告白する土曜日 4
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柚香が指定した喫茶店に着いたのは、午後四時ちょうどだった。午後のお茶を飲むにはいいぐらいの時間だと思うけど、あんまり人は入ってなかった。
店内に入るなり、窓際のテーブル席に座っていた柚香が手を振った。嶋くんと一緒にそこに向かう。
柚香は、淡いピンク色のブラウスと丈の長い白いスカートという服装だった。髪は結ばないで垂らしたまま。いかにもおしとやかそうで、わたしとは正反対の格好と言えた。テーブルの上には、いま頼んだばかりなのか、ほとんど減っていないアイスコーヒー。
少し悩んだけど、わたしは柚香の隣に座った。嶋くんは、わたしたちの正面に腰を下ろすなり、
「うわあ……」
と声を漏らした。
「本当に双子なんだな。そっくりだ」
「当たり前よ。一年も騙し通せたんだもん」
そう返すと、柚香は湿布に手を当て、左端を少しはがした。泣きぼくろが顔を出す。
「昨日ぶりね、嶋くん。川口柚香です」
柔らかく微笑む。すごい。この一時間で、柚香はすっかり落ち着いてる。
「あ、どうも。嶋良次です」
つられて、なぜか嶋くんまで自己紹介。こんな状況なのにわたしは笑ってしまった。嶋くんも緊張してるんだ。
とりあえずなにか頼んだらという柚香の言葉に従って、わたしはオレンジジュースを、嶋くんはウーロン茶を注文した。その二つが届くと、柚香は話を切り出した。
「今日一日、なにがあったの? まずそこから聞かせてくれない?」
わたしは頷き、部活終了後からいままでのことを話した。嶋くんはほとんど話に入って来ず、ときどき柚香になにか訊かれると、うんとかああとか答えるだけだった。
「……そっか」
わたしの説明が終わると、柚香はブラックのままのコーヒーを一口飲んで、事態を憂うように眉を寄せた。
「ほんとに、ぜんぶバレちゃったんだ」
「……うん。ごめん」
「いいわ。柚希だけのせいじゃないもの。気にしないで」
そのあと、嶋くんに目をやって、
「どういう流れかはわかったわ。それで嶋くんは、わたしたちになにを訊きたいの?」
嶋くんは眉を逆八の字にして、結んでいた唇を開いた。
「俺は、どうして二人がこんなことをしたのか知りたい」
ああ、そうだ。それはきっと、誰でも気になる、ごく当たり前の質問だと思う。でも、わたしたちにとっては、かなり答えづらい質問だ。
わたしと柚香は、ゆっくりと顔を見合わせた。
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どうしよう、まずなにから言えばいいだろうか?
柚希と顔を見合わせながら、わたしは考えた。
あなたに会うために一日ごとに入れ替わってます。ごくごく簡単に説明するとこんな感じだけど、さすがにこれだと言葉足らずすぎるから、もっと詳しく説明しないといけない。でもいったい、どこから話せばいい?
落ち着け、と自分に言い聞かせて、コーヒーを一口。あまりの苦さに思わず顔をしかめてしまう。柚希と嶋くんがもう少しで来るであろう時間になるとますます落ち着かなくなって、少しでも「余裕のあるわたし」を演出しようと頼んだコーヒーだけど、ブラックのままでは苦すぎてとても飲めたもんじゃない。でも今更ミルクや砂糖を入れるのも格好悪いし、けっきょく、苦さに耐えてちびちび飲んでいる。
「なあ、もしかして……」
なにかを察したのか、嶋くんが口を開いた。続きが言いにくそうに顔を斜め下に向けている。その様子を見て、わたしは思った。
もしかしたら、嶋くんはわかってしまったのかもしれない、と。わたしたちが二人とも、他ならぬ嶋くんに惚れてしまっているのだということに。
彼はそういうことには鈍いけど、ここまできたら、場の空気というものがある。俺のこと好きなの? なんて、当人からしたら訊きづらいことこの上ない質問だから、躊躇うのもわかる。
緊張の糸がぴんと張りつめる中で、わたしは決意した。
もしそう訊かれたら、あなたのことがずっと好きでしたって、言ってやろう。わたしは、まあ……必要なら涼しい顔で嘘をつけるけど、この気持ちを否定する言葉だけは口にしたくない。
横目で柚希を見る。戸惑っているのがはっきりと顔に出ているけど、いざ嶋くんに訊かれたら、柚希も同じようにするだろう。
嶋くんは顔を上げて、わたしたちを見た。目が合う。一瞬の間をおいて、言った。
「もしかして二人は、武広高校のスパイをしに来てるんじゃないか?」
「…………はい?」
「…………えっ?」
わたしと柚希の声が重なった。え、なんて? ちょっとタイム。いまのどういう意味なの?
