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リバース・シンデレラ  作者: 天そば
第六章 告白する土曜日
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告白する土曜日 3


「まだ治らないかあ……」


 鏡に映る自分に向かって、わたし、川口柚香はそう呟いた。

 家の最寄り駅から五つ離れたところにある、築二十年ほどの市立図書館。そのトイレで、わたしは鏡とにらめっこしていた。他に人もいないので心おきなく独り言が言える。

 痛々しい内出血の跡は、範囲が狭くなって色が薄くなってはいるけど、すべすべの頬の上でまだ抜群の存在感を誇っている。しかもよりによって、わたしのチャームポイント、泣きぼくろのすぐ下でだ。これを湿布で隠すと泣きぼくろが見えなくなり、それは、思った以上にわたしに精神的なダメージを与えていた。

 理由はわかっている。泣きぼくろが見えないと、わたしの容姿は完全に柚希と一致するからだ。


 わたしはかわいい。そんなことは、自分自身が一番よくわかっている。家に帰ると、わたしとまったく同じ顔、同じ体型の柚希がいるんだから。まさに天然の姿見だ。双子の妹を冷静に観察して、ああ、こんなかわいい子にアタックされたら男はたまらんだろうな、なんて思ったりもする。それはつまり、双子の姉であるわたしにもそっくりそのまま当てはまるのだ。わたしはかわいい。物心ついたときから、それは自覚していた。


 でも、だからこそ、相手が嶋くんとなると難しいのよね。

 はあ、と無意識に息を吐いてしまう。

 恋のライバルは柚希。わたしと同じ顔の持ち主。

 それを考えると、言いようのない不安に襲われる。そんなとき、わたしには泣きぼくろがあると考えると、少し気が楽になった。

 わたしたちの唯一の相違点である、左目の泣きぼくろ。写真や鏡に映る自分を見ても、この泣きぼくろはいいアクセントになっている。これがあるぶん、わたしは柚希より有利だ。そう言い聞かせていた。

 だから、こうして湿布のせいで泣きぼくろが見えないというのは、わたしにとってちょっと笑えない出来事なのだ。たとえ、嶋くんが柚希の存在自体を知らなくても。


 ……まあ、心の中でぐちぐち言っててもしょうがないわよね。

 湿布を貼りなおし、教科書とノートが広がったテーブル席に戻る。

 わたしたちが入れ替わりで学校に行っているのは、父さんと母さんにも内緒にしている。だから、柚希が「柚香」として部活に行っているあいだも、わたしは家以外の場所で時間を潰さないといけない。そんなとき、この市立図書館は便利だった。


 一昨年、こっちから自転車で二十分の距離に隣町の町立図書館が新設されたおかげで、土曜の昼でも余裕でテーブルを占領できるぐらいガラガラ。定期の範囲内だから電車賃もかからないし、授業の予習復習をすませるにはちょうどいい場所だといえる。テスト期間は入れ替わりなしというルールも設けてあるし、いい成績をとるためには、学校外でも勉強しておかないといけない。ただでさえ、一日ごとに学校が変わるせいで、授業の進み具合が曖昧なのだ。

 シャーペンを握り、ノートに向き合う。期末テストが終わったばかりだけど、来週、日本史の小テストがある。しっかり暗記しておかないと。


 やるぞ、と気合いを入れかけたところで、ポケットのケータイが震えた。

 着信、川口柚香。

 入れ替わるときはお互いのケータイも一緒にというのがわたしたちのルールだ。つまり、この着信は柚希からということになる。

 でも、なんの電話だろう? 大抵のことはメールですませるのに。

 とりあえず、ケータイと鞄を持って外に出た。そのあいだに着信が切れるかもと思ったけど、ずっと鳴り続けている。相当、緊急の用事なのかもしれない。


「はい、もしもし」


 緊張のせいで、わたしの声は少し高くなっていた。だけど、


「もしもし……柚香?」


 電話の向こう、柚希の声は、わたしとは正反対に低かった。まるで、すぐ隣に誘拐犯が立っていて、包丁を突きつけられでもしているかのように。


「なに、どうかしたの?」

「うん、あの……あ、ちょっと電話変わる」

「え?」


 誰に、と訊こうとしたときにはもう遅い。彼の声が聞こえてきた。


「もしもし、川口?」


 声が出なかった。もしもしって、なんで? なんでこの人が電話に?


