第十一小節 純愛のチュード
藤堂高校は一つ大きな演奏会を終えた。
曲だった。
ちゃんとした曲だった。曲は王道中の王道『ルパン三世のテーマ』。だからこそ、きちんと曲にならなければ陳腐になる。更に高校生が吹けば尚更失笑される。しかし実際に起こったのは拍手喝采でその事実に演奏した生徒自身が驚いていた。ただ一人。響一を除いて。
ジャズは難しいのだ。
更に言えばソロを担当した生徒が軒並みハイレベルだった。
アルトサックスの宗滴はもちろんドラムの海も柚姫のクラリネットも。しかしやはりトランペットの響一は別格だった。
彼はのびのびした曲調や曲が多い印象だったがあんなにテンポも早く絶妙に掠れた高音まで出せるなんて狡いとアイリスは思う。
しかしセレスタンが好きなジャンルはジャズが多い。元々クラシックに縛られない自由な人だ。そして観客を驚かせ、感動させるのが大好きな指揮者なのだ。
彼は嬉しそうにルンルンでバスに乗った。生徒たちはそんなセレスタンの様子に大きな失敗はなかったのか、とホッとする。
セレスタンは練習中、演奏前、演奏中ならば色々あれこれ指示を出す。しかし本番の演奏後には何も言わないか演奏者を労うことしかしない。そういう所が彼を巨匠と評する一つの要因だ。
結局、柚姫が落ち込んでいる原因はアイリスが聞き出した。
どうしても響一と柚姫が二人きりで話しているという姿を想像したくなかったのだ。
理由は分かったがこれはアイリスがどうこうする問題でもない。また落ち込んでいそうだったら話ぐらいは聞くけれど。
夕暮れ時。バスを降りたアイリスはとぼとぼと響一の後ろを付いて歩いた。
「寮の方向はこっちだったな?」
「……はい」
「すまんな。家でも良いのだが今日は週末だ。誰かしらの彼氏がいる可能性が高い。そんな所に出会したくはないだろう?」
「……はい」
アイリスの妙な元気の無さに響一は足を止める。何か気に障ることを言ってしまったのかと。
響一は寮のエントランスで簡単な受付を済ませる。
書類を一通り書いていると、アイリスが勝手に宿泊、の欄に丸を付けた。
そんな姿に受付嬢はにっこり微笑む。
「はい。確かに。吹奏楽部の練習ですか?」
「あ、はい」
「この寮は文化部、運動部それぞれに分かれています。吹奏楽部に貸し出す部屋は防音ですが、あまり深夜までの練習は後控え下さい」
「は、はい」
「それと、就寝時間は23時です。以降の外出は不許可となります」
「はい……って、アイリス!?」
もどかしいさにアイリスは素早く筆記体で書類に本名を書いて響一の腕を引っ張った。
質素な玄関前。アイリスは思わず響一に飛び付いた。
「うわっ!!」
「ずるい。先輩は狡い。どうして!! あんなに、あんなに上手に吹けるんですか! 合わせるだけで、いえ、合わせられもしない。悔しくて、私……」
「と、とにかく落ち着け!!」
パタン、と質素なドアが閉まる。
暗い部屋の中はありふれた寮なのに流石フランス人。所々がお洒落で女の子らしい部屋だった。
響一はそんな感想を言う暇もなくアイリスに胸倉を掴まれ、そのまま唇を押し付けられる。
どさり、と荷物が落ちる音がどこか他人事のように響いた。
演奏後だから、汗が、等々色々と言いたいことも言うべきこともあったのだが、何故彼女はこうも己を衝動的に動かすのか。
考えることも放棄して二人は暗がりの部屋の中、玄関のドアを背にキスに没頭した。
彼女の頬は紅く染まり、吐息は甘い。
静寂の中、艶かしい水音とリップ音が響く。
随分彼女が興奮しているのが分かる。しかし、このまま彼女を押し倒すのはどこか違う気がした響一は、理性という理性を総動員して一端落ち着かせようとアイリスの肩を優しく掴んだ。
つう、と唾液が嫌らしく光る。
唇を放すと彼女は不満そうに響一を睨んだ。
「先輩はずるい。狡い。何で、小心者で、根暗なのに背も高くて、イケメンで、それで、どうしてあんあにトランペットが上手いの……何で本番だとあんなに格好良いの……それで、どうしてあんなに優しいの……私を惚れさせて、駄目にして、これ以上どうするの?」
