確かに冷淡だ。そこに是非も否定もなく、ただの問いなのだ。


 その瞬間だった。


 部室に強烈な破裂音が響いた。

 その音以外、まるで無音になったかのような衝撃だ。

 行動だけ述べるなら美女が響一の頬を殴ったのだ。


 それは綺麗に。絵に描いたように。全力で。


 しかし、殴られた当人の響一は微動だにせず、寧ろ殴った方の美少女が荒い呼吸と共に赤くなった手のひらを抱えていた。


「……どうして」


 か細い声が部室に響く。


「どうして! つばめはずっと、ずっと、先輩に憧れて、トランペットを続けて、先輩の力になりたいって、どうして、先輩は何も言わないの!!」


 それは悲痛な言葉だった。

 しかし、相変わらず響一は赤くなった頬などまるで気にせず無表情で美少女を見下ろした。


「何故、それを君が言う」

「だって……だって、つばめは蓮華先輩に認めて貰わなきゃ、部に……戻らないって!!」


「……何故、そこで俺の名が出る」


 たった一言。それだけ言って響一は何事も無かったかのように部室を去った。


 アイリスはハッとして、大慌てで楽譜を片し立ち上がる。


「柚、後、お願い!」

「う、うん」


 起こった事が衝撃的過ぎて部員は全員ポカンとしていた。



 暗い廊下を歩く響一をアイリスは必死に追いかけその腕を掴んだ。


「うおっ、アイリスか。驚いた」

「驚いたのはこっちです! 先輩、血!」


 その言葉に思い当たったかのように切れた口元の血を響一は拭った。


「ま、大したこと……」


 言いかけると夕焼け色に染まったアイリスに両腕を掴まれ、見上げた彼女の瞳に溢れる涙を見て響一は諦めた。


 水道の蛇口から出る水にハンカチを濡らす。

 響一は窓口に腰掛け暮れる日をぼんやり眺めていた。


「なんで先輩は殴られたんですか?」

「何でだろうな」

「せ、ん、ぱ、いー!! じゃあ、あの先輩を殴った人誰」

「川上すみれ。二年生。フルート」

「誰が、単語を述べろとー!!」

「……です」

「じゃあ、つばめって?」

「峠つばめ。二年生。トランペット」

「……」

「です」


 アイリスは出血より酷い響一の殴られた方の頬に濡れたハンカチを当てる。


「……っ!」

「あ、冷たかった?」

「いや、大丈夫」

「痣にならないといいけど……」

「大丈夫だろ。彼女にそんな力ないし」

「……怒らないの?」


 響一はどこまでも淡々としていた。普通はあんな勢いで殴られれば腹も立つだろうに。


「……え? 良くも、悪くも。儚く非力な美少女。それが川上すみれ。二年のマドンナ」

「へぇー。えっと、楽器は……」

「フルート。巧いよ。けど、肺活量が足りなくてソロ向きじゃない……と思います」

「そうなんだ……」

「うん」

「じゃあ、峠つばめ? 先輩は?」

「二年のトランペット。部が活動停止中に運悪く怪我して辞めた二年」

「お上手ですか?」

「多分ね」

「……多分?」

「……はー、めんど」


 と、響一は一言だけ残し窓枠に両手を置いて空を見上げる。


「めんどーなんですね?」

「めんどーですね。上手いかどうかはアイリスが聴いて比べれば」

「そうします」

「さんきゅ」


 響一はぽん、とアイリスの頭を撫でてそのまま去ろうとした。お礼はおそらくハンカチのことだ。そのまま持って起き上がる様子を見るにきっと綺麗に洗濯して返してくれるのだろう。


 その瞬間トランペットの音が校内に響き渡る。


「これが峠つばめ」


 その時のアイリスの表情を見て響一は爆笑した。


「な、酷い! 笑うなんて!!」

「ごめん、ごめん。まさかそんなに顔に出るなんて」

「ハッキリ言って。先輩の方が数100倍巧い」

「分かった、分かった」

「先輩、同じ曲。吹けます?」


 アイリスは響一の胸元に頭を預けた。シャツに流れる銀髪は夕焼けの色を反射して美しく光る。藤堂の男子生徒の夏服にはネクタイが付いている。これは礼儀作法のためなんだとか。なるほど、効率的だ。