「武広と公星の野球部は、ここら辺の公立校じゃトップだ。お互いをライバル視してもいる。俺たちもそうだけど、向こうもよく、練習試合なんかで偵察に来る」
それは、確かにそうだけど。……え?
「嶋くん、わたしたちが武広の野球部のスパイで、公星野球部の弱点を探ってるって言いたいの?」
わたしから視線を逸らす嶋くん。え? え? なにそれ、そんなこと思ってたの?
「前から、おかしいなって思ってたんだ。中学を卒業したあとで引っ越した熊代はともかく、川口はなんで二時間もかけて公星に通ってるんだろうって。でも、もともと武広のスパイをする気だったって考えると、辻褄は合う。一日ごとに入れ替わるのは、一人よりは二人で観察したほうが気づけることも多いからじゃないか?」
いやいやいや。なんでわたしたちがこんな面倒なことしてまで、たかが一野球部のスパイなんかしないといけないわけ? てか、一人よりは二人のほうがいいから入れ替わってたって、そんな軽い理由でこんなことできるか。
ぽかんと口を開けて嶋くんを見ている柚希の横で、わたしはなんとか口を動かして尋ねる。
「あの、嶋くん。……それ、真剣に言ってる?」
「うん。こんな面倒で生活に支障が出かねないことをする理由は、これしか思いつかない」
「ほんとに、それだけしか?」
柚希の問いに、嶋くんはこくりと頷いた。わたしたちは再び、顔を見合わせる。
マジだ、この人。本気でわたしたちを武広のスパイだと思っている。……あはは、なによそれ。この数日間であれだけ鋭い洞察力を見せたのに、なんで恋愛のこととなるとこんなに鈍いの? そして、どんだけ頭の中が野球でいっぱいなわけ?
わたしたちはなにも言えずにいた。そして、そのリアクションを勘違いした野球バカ野郎が、また変なことを言い出す。
「答えられないなら、二人は本当に、武広の……」
うん、そう。わたしたち、スパイなのよね。
って――
「んなわけあるか!」
「ありえないでしょ!」
わたしたちの怒声と、テーブルを叩く音が響く。嶋くんはうろたえ、
「え、だって、他にどんな理由が……」
頭の中でぶちっと音を立てて、なにかが切れた。それはわたしだけじゃない。柚希も一緒だったようだ。
「あんたが好きだからに決まってるでしょ!」
綺麗に重なり、店内に響き渡るわたしたちの声。嶋くんは固まった。わたしと柚希は軽い興奮状態に陥り、二人して手元の飲み物を一気飲みした。ブラックコーヒーの苦さなんてもう気にならない。
「え、あの……。あんたって、俺のこと? 俺が好きってこと?」
ようやく正気に戻った鈍感男に、わたしたちは大きく頷いた。
嶋くんは一瞬の間をあけて、
「ええ! そんなバカな」
なにがそんなバカなよ。こっちは、あんたの思考回路がそんなバカなだっつーの。
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「ええっと、つまり、俺が公星にするか武広にするかぎりぎりまで悩んでたから、二人はそれぞれ別の高校を受けて、それでいまは、毎日入れ替わってお互いの高校を行き来してるってわけか」
わたしたちの説明を受けた嶋くんは、頭の中を整理するようにそう振り返ったあと、おずおずと続けた。
「……それもぜんぶ、俺に会うためにやってるってことでいいんだよな?」
頷く柚香の横で、わたしは逆にうつむいてしまった。改めてそう訊かれると、自分が口にしてしまったことを思いだして恥ずかしくなり、まともに嶋くんの顔を見られない。
けっきょく、勢いで告白してしまったあと、わたしたち(ていうより、ほとんどは柚香だけど)は嶋くんにこれまでの事情を話した。わたしが万引きをしてしまったあとで、武広中と倉橋中の試合を観たこともだ。
柚香はもうすっかり開き直ったみたいで、不機嫌そうな表情を隠そうともせず、嶋くんを睨みつけた。