「俺、嶋だけど。ごめん、もうぜんぶ知ってるんだ。川口が双子だったことも、入れ替わってたことも……」


 お餅を一口も噛まないまま飲み込んでしまったような感覚に襲われた。息。息ができない。


「そのことで、ちょっと話が……あ、電話変わる」

「柚香?」


 双子の妹の声を聞くと、わたしはなんとか餅を飲み込めた。軽く息を吸って吐いてを繰り返し、呼吸を整える。


「ごめん、柚香。わたしのミスで……。いま、どこにいる?」

「市立図書館だけど……」

「そっか。あのね、嶋くんが、わたしたち三人で話をしたいって言ってるんだけど、大丈夫?」


 大丈夫?って……。できればしたくないけど、この状況じゃ断れないじゃない。


「わかった。じゃあとりあえず合流しましょう。いまどこにいるの?」

「武広」

「はあっ?」


 なんでそんな、地雷があちこちに埋め込まれてる危険地帯に?


「ごめん。いろいろ事情があって……。そのこともちゃんと話すから」

「う、うん。わかった。じゃあ……電車に乗ってこっちまで来て。市立図書館の向かいにある喫茶店で待ってるから」

「オッケー。一時間ぐらいで着くと思う」

「わかった」


 それじゃあ、と電話を切ろうとしたところで、呼び止められた。


「待って、柚香! あの」


 いまにも泣き出しそうな声で、柚希は続けた。


「本当に、ごめん。わたし、いつも迷惑かけてばっかりで」

「ああ、いいわよ。たぶんわたしだって、失敗したところがあるだろうし。その……あんまり気にしないで」

「うん……ありがとう」

「うん。じゃあ、待ってるから」


 電話を切る。

 あの二人が到着するまで、あと一時間。それまでに、普通に話ができる状態にまで落ち着かないと、と思いはするものの、胸の中には不安が充満する。

 これからどうなるんだろう。入れ替わりはもちろん、話の展開によっては、嶋くんといままでのように話すことすらできなくなるんじゃないか。

 そう考えると、鼻の奥がツンとしてきて、歩きながら顔を伏せてしまった。



 嶋くんと乗る二回目の電車は、一回目と同じく会話はなかった。

 がらんとした電車の中、お互い思い思いの方向に目をやっている。話をしようにも話題が思い浮かばないし、そもそも、楽しくお喋りしようなんて気にはなれなかった。

 天井に吊された宣伝チラシを見ながら、わたしはぼんやりと、いままでのことを思いだした。

 柚香との入れ替わり生活を始めて、一年とちょっと。この入れ替わりを成功させるために、わたしたちはいろいろとルールを設定してきた。自分が双子だってことを隠す以外にも、いろいろだ。


 たとえば、交友関係。わたしも柚香も好き勝手にいろんな人に話しかけると、なんかあいつ、昨日とキャラ違くない? っていう風に、わたしたちの性格の違いに気づいてしまう人がいるかもしれない。だから、クラスメイトとは極力話さず、教室では大人しくしてるっていうのも、ルールの一つだった。唯一、部活でも一緒で、細かいことはあまり気にしないあかりは例外なんだけど。

 同じように、クラスメイトや友だち、部活の人には、「川口」もしくは「ユズ」と呼んでもらうのも決まりだった。「柚香」なんて呼ばれてしまうと、わたしが変なリアクションをしちゃうかもしれないから。


 他にも、部活の針仕事は個人差があるから出来る限りわたしがやるとか、お互い香水をつけて匂いにばらつきがでないようにするとか、細かいルールはたくさんあった。筆跡の違いを少しでもなくすために、同じペン字の本を使って字を練習していたりもする。

 だけど、そんな中でもやっぱりミスは出てしまう。覚えている範囲で、今週だけでもわたしは何度か失敗している。


 火曜日の部活では、あかりが「瑞樹」って言ったのを「柚希」と聞き間違えて、体育館へ行ってしまった。瑞樹が入部したときから、名前の響きが似てるから気をつけなくちゃと思ってたのに、まんまとやってしまった。いくら眠かったとはいえ、絶対にやっちゃいけないミスだった。

 木曜日には、嶋くんに、前日聞いたばかりのはずの真弓先生の姪っ子の名前を知らないことをバラしてしまった。柚香から、今日は学校でこんなことがあったよと報告は受けるけど、そこまで細かいところまでは把握できない。だから、誰かと会話をするときは前日のことに話が飛ばないよう、気をつけなくちゃいけないのに……。