等々、アイリスは泣き崩れた。最後は掠れたフランス語で上手く聞き取れなかったが響一は彼女が悔しくて泣いているのだと表情で分かった。
そんなアイリスの頭を響一は屈んで優しく撫でる。
「今日の演奏。良かったか?」
「え、はい。先輩にしては艶やかな音でしたね。何であんな渋い演奏とマッチするように出せるんですかー!!」
アイリスの癇癪はまだ収まらないらしく、彼女はぽこぽこと響一の胸板を高く。響一は常に母と姉と共に生活しているのだ。女性の癇癪ぐらい慣れている。ここで怒り返しては決して駄目だ。相手の話をまずは聞くのが最善だ。
「セレスタン先生に言われたんだ。彼は俺に本番の度に課題を出すことにしたそうだ」
「……課題?」
「その場のリアルな空気感。そのための課題だから、テクニックの話ではない」
響一の落ち着いた口調でアイリスの興奮も少し収まったらしい。
「あ、先輩はベッド座って待ってて下さい。飲み物持ってきます」
「分かった」
パッと部屋の灯りが点る。
アイリスの部屋は寮の一室のそれなのにどこかしらがお洒落だ。ベッドや本棚、勉強机は全て木材で統一され、カーテンは唐草模様のペールグリーン。ベッドサイドの照明も愛らしい。
その部屋には武骨な真っ黒のトランペットのハードケースと楽譜立てが置かれていた。その隣に響一は自分のトランペットのハードケースを並べて置く。
しばらくしてアイリスが麦茶を持って戻って来る。どうやら彼女は麦茶が好きなようで簡易テーブルの上に柄違いのコップが二つ並んだ。
アイリスの方は猫の柄で響一の方はペンギンのコップだった。
テーブルの方に座ろうとしたらアイリスに止められた。
先輩の手足の長さじゃ収まらないでしょ、と。
「愛らしい部屋じゃないか」
「そうですか? あ、何か食べます? 即席だと冷凍ピザ位しかないんですよ」
「大丈夫だ。さて。本日の目的は何だろうか」
「先輩は議長ですか」
「仕方ないだろう。他に聞き方が分からない」
全くもって響一らしい聞き方だ。ここで甘く女子を誘惑しないのだから。
「そうですね。先輩とセックスとトランペットの特訓です!!」
しかし、アイリスの言葉に響一は当然麦茶を噎せる。
「え、……あの」
「先輩、あの演奏会で、セレスタン先生にどんな課題を出されたのですか?」
「……観客を落とせ、魅了しろ、と」
その言葉にアイリスは頬を不満そうに膨らませる。
「君なら、そういう表情をしそうだと思って。まず君から落として魅了することにした」
「……え?」
「必死に合わせてくれる君はいつでも愛らしいな……」
そんな言葉にアイリスは一気に照れて頬が真っ赤になる。
そうか。あの時の演奏会が始まる瞬間に感じた響一の視線はそういう意味だったのか。
「ちょ、先輩、待って」
「俺は君から正式に返事は貰ってないからな」
響一はまた艶かしく呟いた。
アイリスに抵抗など出来る訳もなく、ぽすんとベッドの上に落ちる。美しい銀髪がベッドの上に散らばった。
「だめ、まだ……だって、今、好きって、大好きって、言ってしまったら私、先輩のライバルになれない。私、先輩の音が好き。いつか、あんな風に吹きたいんです」
彼女はぽろぽろと、腕で表情を隠しながら泣いていた。響一は優しく、彼女の涙を唇で拭う。
「しかし、決めたんだ。俺はそんな君を音で、一年で落としてみせる」
「……蓮華……先輩」
「俺は君が好きだよ。素直で、感情表現豊かで。言いたいことはハッキリと言えて。真っ直ぐで」
「ちょ、だめ、そんな、愛しそうに触らないで」
「愛しいのだから仕方ないだろう。けれど、今、君が本当にしたいことは違うと思った」
「え……」
アイリスがきゅっと瞳を瞑ると。その瞼に温かい感触がして、ようやく瞳の上にキスされたのさとポカンと響一を見上げた。
「まずは高音からだ。アイリスは高音から低音のテンポが早いリズムが苦手だったな」
いや、普通は皆苦手ですー!
と、アイリスは叫びそうになる。
何がどうしたのか。響一はすっかり音楽モードになってしまい、楽器のハードケースからトランペットと楽譜を数枚取り出した。
え? ……あれれ?