「で? わたしたちの話は終わりだけど、嶋くんに訊きたいことがあるわ。嶋くん、わたしたちに告白されてどうだった?」
「どうだったって……。最初は驚いたけど、いまはその……うれしいよ」
「ふーん」
信用ならないという風な柚香。完全に素が出ていた。
「本当に? なんか適当に言ってない?」
「まさか! そんなんじゃないよ」
さっきの煮えきらない感じとは一変、嶋くんははっきりと断言した。柚香の表情が少し驚いたようなものに変わる。わたしも、こんなに力強い否定が来るとは思わなかった。
「最近、俺たち話をすることが増えただろ? 一緒に帰ったり、ナカムラスポーツにグローブを買いに行ったり。川口と距離が縮まった気がして、うれしかったよ。……あんなこと言ったあとじゃ、信憑性は薄いかもしれないけど」
ぐるぐると、頭の中で嶋くんの言葉が回る。
最近、話す機会が増えて、うれしかった。川口と距離が縮まった気がしてうれしかった。
信じられない。嶋くんが、わたしにそんなことを!
うれしすぎて溶けそうだった。こういうのを、「天にも昇る心地」って言うのかな? わたし、いまなら死んでもいいとすら思える。ああ、でも、死ぬ前にもう一回、さっきの嶋くんの言葉を聞きたい。川口と距離が縮まってうれしかたっていう、さっきの……。
…………うん? いや、でも、待てよ。川口と話せてうれしかったって……。
ゆっくりと、わたしは左に視線を動かす。そこにいた、自分と全く同じ顔をした姉と、がっちり目が合った。
一秒か二秒ぐらい、わたしたちはにらめっこするみたいに見つめ合った。そのあとで、弾かれたように嶋くんに顔を向け、同時に口を開く。
「嶋くん、どっち?」
「どっちと話せてうれしかったのっ?」
嶋くんはたじろいだ。
「いや、あの、どっちって言われても。俺、昨日まで川口が双子だって知らなかったし」
「でもいまは知ってるでしょ!」
「どっちなの、嶋くん?」
ヒートアップしたわたしたちは、テーブルの上に身を乗り出して、嶋くんに詰め寄る。嶋くんは、背もたれにぴったり背中がつくまで下がった。
「考えればわかるわ! 月、水、金、日はわたし、柚香!」
「わたし、柚希は火、木、土!」
さあ、どっち? と、二つの声が重なる。
嶋くんの視線はわたしたちのあいだを行ったり来たりして、最終的にテーブルに落ちた。
「ええと……たぶん、両方」
「はああああッ?」
静かな店内に、柚香の怒りの声が響いた。それとは逆に、とりあえず嫌われてはないらしいことがわかってわたしはほっとした。けど、胸をなでおろす暇もなく、周りから向けられる咎めるような視線の数々に気づく。わたしは、いまにも殴りかかりそうな剣幕で嶋くんを睨む姉の肩を掴んで、浮かせた腰を椅子に戻す。
「お、落ち着いて、柚香」
「落ち着いて? 柚希、あんたよくそんな冷静でいられるわね。いま、堂々と二股宣言されたのよ」
「そんな大げさな……」
べつにわたしたち、嶋くんと付き合ってるわけじゃないのに。
横目で見ると、嶋くんはすっかり怯えきっていた。こう、散歩中の仔猫の前に突然ライオンが飛び出してきたらこんな顔をするんだろうなっていう表情。
「よくよく考えたら、あれじゃん。嶋くん、昨日までわたしたちのこと同一人物だと思ってたんだし。だから、えっと……よくわかんなくて当たり前だよ。ね、嶋くん?」
「ん? あ、ああ。うん、そう」
こくこく頷きまくる嶋くん。
柚香はそれを刺すような目で見やって、ふんと鼻をならした。
「まあ、いいわ。とりあえずこれで、わたしたちがどうしてこんなことをやったか理解できたわよね」
「あ、はい。すごく」
「もう質問はないわよね?」
「はい、ありません」
嶋くん、入試の面接に来た中学生みたいにガチガチになってる。
柚香は頷き、手元のグラスを握った。でも、コーヒーはぜんぶ飲み干してしまっている。小さく舌打ちしてから、カウンターに顔を向けると、