 なんだか笑えてきた。よくこんなこと一年もやってきたな、わたし。……いや、でも、そのおかげで嶋くんの近くにいられるわたしはまだいい。問題は柚香だ。

 クラスメイトとろくに話さない、地味な存在になるのは、もともと人見知りなわたしはべつにいい。小、中でもそんな感じだったんだから。でも、柚香は本当はもっといろんな人と話したい、目立ちたいと思ってるはずだ。なにをするにも要領がいいから、中学時代は常にクラスの中心にいるような人だった。


 情けないけど、中学のときわたしがちょっと荒れてたのはこの辺に原因がある。双子っていうのは、やっぱり、いろいろな面で比べられてしまう。もともと持っていた柚香へのコンプレックスが変な風に膨らんで、わたしは刺々しくなってしまった。いま思うと、ほんと子どもすぎる。

 なにをするにも完璧な柚香からすれば、不良もどきのような妹がいるのは汚点以外のなにものでもなかったはず。もとからあまり良くなかったわたしたちの仲は、中学に上がってからなんとなくギスギスしだして、いまも改善されたとは言い難い。それは仕方のないことだし、子どもっぽいことで腹を立てていたわたしが悪いんだけど……。


 でも、柚香はそんなわたしに入れ替わりを提案してきてくれた。自分が得をすることなんて一つもないのに。それどころか、高校のあいだは嶋くんに告白するようなことはしないとまで約束してくれた。


 電車が駅に停まり、ドアが開く。降りる駅はまだまだ先だから、わたしたちは座ったまま。ほとんどない乗客の乗り降り。それを見ながら、思う。


 柚香はたぶん、わたしに気を遣ってくれたんだろうな。

 中学三年の春、武広に行ったとき、わたしは柚香にちょっとキツイことを言われ、それで冷静さを失って万引きなんてしてしまった。柚香はそのことに引け目を感じていて、罪滅ぼしのためにわたしと入れ替わってあげようという気になったんじゃないか。最近になって、なんとなくそう思うようになっていた。

 けど、あのときのわたしなら、きっかけがあればいずれなにかやらかしていただろう。柚香が申し訳なく思うことはないのに、本人はそう思ってないみたいだ。こんな、ひたすら面倒なことに付き合ってくれて……。


 だけど、それも今日で終わりだ。嶋くんにすべてバレたいま、もう入れ替わりなんてできない。

 横目で嶋くんを盗み見る。険しい顔で腕を組み、窓の外に目を向けていた。

 いままでは毎日のように会えていたけど、これからはもう顔を見ることもなくなるんだろうな。

 わたしは口を結んで、嶋くんから表情が見えないよう、そっとうつむいた。



 喫茶店のカウンター席には、女の子が二人座っていた。一人はたぶん小学校五、六年。真っ黒な髪が印象的な子で、チーズケーキをちまちま食べている。もう一人は、小学校低学年か、下手をしたらまだ幼稚園生かもしれない。床に届かない足をぱたぱたと振りながら、おいしそうにオレンジジュースを飲んでいた。

 二人は姉妹だろう。オレンジジュースの子が、チーズケーキの子を「お姉ちゃん」と呼ぶのが何回か聞こえた。


 窓際のテーブル席でアイスティーを飲みながら、わたしはカウンター席の姉妹を観察していた。

 柚希との電話から三十分ほどが過ぎている。わたしが指定した喫茶店は、サラリーマンがビジネス本を読むのに利用するような、落ち着いた雰囲気のお店だった。実際、席を埋めているのはほとんどが三十代から四十代の男性だ。そのせいか、客層からずれている小さい女の子二人に自然と目がいってしまった。カウンターの向こうにいる店主に親しげに話しかけていることから、もしかしたら親戚かなにかかもしれない。


「お姉ちゃん、一口ちょうだい」


 妹が、チーズケーキをつつく姉に口を開けてみせる。お姉ちゃんは嫌な顔一つせず、フォークにさしたケーキを妹の口に運んだ。


「おいしい?」

「うん、おいしいー!」


 二人で顔を合わせて笑う。

 あまり見たくないものを見てしまった。思わず、視線を窓の外に逸らす。

 ああいう「いいお姉ちゃん」を見ると、どうしてもばつが悪くなってしまう。

 わたしにも妹がいる。でもわたしは、あまりいい姉ではない。

 街路樹に止まっている蝉をガラス越しに見ながら、わたしは、中学三年の春を思いだした。


     *


 あの日はよく晴れた土曜日だった。

 九州に出張中だった父さんと母さんに代わって、わたしは柚希と二人で武広総合病院を訪れた。前日、おばあちゃんがぎっくり腰で入院したからだ。といっても、一週間で退院できるぐらいの軽い症状で、わたしは武広に買い物に行くついでにおばあちゃんを見舞うぐらいの感覚だった。