「当然」

「聴かせて」

「勿論ですとも。お嬢様」

「せんぱいー!」

「からかってないって」


 響一は苦笑しながら彼女の顎を優しく持ち上げ、また優しく唇に触れる。


 しまった抵抗することすら忘れた。


 いかん。


 最近、どうにも響一に攻め抜かれている。


『後、一年で君を落とすから』


 その言葉に嘘偽りはないようで最近本当に積極的だ。アイリスにも拒む理由がないのでどうしようもない。


 そして、なんの変哲もない夕暮れ時の廊下で銀色のトランペットを取り出した。

 ここから微かに聴こえるこの曲はアイリスの好きな曲だ。



 この曲は新世界より。


 交響曲第9番ホ短調作品95『新世界より』(英:From the New World、独:Aus der neuen Welt、チェコ語:Z nového světa)はアントニン・ドヴォルザークが作曲した4つの楽章からなる最後の交響曲である。


『新世界より』という副題は、新世界アメリカから故郷ボヘミアへ向けてのメッセージといった意味がある。全般的にはボヘミアの音楽の語法により、これをブラームスの作品の研究や第7・第8交響曲の作曲によって培われた西欧式の古典的交響曲のスタイルに昇華させている。


 ボヘミア(ラテン語:Bohemia、チェコ語:Čechy、ドイツ語:Böhmen,ベーメン)は現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名だ。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西はドイツで東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリア。


 この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストはオーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに気に入られた。このスタイルはオーストリアと遠戚関係にあるスペインを経てアメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり芸術家気取り芸術家趣味と解されてボヘミアンやボヘミアンズという言い方も生まれた。


 曲調自体は難しくはない。誰しも一度は聴いたことのある曲だ。音程も、ピッチも合っている。距離からするに渡り廊下の方だ。大した距離ではない。それでこの音。違う。そうではない。もっと、ああ、段々とイライラしていると、響一がトランペットの準備をしながらクスクス笑っていた。