「すいません、ジンジャーエールひとつ!」
ああ、嶋くんの前ではおしとやかな印象でいたいから炭酸は飲むなとか言ってたくせに。自分でルール破っちゃったよ。
ジンジャーエールが運ばれてくると、柚香はそれを一口飲み、ふう、とため息をついた。そして、上目遣いで嶋くんを睨む。
「嶋くん、一つ確認しておきたいんだけど」
「は、はい。なんでしょうか?」
「あなた、わたしたちのうちの誰かが好きってことでいいのよね?」
「え?」
「えじゃないわよ。距離が縮まってうれしかったんでしょ? それって好きってことじゃないのっ?」
「あー……そう、なのか?」
嶋くんは困ったように首を傾げた。
「じゃあ、質問を変えるわ」
平坦な声でそう言いながら、柚香は人差し指でテーブルを叩く。明らかにイラつきを抑えていた。
「嶋くん、仮にわたしたちが双子じゃなくて、今日告白されてたとしたら、どうしてた? オッケーしてた?」
「えーっと、どうだろう?」
嶋くんは視線を右往左往させて、最後にまた柚香を見ると、小声で、
「ちょっと微妙……かも」
「はいっ?」
声こそそこまで大きくなかったけど、にじみ出る怒りはまったく抑えられてなかった。嶋くんがまた、ライオンに怯える仔猫の目になる。
「なによそれ。じゃあ、さっきの『距離が縮まってうれしかった』発言はなに? 調子のいいこと言ってただけ?」
「ち、違う。あれは本当」
「じゃあ、なんで微妙なのよ?」
「いまは俺、野球に集中してたいから……」
しどろもどろな返答だったけど、いちおう柚香の興奮はそれで少し冷めたらしい。はあーっと大きく息を吐き、深呼吸。ジンジャーエールをまた一口飲んでから、口を開く。
「つまり、いま彼女なんか作ると野球に支障をきたすから、告白されてもオッケーするかわからないってことね?」
「う、うん。そうです。川口たちが嫌いなわけじゃないです、断じて」
果てしなく言わされた感のある台詞だった。柚香は、そう、とだけ頷くと、ジンジャーエールを飲んで、窓の外に視線をやった。
急に場が静かになる。なんか気まずい。けど、柚香は頬杖をついて窓を見てるだけで、話をする様子を見せない。
わたしは嶋くんに声をかけた。
「あの、嶋くん……」
「あ、はい」
「えっと、お願いなんだけど……。わたしたちが入れ替わってたってことは、内緒にしてくれないかな? 学校側にバレたら、やっぱりちょっと大変だから」
「ああ、うん。それは大丈夫。誰にも言わないよ」
言ったあとで、嶋くんは思い出したように、
「川口たちは、このことは誰にも? 大原にも?」
「うん、言ってない」
「そっか……」
意外そうな表情をする。あかりには言っているものと思ってたのかもしれない。
ジンジャーエールをストローでかき混ぜながら、柚香がおもむろに口を開いた。
「嶋くん、わたしたちこれからも入れ替わるから」
「えっ!」
思わず声を出してしまったのは、わたしだ。
「大丈夫なの、柚香?」
「大丈夫でしょ。いままでバレなかったし……嶋くんも黙っててくれるのよね?」
嶋くんは青い顔になってこくこく首を縦に振った。
信じられない。柚香は慎重だから、こうなったらもう入れ替わりは終わろうって言うと思ってたのに。
「本当にいいの?」
「いいって言ってるでしょ。これで終わると、わたしたちずっとモヤモヤしたままじゃない」
柚香は弾むような声で嶋くんに尋ねる。
「ねえ、嶋くんは野球に集中したいから、告白されてもオッケーできないんでしょ? これってつまり、引退したあとなら大丈夫ってことよね?」
「え?……はい、たぶん」
「そう」
今度は目を伏せる。隣のわたしからは、柚香の口許がはっきり見えた。その口許は、明らかに笑っていた。ただし、うれしさに溢れているような感じじゃなく、こう、罠にかかった小動物を追い詰めるような笑みだった。