 病室に三十分ほど滞在したあと、そろそろ行こうかとわたしたちが立ち上がると、おばあちゃんは枕もとの財布から千円札を二枚取り出した。


「これ、少ないけど。来てくれてありがとうねえ」


 わたしたちに一枚ずつ渡してくる。正直、ラッキーと思った。クラスの友だちから、武広はさびれてるけど駅の近くにある雑貨屋さんは品揃えがいい上、タイムセールもやると聞いていた。あと数分で始まるタイムセール戦線に、思わぬ援護射撃だ。

 浮かれるわたしだったけど、その隣で柚希はなぜか申し訳なさそうな顔をしていた。病室を辞したあとも表情は晴れず、外に出た途端、呟くように言った。


「……本当にいいのかな?」

「なにが?」


 刺のある返事をする。あのときは、柚希がなにか喋るたびに意味もなくいらいらしていた。


「だっておばあちゃん、あんまりお金ないでしょ? いまだって、入院費とかで更にいろいろお金かかってるはずなのに、お小遣い貰っちゃって……」

「べつにいいでしょ。本人が好きでくれたんだから」

「それはわかってるけど……」


 逆に柚希は、わたしと話すときだけは人を寄せ付けない刺々しい雰囲気が消え、代わりに卑屈さを身体中から発していた。それがまたわたしをいらつかせ、口調に滲み出る見下しの色が濃くなっていく。


「わかってるなら、そんなうじうじすんなっての」


 言葉につまり、口を噤む柚希。それで終わっておけばよかったのに、わたしはなぜかこう続けてしまった。


「そんなに気になるんなら、あんた一人でもう一回行って、返してきたら? わたしは買い物してるから」


 戸惑う妹に、わたしは更に言葉を投げかけた。


「おばあちゃんにはわたしのこと、適当にごまかしといて。いい? 間違っても、わたしの評価を下げるようなこと言わないでよ。学校でもあんたのせいで迷惑してるんだから」


     *


 いま思うと、あの頃のわたしは本当に嫌な奴だった。

 柚希はもともと器用なほうじゃない。口下手だし人見知りだし、愛想笑いも苦手だ。

 だから、そういうところでわたしにコンプレックスを抱いているのはわかっていた。父さんや母さんも、深い意味はないのだろうけど、もっと柚香を見習いなさいと言うこともあったし、クラスメイトも、柚希と会話するときはわたしの名前を出すことが多かったように思う。幼いころからそれが続き、いつしかわたしたちのあいだには完全な上下関係ができていた。

 そういった鬱憤が溜まって抱えきれなくなったからだろう、中学に入ると柚希は次第に刺々しくなり、誰かと話すこともあまりなくなっていった。そしてわたしは、柚希がなぜそうなったかということに勘付いてはいたものの、特にフォローすることもなく、むしろ邪険に扱ってしまった。


 中学のときのわたしは、可愛くて成績もよくて人当たりもいい――そんな、完璧な優等生であることがなにより大事だと思っていた。だから、柚希のような妹がいるのは、なんというか……。真っ白なシャツの隅に、墨汁を垂らされたような気分だった。これさえなければ、一点の汚れもない完璧な存在でいられるのにという思いは常にわたしの中にあって、それで柚希にきついことを言ってしまうことがままあったのだ。

 あのときのわたしは、自分のしていることがどんなに傲慢かわかっていなかった。そのしっぺ返しは、病院の前で柚希と別れてから数十分後に訪れた。


     *


 タイムセール中の雑貨屋さんでアクセサリーを品定めしている最中、ケータイが鳴った。着信相手は母さんで、たぶんおばあちゃんの様子がどうだったか訊きたくて電話してきたんだろうなぐらいの軽い気持ちで電話に出た。