 響一は楽譜を見ずに銀色に輝くトランペットを構えた。


 彼のトランペットはアメリカ製のバックで綺麗な銀色が夕暮れの光に反射する。

 美しい模様が浮かんでいる。毎日、メンテナンスを欠かさないのだろう。美しい構えに相応しいトランペットだ。


 この人がトランペットを持つと妙な緊張感が生まれる。


 そして奏でられる同じ曲とは思えない同じ曲が校内に響いた。


 この曲を聴くと、ああ、家に帰らなきゃ、という不思議な気分になる。そう思う生徒は多いのか部活は切り上げられ生徒たちは帰宅の準備を自然と始めるのだ。


 誰も、うるさい、だなんて文句一つ無く。

 当然のように曲なのだ。難しい高音すら、そんなことを考えることも無く。


 数100倍どころの話ではない。


 アイリスはその演奏に故郷の葡萄畑が夕焼け色に染まる瞬間を思い出した。


 そう。これだ。これが新世界より。


 本当に憎くなるほど恐ろしい複式と乱れることのない音程。高音は掠れず美しく。難しい高音だと忘れそうになる滑らかさ。


 気が付けば演奏は終わっていた。


「あ、すみません。せっかくメンテナンスしたのに」

「ああ、大丈夫だ。元々、週末は結構本格的にメンテするから」

「……えっと、どうして……あのすみれ先輩は先輩を殴ったの?」

「多分嫉妬だろ」


 それはなんとも、なんともこざっぱりした返答だった。


「しっとぉお!?」

「君にはないのか?」


 その言葉にアイリスは黙る。


「そりゃ、ありますけどね。同時に尊敬もしていますし、愛してますよ」


 その言葉に響一は苦笑する。


「愛か。君の『新世界より』も是非聴いてみたいな」

「先輩の後で!? 嫌ですよ!!」

「それは残念だ」

「本気で言ってます?」


 響一は優しい表情で頷いた。


「俺は君の葡萄畑を想って奏でた。君が奏でるとどうなるのか、是非聴きたい」


 今でもライバル心が無いと言えば嘘になる。


 当然、ある。


 今でも、トランペットのケースを握る手が震える。

 それは嫉妬からなのか。単にこの人から受け取れる愛情からの歓喜なのか。アイリスにはもう分からなくなっていた。


 もう日も落ち夜が訪れる。


 彼は制服のシャツでも真っ黒なイメージなのに周囲が暗闇の中だと妙に暖かい。アイリスが制服の袖を引っ張ると自然と彼は屈んで唇が触れた。



 けれど、たった、と言うべきかはともかくキス一つでそんなことはどうでも良くなってしまうのだ。


 いつまでそうしていただろう。少なくとも、下校時刻のチャイムの音を聞いている余裕は無かった。


 これは非常に危険だ。


「今日、家。来るか?」


 部活終わり。週末の誘い。


「え?」

「今日、お袋も姉貴もいないんだ」

「……え?」


 響一は明後日の方向を向いている。つまり、これはアイリスを誘っていて、彼は照れているのだ。

 当然、トランペットの練習だってする。それでも。それだけではない。


「……いく」

「ん」

「やったぁ! 先輩の家の大きいお風呂!!」

「因みに夕飯は冷やし中華」

「お肉は?」

「チャーシュー」

「作ったの?」

「おう」

「パーフェクト! 手伝いますね!」

「うん」


 響一の家のお風呂は大きい。女系一家だからだとかで、シャンプーもリンスも洗顔料もとにかく種類が豊富。更に完全防水の小型テレビまであり、更に酸素の泡を出しくるくる回る謎の機械もあり。入浴剤に至っては選ぶのに困る程だ。

 そして、更に、更に。ドライヤーは最新モデルでしかも響一は女性の髪を乾かすのが上手い。


 彼の節々から滲み出る紳士さは彼の家族、女性たちの教育の賜物のように感じる。


 寮の時間が決められ、更に金銭面の事情で大した物が置けないあのお風呂に比べれば最高だ。


 そんな、ぴょんぴょん喜ぶアイリスを響一は優しい表情で見つめた。


 最近、響一は表情がとても豊かになった。寡黙ではあるのだがアイリスには最近彼の喜怒哀楽が分かるようになった。


 だから別に会話が無くとも居心地が悪いと感じたことはない。それに、アイリスが話し掛ければ彼は必ず、目線を合わせて返事をしてくれる。


 まだアイリスに怒を向けられたことはない。


 あんな突然殴られても。どうして怒らないのかアイリスには不思議で仕方がなかった。


 そんなことをぼんやり考えながら、響一と帰り道を歩いているとふと、アイリスは足を止める。


「んんん? 変じゃないですか? だって、えーと、蓮華先輩が巧くて、峠つばめ先輩が嫉妬するのは分かります。でも、何で川上すみれ先輩が嫉妬? するんですか? フルートなのに」

「はー、何でだろうな」

「更に、更に。どうして蓮華先輩に認めて欲しいって……蓮華先輩は認めてないの?」

「何で」


 その短い言葉に、アイリスは必死に考えた。響一は巧いか、下手かなんてそんなことで入部の拒否などしない。


「……ですよね」

「君だから、分かるのかもな。そして分からないのかもな。君は今、俺の人生の中でも一番近い存在だから」

「……あの、他に言い方ありません?」

「え!? え……フランス語では何と言うんだ??」

「いいの。先輩の言葉で」


 気が付けば日が暮れていた。

 気が付けば、つまり時間を忘れるぐらいには。キスに没頭していたことになる。


 夜の黒に負けないぐらいの黒髪、表情さえちゃんとしていれば黒目で切れ目の美形である響一は日に日に彼流に言えば女性との性的接触技術が向上? している。アイリスは密かに危機感を感じていた。


 飲まれそう。この人に溺れそう。


 自分の奏でるトランペットなんてどうでも良くて、ただ、この人に溺れたくなる。


 この状況は世間一般に言えば恋人同然だ。


 彼の、唇の離れる瞬間はまるで彼のロングトーンの消音のように優しい。


「先輩のばか」

「馬鹿は仕方ない。俺は今まで女性を口説く、なんて経験したことないんだぞ」

「んー!!!」


 アイリスは何となく、腹が立って響一の腕をぽこぽこと殴った。

 この拙い感じすら愛しいだなんてもはや末期だ。

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