「ちょうどいいじゃない。引退まで、あと一年ぐらいあるわ。嶋くん、そのあいだにはっきりさせてよ。わたしたちのどっちが好きなのか。一年もあれば、充分でしょ?」
「そ、そうですね、はい。充分かと……」
「じゃあ、決まりね。引退したあと、白黒はっきりさせましょ。それまではこれまで通りね。月、水、金、日はわたし。他は柚希よ」
柚香は顔を上げ、嶋くんに向かって微笑む。
わたしが言うのもなんだけど、その笑みはすごく綺麗で、そして、それ以上に――恐ろしかった。
「嶋くん……ちゃんと見極めてね?」
「あ、はい。あの、ええっと……頑張ります」
これまで聞いたことないぐらい細い声でそう答える嶋くん。顔色は、病人かと思うぐらい青白くなっていた。
……なんていうか、ごめんね、嶋くん。ほんとごめん。
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気分は最悪だった。カジノで夢中になってお金をすって、帰る頃には一文無しになっていると、こんな心境になるんだろうと思った。
「はあ……」
ついため息が出てしまう。すると、わたしの正面に席を移した柚希がおずおずと話しかけてきた。
「あの、大丈夫?」
「大丈夫なわけないでしょ、あれが」
さっきまでの会話で、わたしは嶋くんにいろいろとひどい態度をとってしまった。嶋くんの見当はずれすぎる言動につい我慢できなくなって、本音がだだ漏れになってしまったのだ。いままでおしとやかな女の子のイメージを作っていたのに、それはものの数分で崩れさっただろう。嫌われ……はしていないかもしれないけど、イメージダウンはしたはずだ。
あのあと、わたしたちは二人で話すことがあるからと言って、嶋くんには先に帰ってもらった。いま思い返すと、これもちょっとひどい言い方をしてしまったような気がする。
柚希は残り少ないオレンジジュースをストローですすり、上目遣いでわたしを見てきた。
「でも、柚香、本当にまだ入れ替わりを続けて大丈夫なの?」
「大丈夫よ。嶋くんは約束を守ってくれる人だし。……ただ、これからはいままで以上に気をつけないとね」
嶋くんは、「川口柚香」が日によって喋り方が違ったりしてたとか言ったらしい。柚希には出来る限りわたしの喋り方を真似してもらってるけど、いろいろとボロが出ていたのだろう。あと、わたしは頭に血が上るから髪を高い位置で結べないけど、柚希はうなじにかかると暑いからと高い位置で結びたがる。結果的に、川口柚香は一日ごとに髪を下ろしたり結んだりしているということになり、そのことを不審がる人もいるかもしれない。これもちょっと、考えたほうがいいかな。
ああ、それから、わたしは藤井に煽られてもあしらうことができるけど、柚希はそんな器用なことはできない。たぶんいつも、切れてなにか言い返してるんだろう。そこも注意していかないと。
あとは……と一人で考えに没頭していると、柚香、と名前を呼ばれた。顔を上げると、なにやら辛気臭い顔の柚希と目が合った。
「さっきも話したけどね、今日、武広で青山さんに会ったんだ。父さんと母さんは一回、謝りに行ったらしいんだけど、わたしが行ったのは、あのとき以来だった」
「へえ、そうなんだ」
「うん。なにを言われるかってすごく怖かったけど、青山さん笑ってた。もうあのときのことは気にしてないからって。……それでね、なんだか救われたような気がした。わたしのしたことが無しになるわけじゃないんだけど、なんていうか、ずっとあったモヤモヤが晴れたっていうか……」
「うん。つまり、なにが言いたいの?」
いつもそうだけど、柚希は考えをまとめずにとりあえず話し始める。口下手なのはわかるけど、それならしっかり頭の中で筋道立ててから話せっての。
あのね、えっと、とまた微妙にキョドってから、柚希は続けた。