「もしもし、柚香? い、いまどこにいるの?」

「武広の雑貨屋さんだけど……なに、どうしたの?」


 母さんの声は震えていた。普通の状態ではないことはすぐにわかった。


「い、いまね、青山文具店ていうところから電話があったんだけど。ゆ、柚希が、あの、万引きしたって……」


 頭が真っ白になった。柚希が万引き? そんなバカな。あいつは不器用だけど、そんなことをするようなやつじゃないのに。

 動揺する母さんに、わたしがいまから柚希を迎えに行くと伝えて、電話を切った。そのあとすぐに柚希のケータイにかける。呼び出し音が長く響いたあと、やっと出た声は、柚希とは似ても似つかない、年配の男性のものだった。


「もしもし、川口柚香さんですか? こちら、青山文具店といいますがね」

「あ、はい……。えっと、妹は?」

「すみません、いま妹さん、動揺してて電話に出られるような状態じゃなくてね。もう、ご両親から聞いてます?」

「はい。……妹が迷惑をかけて本当にすみません。あの、両親は出張中なので、いまからわたしが向かいます」


 青山文具店の場所を聞き、通話を終えた。

 歩きだしながらも、頭の中は激しく混乱してなにがなんだかわからなかった。だけど、一つだけ確かなことがあった。

 それは、柚希が万引きをしてしまったのは、わたしに原因があるということ。

 柚希はずっと胸のうちにストレスを溜めていて、それが今日、万引きという形で爆発してしまったのだ。その引き金は、まず間違いなく、さっきのわたしとのやりとり……。


 わたしは、柚希のストレスを軽減することができた。柚希がわたしへのコンプレックスで悩んでいるのなら、なにか言葉をかけてフォローすることができた。なのに、それをしなかった。それどころか、止めを刺すように、お前のせいで迷惑してるとまで言った。柚希がどう思っているかなんて考えもせず、ただ自分の都合だけで暴言を吐いてしまった。


 柚希が万引きをしたのはわたしのせいだ。わたしは妹を万引き犯にしてしまったのだ。

 人ごみを抜けながら、わたしの心の中にゆっくりとその事実が浸透していった。

 でも、じゃあ、わたしはいったい柚希になんて言えばいいの? ごめんなさいって謝ればいい? それとも、あんたは悪くない、悪いのはわたしだよって、優しい言葉でもかければいい?