「どうした?」
「いえ、あんなに盛大に誘っておいて、手出ししないの?」
先ほどはあんなに格好良かったのに響一は何故か照れた。
「なっ……。ここは君の寮だ。学校の施設でそういうことをするのは良くない」
「もー、先輩は本当、何なの? 急に積極的だと思ったら。固いですね」
「違うよ。アイリス、君が本当に望んでいないことを俺はしたくない。確かに君は魅力的だ。その、……誘われるのは嬉しい。けれど、違うよ」
「先輩……」
あんなにあからさまに誘ったのに、響一はそんな言葉さえ、優しく受け入れてしまうのだ。
情事は断られたのに、何故かアイリスの胸はきゅん、とした。
ちゅ、とアイリスは響一の指に唇で触れる。彼の指が一番好きだ。大きくて、指が長くて。所々豆があって。そして本人に似て武骨な手だ。
なんやかんやしていたら、色々渦巻いていた感情が全て吹っ飛んでしまった。
そんな普段通りのアイリスを見て響一はホッとする。
「ずっと気になっていたのだが、あれは大学のパンフレットか?」
「……はい。見ます?」
アイリスに渡されたのは農業科の大学のパンフレッドだった。
大きく、綺麗で設備の整った大学だということが写真だけで分かる。
「先輩って進路決まってますか?」
アイリスは起き上がり、響一の隣に腰を下ろした。
「推薦が来ていた音大か、センターで受ける文系の大学のどちらかだ」
「やっぱり、音大から推薦が来ていたんですね」
アイリスはコテン、と響一の胸板に頭をのせる。
「私……ずっと、ずっと悩んでいて。音楽も続けたい。けれど、私……本当は実家の仕事も嫌いじゃないんです」
アイリスの頭が上下し、くぐもった泣き声が聞こえた。
「君は本当に良く泣くな」
響一は優しく、アイリスの頭を撫でる。結ってあった髪がほどけて、さらさらと響一の手に絡む。
「俺はいつか君の家のブドウ畑に行ってみたいんだ。だから音楽を続けようと思っている」
「……え?」
「一面広がる大地に。太陽の光と空の青が溶ける水平線。うっすらとした霧の中。朝露で輝くブドウたち。さぞ、美しい光景だろう。いつかそんな場所で。そのブドウたちに曲を奏でて聴かせてみたいんだ」
アイリスにとって、畑は畑だ。農作業は大変だし。虫は出るし、力仕事だし。駄目になったブドウを見る母の悲しそうな顔をアイリスは思い出した。
そうだ。
響一には様々な選択肢がある。
学年首席ではないが、毎回テストでは五位以内で運動もある程度こなす。
「先輩は……音楽は……」
「俺か? 俺は何処に行っても。何になっても。トランペットは続けるさ。これは俺の人生だから」
「先輩、一曲。一緒に吹きません?」
「構わないが。曲は……」
「『翼を下さい』なら知ってるでしょ?」
「……ああ。主旋律は君だ」
「……え?」
「俺が合わせる。大丈夫だから」
何故か、不思議と緊張はなかった。
ぐちゃぐちゃしていた感情が綺麗に吸いとられて行く。アイリスは響一のそんな所が好きだった。
唐突に始まったセッションは部屋を暖かなハーモニーで包んだ。
響一の優しい伴奏を聞いて、アイリスはいかに自分が見えていなかったのか思い知る。
ずっと苦手だと思っていた高音も。ロングトーンも綺麗に出た。
歌うような音階に苦はなく、指は滑らかに動く。
優しい響一の伴奏とアイリスの音量ある音が良くマッチしている。
アイリスはああ、そうか、と思う。
曲と今の自分の心情が妙にリンクしているから。
感情的だが、感情に身を任せている訳ではない。
これは曲だ。
何故か、アイリスは不思議とフラットな心情でその曲を吹いた。楽譜通りに。テンポも音程も合わせ。涙さえ出ず。
気が付くと曲は終わっていた。
伴奏していた響一は楽譜すら見ていなかった。必要もないのだろう。そんな彼はトランペットを放し、そして言った。
「いい演奏だった」
たったの一言だ。
その一言に色々な物がつまっている気がした。
響一はアイリスに指導してくれたのだ。一緒に一曲を奏でる中で。アイリスが優れている場所は抑え、苦手な部分は修正して。アイリスはその微妙な違いが分かったのだ。
曲が終わると、アイリスの片手が震えた。
「大丈夫。君はちゃんと上手いから。もっと自信を持つんだ。君が苦手だと思っている所は、苦手な所ではない。君がそう勘違いしているだけなんだ」
「……せんぱい」
「だから君は、自分の好きな道を選ぶべきだ。進路、と言えばいいのかは分からない。けれど、君はどんなことも。何でも努力するから。何処でも……大丈夫だと……おもう」
何故、最後の最後で台無しにするのか。だが、これが蓮華響一なのだ。
アイリスはこれは私が慣れるしかないな、と諦めて響一を一気に押し倒す。
「えいっ!!」
「ちょ……!?」
「今日はやっぱり色々と興奮して眠れません。センパイ」
「単なる欲の発散でなければ考える」
と、響一はアイリスの頬を優しく撫でて言った。
「ちょ、それどういう……んっ!?」
意味は行為の最中で分かった。
響一はとにかくアイリスを愛でて優しく触れた。
強引に欲をぶつけられるのではなく。慈しまれて。
しかもキスはしたが添い寝で終わった。
しかしアイリスは簡単な愛撫だけでくてんくてんに早朝を迎える。
「……先輩ってやっぱりずるい」
アイリスは響一の胸板に頭をぶつける。ベッドのシーツにはアイリスの美しい銀髪が旭に光り輝く。
「そんな風に言うのは君ぐらいだ」