「柚香が入れ替わりのこと、提案してくれたのは、わたしに万引きさせたのは自分のせいだって思って、引け目を感じていたからなんでしょ?」
「……え?」
「でもね、わたしは今日のことで全部すっきりさせたから。だから、柚香ももう気にしないで。もともと、悪いのはわたしだし。それで、わたしに無理に気を遣って入れ替わりを続けるって決めたんなら……もうその必要はないから」
まっすぐにわたしを見て、そう言ってくる。
確かに、嶋くんの後押しがあったとはいえ、入れ替わりを始めたのはその気持ちがあったからだ。
でも、柚希は気づいていないだろうと思っていた。だってわたしは、あのときのことをまだ一度も謝っていないんだから。話題に出したことすらない。それなのに、いつのまにか全部バレていたなんて。
じいん、と胸の中に温かいものが広がっていく。
もう気にしないで。
それは、自分でも気づかなかったけど、長いあいだわたしが待ち望んでいた一言だったのかもしれない。その言葉を聞いたとき、肩にのしかかっていた重い重い荷物が下りたような気がした。鼻の奥が、またツンとしてくる。
「あの、柚香。大丈夫?」
急に黙ったわたしに、柚希が遠慮がちに声をかけてくる。
あんたの言うとおりだよと頷くことはできた。そしてそのあと、いままでずっと言えなかった言葉――あのときはひどいこと言ってごめん、と謝ることもできたし、そうしたい気持ちもあった。
でも、どうしてだろう。
わたしは素直にそうすることができなかった。代わりに口から出てきたのは、驚くほどぶっきらぼうな言葉だった。
「そんなわけないでしょ。あんたなに勘違いしてるのよ」
違うの? と目を丸くしたあと、柚希は躊躇いがちに続けた。
「じゃあ……。じゃあどうして、入れ替わろうなんて言ってきてくれたの? 柚香が得することなんて、一つもないのに」
「それはべつに……どうだっていいでしょ。あんたが気にすることじゃない」
その口調も、つい突き放しがちになってしまった。それに対して、柚希はしゅんと顔を伏せる。ああ、もう……。なんか調子狂うな。
ごほん、と咳払いを一つして、話を戻す。
「でも、柚希。仮に……本当に仮によ。わたしがあんたを気遣って入れ替わりをしてたとしても、ぜったい、この状況で入れ替わりをやめようとは言わなかったと思うわ」
「え、なんで?」
「決まってるでしょ。さっきの嶋くんとのやりとりがあったからよ。引退までにどっちが好きか見極めるって約束したんだから、いまさら無しにはできないでしょ。ちゃんと白黒はっきりさせたいのよ、わたしは」
いままでは、柚希と嶋くんを会わせるために入れ替わりをしていた。だけどこれからは、嶋くんに見極めてもらうために入れ替わりをする。
目的が変わってしまったのだ。だからもう、わたしが柚希に引け目を感じているとか、そういうのはあまり関係ない。
「わかった。……ありがとう、柚香」
言いはするけど、柚希はまだどことなく申し訳なさそうだった。入れ替わりがいかに面倒なことか知っているからだろう。
そんな妹に、わたしは言う。
「でもね、今日のことで、少し楽にはなった気がするのよ」
「楽に?」
「うん。いままで嶋くんが見てきた「川口柚香」は、本当のわたしじゃないでしょ。柚希のイメージも混ざってしまってる。でもこれからは、その間違ったイメージが分離して、正しい形に仕分けられるんだって考えると、なんていうか、ほっとしてるのよ。ちゃんとわたしをわたしとして見てくれるようになるんだって」
例えば嶋くんに、「川口は優しいな」と言われても、その「川口」が誰のことなのかわからない。もしかしたら、彼が優しいと思ったのは、わたしではなく柚希のほうかもしれない。
柚希との入れ替わりをずっと秘密にしたままだと、常にこんなことを勘ぐらなければならない。それはひどく窮屈で、時には大きな重荷にもなる。それがなくなったのだ。