 そんなこと言えない。散々追いつめておいて、いまさら……。


 交差点の赤信号で足を止める。いらいらと腿をつつきながら、青に変わるのを待った。

 信号待ちをしている人は、他にも何人かいた。その中にいた小学生ぐらいの男の子と、それよりももう少し上の、坊主頭の男の会話が、耳に入ってきた。


「どうせすぐ負けるよ。やる気ねえもん、倉橋中」

「おいおい。キャプテンの俺にそんなこと言うなよ」


 辛辣な言葉を吐く小学生に、坊主頭は苦笑いでそう返す。

 この坊主頭、年齢はわたしと同じぐらいだろう。髪型と服装で、野球をやっているのだとわかった。

 男の子が言う。


「だって事実でしょ? やる気ないよね、チームメイトみんな」

「まあな……。俺も、どうにかしないととは思ってるんだけど」

「やだなあ。おれ、来年からあんなチームでプレイしなきゃならないなんて。そもそも、練習試合に現地集合ってありえないでしょ」


 男の子が、がっくり肩を落としながらそうこぼすのが見えた。そのあと、少し震えた声で続ける。


「ナオマサとかタカヒロはシニアに行くってさ。あんなだらだらしたチームやだって」

「……そうだよな。いまのままのチームじゃな」

「うん。……あんなチームでやるぐらいだったら、おれ、野球辞めようかな」


 横目で坊主頭の様子を伺う。そいつは、ひどく悲しそうな顔で男の子を見ていた。そのあと、少し間を空けて、うし、と呟く。


「じゃあ、俺が倉橋中の野球部を変えてやる。勇太郎が来年入部したとき、一生懸命野球ができるように」


 え、と男の子が声を上げる。


「マジで言ってるの、それ? いままでいろいろやってきたけど、なにも変わらなかったんでしょ? なにか作戦でもあるの?」

「うん。武広のピッチャーからヒットを打つ」

「はあ? なにそれ? そもそも、すごい球投げるんでしょ、武広のピッチャー。いろんな名門校からもスカウトが来てるって」

「そう。だから、そういうピッチャーからヒットを打てれば、すごい盛り上がるだろ? そしたら、チームの雰囲気もずっと良くなると思うんだ」


 反対側の歩行者信号が点滅し始めた。やった。もう少しで信号待ちから解放される。


「ヒットを打てればって、良次兄ちゃん、バッティング苦手じゃん」

「うん……まあ、見てなって。打ってみせるから」


 車側の信号が黄色になり、赤に変わる。あと少しだ。あと少しで、わたしはここから離れられる。


「本当に? 信じていいの、それ?」

「おう。それで少しでもチームの雰囲気を良くしてやるさ」

「ありがと、良次兄ちゃん。……でも、なんか無理して強がってない?」

「まさか」


 やっと、信号が青に変わる。わたしは早足でその場を離れた。

 それでも、坊主頭が続けて言った言葉は、雑踏の中でもはっきりと耳に飛び込んできた。


「俺たち、兄弟なんだから。弟が困ってたら兄貴が助けるのは当たり前だろ?」


     *


 あのときのわたしにとって、あれ以上に耳が痛くなる言葉はなかった。

 きょうだいなら助け合って当たり前。

 わたしは、その当たり前すらできていなかった。それどころか、悩んでいる妹を更に困らせるようなことばかり言って……。

 なんでこのタイミングでこんな会話を聞かなくちゃならないんだ、なにかの陰謀かとすら思った。あの兄弟から離れられて、わたしは正直、ほっとしていたのだ。

 けど、それもつかの間だった。わたしはすぐにまた、あの兄弟に再会してしまった。


     *


 青山文具店で柚希を迎えたあと、そのまま電車に乗る気にはなれず、国道沿いをあてもなく歩いた。柚希はもちろん、わたしもまだ冷静とは言えない状態で、ごめんとも言えず、大丈夫とも訊けないまま、ただ黙々と歩いていた。

 そんなとき、歩道からフェンスを挟んで隣り合っているちゃちな市民グラウンドで、野球の試合が行われているのが見えた。もしかしたら、という予感があったわたしは、早く立ち去ろうと思ったけど、スポーツ観戦が好きな柚希が足を止めてしまった。そうなると、わたしも立ち止まらざるを得ない。


 フェンス越しに見える試合風景は、ぼろぼろとしか言えないものだった。

 武広中が一方的に倉橋中をぼこぼこにしているだけのワンサイドゲーム。やってられるかという雰囲気の中、一人だけ声を出し続けている人がいた。それが、さっき信号待ちの時にいた「良次兄ちゃん」だと気づくと、思い切りフェンスを蹴飛ばしたくなった。


 ――やっちゃった。なんでよりによって、あいつがいんのよ。

 少し探すと、弟もすぐに見つかった。父兄の並ぶ列から少し離れたところに立って、静かに試合を観戦している。

 お通夜ムードのまま試合は進み、倉橋中の攻撃に移った。順調にツーアウトがとられたあと、バッターボックスに「良次兄ちゃん」が入った。


 三振しろ。わたしは心の中で呪詛の言葉を吐いた。

 なのに、バッターボックスの彼は、必死にボールに喰らいつき、ファールで粘った。そして、それにつれて、だんだんベンチの雰囲気まで変わっていった。やる気のなかった部員たちが声を出し始め、武広ベンチの応援の声が完全に聞こえなくなった。


 まずい。この展開はいけない。そんな焦りが、わたしの中でじわじわと広がっていく。

 グラウンドでは、ボールをカットするだけで大歓声が上がるようになった。その歓声の中には、さっき聞いた、まだ声変わりのしていない高い声も混じっていた。

 弟だ。勇太郎と呼ばれていた、あの弟も、いつの間にか声を出して兄を応援していた。その瞳はきらきらと輝いていて、いじけたような暗い陰りはもうなかった。変わっている。この短時間で、武広中側の空気が。


 わたしはそっと、隣にいる妹に視線を移した。

 思わず目を見開いてしまった。

 柚希は、勇太郎くんとまったく同じ瞳をしていた。期待に輝いた目で、バッターボックスを見つめている。さっきまで、あんなに暗い顔をしていたのに……。


 ピッチャーがボールを投げる。坊主頭のバットは、まともにそれを捉えた。打球は外野まで飛んでいくが、ぎりぎりのところで切れて、ファールになった。いままで以上の大歓声。そんな中で、わたしは思った。

 次で空振りしてくれ。ヒットなんか打つな、と。

 ここで彼が、弟に約束したとおりヒットなんか打ってしまうと、わたしは耐えられない。わたしの中にある価値観やプライドは、根底から覆される。そう直感していた。


 ピッチャーが振りかぶる。バットを振る。ボールに当たる。けど、その打球に勢いはなかった。ショートが出てくる。やった。内野ゴロだ!

