4月11日 天狗、酒を注ぐ
木造二階建てアパートの一室。平太郎と千里の住むそこで、いつも通りの風景があった。
千里が酒を飲み、平太郎がつまみを作る。そしてそれを傍で見守るのが唐傘化けの傘次郎である。
「兄貴、あっしも何か手伝いやしょうか」
「では、棚から深皿を出してくれるか。そう、それだ」
いつも以上に気を回す傘次郎に、平太郎は苦笑する。
「次郎ちゃん。平太郎は放っておいて、こっちでお酌してちょうだいな」
「しかし兄貴は大怪我を……」
「大丈夫であるぞ、次郎」
昨日の陰陽師との一戦で、平太郎は傷を負った。それだけならば確かに大したことではない。傷の一つや二つなど、妖力があればすぐに治るのだから。
しかし平太郎の体の傷は癒えていなかった。これはつまり、彼に妖力がないか、あってもごく微量だということである。
天狗、琴科平太郎はまたもその身から妖力を失ったのだ。
しかし以前までと違い、完全に失くしてしまった訳ではなく、預けてあるような形であるが。
「次郎ちゃーん、お酒がないわよう」
「さあ、行ってやるのである。
これも持っていてくれ」
平太郎は作っていたつまみを皿に移し、新しい酒と共に傘次郎に渡した。傘次郎は器用に風を起こしてそれらを千里の元へと運んでゆく。
そして千里の胸元には一枚の羽根が提げられている。黒いそれは、平太郎の父、琴科総一郎の形見である羽扇から抜き取ったものであった。そこには、平太郎の天狗としての妖力がなみなみと見てとれる。
平太郎は自らの力を全て千里に預けたのである。
彼の妖怪としての力は、初めて町にきた時と同様か、それよりも低いものだった。風は起こせず、空も跳べない。とても妖怪と呼べるような状態ではない。
しかし彼はこれを自らの意思で決定したのだ。
その時、呼び鈴の音が鳴った。千里が「次郎ちゃん、出てちょうだい」と言う。
千里がそう言うのだから、自分が唐傘化けの姿を晒しても大丈夫な相手なのだろう。誰か家に招いていたのかも知れないと納得し、傘次郎はドアを開けた。
そこにいたのは、芦屋流陰陽師の一人、結界術を得意とする芦屋伊織だった。
「て、敵襲ッ!?
兄貴にトドメでも刺しにきやがったかっ」
素早くリビングまで跳ね戻り、
「姐御ッ! 陰陽師でさぁ!」
と鋭く言った。
しかし数瞬経っても戦闘が始まる気配はなく、平太郎は相変わらずつまみを作り、千里は酒の入ったグラスを傾けている。
「突っ立ってないで座ったらどう?
次郎ちゃん、新しいグラスを出してちょうだい」
「伊織殿。適当に寛いでくれ。
酒は何にするのであるか」
「酒は要らん。
一言、言いに来ただけだ」
一人、臨戦態勢に入っていた傘次郎は困惑する。その姿を見て、千里は面白そうにころころと笑っていた。伊織はリビングまで入ってきて、千里を見て顔をしかめる。そして立ったままの姿勢で鼻をふん、と鳴らした。
「借りは返した。
茶番に付き合うのはこれで最後だからな」
「そう肩肘張らずともよいではないか、"お兄ちゃん" 。
手助け、痛み入るのである」
「もう少し痛めつけてやってもよかったんだぞ、半天狗」
「あら、そんなことしたらおねーさん、怒っちゃおうかしら」
状況を一人飲み込めていないのは傘次郎である。いったい何がどうなっているのか。平太郎が妖力を失くした事と、その日にたまたま陰陽師に襲われたことに何か関連があるとでも言うのだろうか。
狼狽した様子で「こ、こいつぁ一体……」と平太郎に説明を求めた。
「簡単な事よ、次郎ちゃん。
そこの不愛想な陰陽師が、平太郎の疑いを晴らしてくれたのよ」
「ついでに、梨桜殿の術からも結界で守ってくれたのである。
しかし、できれば怪我をする前に術を止めて欲しかった所ではあるがな」
「無傷だと、それこそ怪しまれる。
それに、梨桜の攻撃が思っていたより速かった。
あいつも精進しているようだ。
消し炭になる前に助けてやったんだ、感謝しろ」