だから、嶋くんにこのことがバレたのは、そこまで悪いことじゃない。わたしはそう思い始めていた。
柚希は、そっか、と頷くと、
「その気持ち、わたしもわかる」
と、ぽつりと呟いた。
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柚香の言っていることはよくわかった。
わたしもこの一年と少し、公星高校ではずっと「川口柚香」を演じなくちゃいけなかった。誰かに話しかけられると頑張って笑顔を作って、おしとやかな物腰で対応する。どれもわたしの苦手なことだった。
でも、クラスメイトに話しかけられたときだったらまだ我慢できる。わたしが一番辛かったのは、嶋くんと話すときも「川口柚香」でいないといけないことだった。
わたしは川口柚希なのに。他の誰でもない、嶋くんですらわたしを柚香だと信じて疑わず、川口柚希なんて人間が存在することすら知らない。わたしはそれが辛かった。嶋くんと話せるだけでうれしいと思う反面、彼の中ではわたしは「川口柚香」なんだと思うと、ときどき、どうにもならない虚しさのようなものを感じることがあった。
一昨日、長谷川さんの弟に渡すボールに寄せ書きをお願いされたとき、「川口」としか書けなかったのも同じ理由だ。くだらない意地みたいなものが働いて、あのときわたしはどうしても「柚香」と続けることができなかった。
でも、柚香の言うとおり、もう今日で嶋くんにはすべてバレてしまった。明日からわたしは、川口柚希として嶋くんと話ができる。
そのことを考えると、うれしさが溢れてきた。
きっと、柚香のよころびも、わたしと似たような感じなんだと思う。
明日からはもう、嶋くんの前では、自分の好きなようにしていいんだ。
*
喫茶店を出ると、もう陽は沈みかけていた。あたりからはひぐらしの声が聞こえてくる。
「あ、ケータイ忘れた。ちょっととってくる」
柚香はそう告げると、もう一度店内に戻っていった。
手持ちぶさたになったわたしは、なんとなく気になって喫茶店の看板を見上げる。入るのは初めてだったし、状況が状況だったから、お店の名前も見てなかったのだ。
「軽食喫茶 午前零時の鐘」。看板にはそう書かれていた。
午前零時の鐘っていうと、あれか。シンデレラに出てくるやつか。シンデレラの魔法が解けて、元の町娘に戻ることを知らせるっていう。その音を聞いたシンデレラは、大急ぎで王子様の元から去っていった。
ふと思う。
いまのわたしたちの状況は、シンデレラの魔法がとけたときと似ているな、と。
わたしたちもシンデレラ同様、自分を偽って王子様と会って、話をしていた。でも、その魔法はいまとけてしまった。次からは、ありのままの姿で彼と接することになる。
うん、こうして考えたら、似てると言えなくもないと思う。でも、魔法がとけたとき、シンデレラはきっと、すごく残念だったはずだ。偽りでもいいから、ずっとお姫様のままでいたいって気持ちも、ぜったいあったはずだから。
対してわたしたちは、これ以上嶋くんの前で自分を偽らなくてもいいんだって、ほっとしている。
もちろん、わたしたちの立場がシンデレラとは違うことはわかってる。あっちはもう二度と王子様に会えないと思ってたのに対して、わたしたちはこれからも普通に彼に会えるんだから。
でも、置かれた立場を抜きにして、純粋に午前零時の鐘が鳴ったときの心境だけを考えると、わたしたちはシンデレラとは真逆だったんだ。
……なんて、こんな考えはちょっとロマンチックすぎるかな?
「お待たせ……なに笑ってんの?」
いつの間にか、ケータイを取ってきた柚香が戻ってきていた。
「あ、べつになんでも」
「そう」
言いながら、柚香はさっさと歩き出してしまった。慌ててその背中を追う。
暮れかけた空の下でひぐらしの声を聞きながら、わたしたちは「午前零時の鐘」をあとにした。