 思わず拳を握りかけた瞬間――ショートがボールを弾いた。あ、と思ったときはもう遅い。ショートの送球をファーストが受け取るのと、坊主頭がヘッドスライディングをきめるのはほぼ同時だった。一瞬の静寂のあと、審判は腕を広げ、セーフと宣言した。


 倉橋中のベンチから、地響きのような歓びの声が上がる。その声を受けて、坊主頭は大きなガッツポーズをした。

 その光景に呆然としながらも、わたしは見た。

 歓声が止んだあと、坊主頭が弟に向かって微笑むのを。

 そして、それを受けた弟が、笑顔で親指を立てるのを。


     *


 あのときは本当に、打ちのめされた気分だった。

 話したこともない、当時は名前すら知らなかった嶋くんに、わたしは自分がいかに小さい人間かということを思い知らされたのだ。

 その衝撃は時が過ぎても忘れられず、それと同時に、わたしは自分の周りにいる男子たちに興味が持てなくなった。アタックされると満更でもなかったクラスの男子が急に子どもっぽく見えるようになったし、それどころか、これがあのときの「良次兄ちゃん」だったらなとすら思うようになった。


 衣替えの時期には、もうわたしの腹は決まっていた。

 誰になにを言われようと、倉橋中の彼――「良次兄ちゃん」と同じ高校に行くと。

 倉橋中に通う知り合いに彼の志望校を聞くと(このとき初めて、「嶋良次」というフルネームを知った)、武広か公星で悩んでいるということだったけど、わたしは迷わず公星を選んだ。武広なら二次募集がある。彼が武広を選んだら、わたしは公星を蹴って武広の二次募集を受ければいいだけの話だ。


 反対する両親や先生に適当な理由を説明して丸め込み、いざ、公星に願書を出すという段階になったけど、わたしには一つ懸念事項があった。

 柚希のことだ。

 柚希は、自分のことを知らない人がほとんどの場所でやり直したいからと、武広高校を受験すると言っていた。母さんたちはそれで納得していたけど、わたしには本当の理由がわかっていた。

 柚希も、わたしと同じなのだ。嶋くんと同じ高校に行って、近くで彼を見ていたいのだ。


 武広中と倉橋中の試合を観て、嶋くんに心を動かされたのは柚希も同じだったのだろう。実際、あの日を境に柚希は変わった。いままでは父さんと母さんにも刺々しい態度を取っていたけど、九州から二人が帰ってくるとすぐに頭を下げて謝っていた。そして、いままで見せなかったような明るい表情が出始め、前向きになり、勉強にも熱心になって成績もぐんと伸びた。

 けど、それでも柚希に公星は厳しい。だから武広を選んだのだ。これでもし、嶋くんが公星に届けを出したら、柚希が嶋くんと同じ高校に行ける可能性はほとんどなくなる。


 それを考えると、わたしはなんとも言えない気持ちになった。

 もしも、いつかわたしが嶋くんと付き合いたいとまで思うようになったら、柚希は最大のライバルになる。でも、嶋くんと同じ高校に行けないとなると、柚希はたぶん、相当落ち込むだろう。どっちになればいいと思っているのか、自分でもよくわからなかった。


 そして、志願届けの締め切り翌日。嶋くんが公星に願書を出したことがわかった。

 うれしいという気持ちはもちろんあったけど、手放しによろこぶ気にはなれなかった。柚希が目に見えて落ち込んだからだ。

 ご飯はろくに食べないし、家に帰るとほとんど部屋にこもりきり。明るい表情は遙か彼方に飛んで行ってしまった。

 どうすればいい? わたしはいったい、どうすればいいんだろう?

 妹とどう接していいかわからないわたしに、あの日の嶋くんの言葉が蘇った。


 ――きょうだいなら、助け合って当たり前。

 そうだ。嶋くんはそう言っていた。わたしが憧れた人は、当然のようにそんな台詞を吐いていた。

 受験まで二週間となったある日、わたしはノックもなく柚希の部屋に入ると、唖然とする妹に言った。


「提案なんだけど……高校に入ったら、わたしたち、一日ごとに入れ替わらない?」

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