平太郎が妖力を再び失くしたとはいえ、疑いの目は残る。力のない状態では、それこそ一撃で滅されてしまうだろう。疑いを晴らすには、妖気がない事を見せるのが一番だった。
千里は平太郎が妖力を失ったことを伊織に伝え、妹である梨桜が昼間に平太郎の妖力を感知したことも告げたのである。その上で、彼女は伊織に平太郎を守るように依頼したのだった。
「ど、どうして陰陽師の野郎が姐御の頼みを聞いてくれるんですかい。
そのまま兄貴を葬り去ってたかも知れねえじゃあねえですかい」
「そうねえ、でも、そんなことしたら後が大変だもの。
おねーさんの大事な本をあげた、これはほんのお礼なのよ」
伊織の眉間に皺が寄る。
年の暮れに平太郎が伊織に渡した一冊の術書。夏に町を襲った役小角の遺したそれを、伊織は受け取り、陰陽師側が保管することになった。
「とーっても貴重なものだもの。
おねーさん、陰陽師のお役に立てて嬉しいわ」
妖しく浮かべる笑みに、伊織は心底苦々しい顔をした。
「どこまで人を操れば気が済む。
いいか、二度と頼みは聞かないぞ」
「さっきも聞いたわ。
それで? 本題を聞こうかしら」
平太郎が新しく作ったつまみをテーブルに並べる。しばらくの沈黙の後、伊織が口を開いた。
「本題だと?」
「ええ、あるんでしょう?
あなたの上のお偉方から言われていることが」
傘次郎が千里と伊織を交互に見る。平太郎はつまみを伊織に勧めたが、やはり「いらない」と言われて少し落ち込んでいた。
「おい、半天狗」
「何であるか」
「一つ聞かせろ。なぜ妖力を捨てた」
なるほど、上層部からの指令はそれか。何かしら別の意図がないかと調査するのも、陰陽師が妖怪を相手取るのに必要な作業である。妖力を失くしたふりをして人間を謀る事も十二分に考えられる。事実、平太郎の妖力は千里が預かっており、千里の動向一つでまたそれを取り戻すことができるのは容易に分かる。
千里は笑みを崩さず、平太郎がそれに答えるのを待った。きっと、面白いものが見られるからである。
「無論、友の為である」
「……何だと?」
「昨晩、梨桜殿にも言われたように、人が妖気に当たるのは危険である。
特に、幼子なれば尚のことだ。私は渉殿や町の皆に迷惑を掛けたくはない。
力を取り戻した私では、面だけでは到底妖気を抑えられないのである」
「それで、妖力を捨てたのか」
「捨てた訳ではないのである。
千里に預けた。力無くば出来ぬこともある。
有事の際には千里を介して力を振るうのである」
「人間を襲わない証拠にはならんな」
「ならば、見ていればよかろう。
私は町の平和を守る、その為に在るのである」
伊織は小さく息を吐き、一度目を閉じた。
「面倒な奴だ」
平太郎は呵々と笑う。そしてグラスに冷酒を注ぎ、ことりとテーブルに置いた。それを見て、千里は伊織に向かって言った。
「さ、一緒に飲みましょう。
人間を守るために力を捨てた妖怪がいる、なんて上には報告できないものねえ。
飲まなければやっていられないでしょう」
「訂正しよう、本当に面倒な奴らだ。
上には要観察と言っておいてやる」
伊織は乱暴にテーブルにつき、グラスの酒を一気に煽った。千里は「いい飲みっぷりね」ところころ笑った。
平太郎もぐいと酒を煽り、さつま揚げを食べながら伊織に言った。
「困ればいつでも呼ぶのである。
困っている者に手を差し伸べるのが天狗仮面であるからな」
「お前がその原因なんだがな。
……梨桜には悪い事をしたな」
「なに、いずれ話せる時がくるのである」
人間と妖怪。やはりどこかで別の種族である彼らが歩み寄れる日は来るのだろうか。
平太郎には分からない。しかし、それでよいのである。いつの日も、歴史は先人たちの積み重ねで出来上がっていく。今の繰り返しが、いずれ歴史となるのである。
平太郎にできることは、ただ自らの思う事を為していくことだけである。
それが、天狗仮面として生きる彼の決意であった。
妖怪と、力のない妖怪と、陰陽師。
三人がぎこちなく同じ卓を囲む夜は、ただ静かに更けていくのだった。




