4月10日 天狗、赤子に会う
気候も随分と穏やかになった四月。それでもまだ少し寒い風が吹くこともあるが、天狗仮面・琴科平太郎は時節関係なくいつものジャージを着用し、唐草模様のマントをなびかせて町を歩いていた。
昼の暖かな陽射しに、買い物に出かける主婦層も、学校帰りの学生達も、道行く人の顔はみなどこか穏やかである。
「うむ、今日も町は平和である」
「それも兄貴の尽力の賜物でさあ」
顔を覆う天狗の面の下で満足そうに微笑む彼に対して、傘次郎は番傘の姿のままでこそりと呟いた。
「否であるぞ、次郎よ。
私が町のためを思う気持ちに間違いも揺らぎもないが、
それでも町をよくしているのはやはり町の人々だ」
相も変わらず兄貴らしい言い分ですぜ、と心の内に留める傘次郎。彼らがうろな町の総合病院の前を通りがかった時、平太郎は見知った顔をそこに見つけ声をかけた。
「渉殿! 司殿!」
そこにいたのは、前年の暮れに籍を入れた清水夫妻と、夫妻にそれぞれ抱きかかえられて眠っている二人の赤ん坊だった。
赤子の姿を認めると、平太郎は歩み寄っていた足をびくりと止め、眠っていることを認めると数瞬の後にゆっくりと清水夫妻の元へと近寄った。
「どうした、天狗くん」
「相変わらず不審者だな」
夫妻にそれぞれ言葉をかけられ、平太郎はからりと笑う。
「いやなに、この風体であろう。赤子には泣かれる事が多くてな。
それよりも、祝いの言葉を述べさせていただくのである。
無事に生まれたのであるな」
「ああ、数日前にね。
産後も順調で今日退院さ」
新たな命を抱く夫妻に対し、平太郎はうむ、とゆっくりと頷いて尊敬の念を送った。平太郎は天狗である。人ならざるその身では決して得ることの出来ない経験を、目の前の二人は体感しているのである。
「これより先、苦労することも多かろう。
しかし案ずるなかれ。渉殿と司殿ならば大丈夫である。
もしも困ったならば私を呼ぶのである。力になろう」
ゆるやかに、夫の抱いていた赤子が目を開ける。そして両親の傍らにいる天狗面の存在を感じ取り途端に顔をしかめ、大泣きを始めた。
夫は慌て、何が原因だろうかと思案する。お腹が空いたか、風が肌寒いかとあれこれ気を回すが、妻は一言、「大丈夫、大丈夫」と子の名前を呼んだ。穏やかに再び眠りにつく赤子を慈愛の眼で見つめてから、夫に一言、
「渉も父親なんだから、もっとしっかりしてくれよ」
と微笑んだ。
「司さんには敵わないなあ」
「うむ、母は強し、である」
「お前の姿を見てうちの子が泣いた事、きっと覚えているからな」
冗談めかして言い放たれたその台詞は、半ば本気ではないだろうかと思わせるには充分だった。たじろいだ平太郎は居住い悪く後ずさり、
「そ、それでは私はこれにて失礼するのである!
家族揃って息災に過ごされることを祈っているのであるぞ!」
と逃げるように言い放ってその場を去った。残された夫妻は顔を見合わせて笑い合い、その幸せそうな雰囲気は春の空に高く吸い込まれていく。道行く人々も、彼らの持つ雰囲気に穏やかなものを感じるのだった。
道の脇でその一連の出来事を見ていたただ一人を除いて――。
○ ○ ○
その日の晩、平太郎は家で夕食を食べながら神妙な顔をしていた。その日のメニューである豚肉とこんにゃくの炒め物に文句でもあるのかと千里に詰め寄られ、そうではないのだとかぶりを振った。
「……渉殿の子に会った」
「あら、清水センセの?
また面白くなりそうねえ」
くすくすと笑う千里に、平太郎は溜息をつく。
「大変な時期であるのだ。あまりちょっかいをかけてはいかん」
「まだ何もしていないわ」
「これから先もしてはいかんのである。
我ら妖怪、人に近寄り過ぎるなといつも言うのは千里であろう」
「おねーさんはいいの」
言っても聞かぬかと苦笑し、それでもやはり渉殿に害為す事はせぬようにと念押しした。平太郎は天狗であり、清水渉は人間ではあるが、平太郎は彼のことを友人だと思っているのだから。友を困らせることはしたくないという気持ちに種族の隔たりなどないのである。
平太郎は清水夫妻との最初の出会いを思い出していた。
妻である清水司、旧姓、梅原司。彼女との最初の邂逅は昨年の六月だった。失った妖力を得るために、平太郎は人々からの感謝や尊敬が欲しかった。今となってはそれらが必要なかったと知っているが、当時はそれを信じてあれこれと行動を起こしていた。
町への周知をする中で、偶然出くわしたのが彼女だった。
その夫である清水渉との出会いは、もう少し前に遡る。彼は昨年の四月にこのうろな町に赴任してきた国語科教師であり、うろな中学で今も教鞭をとっている。
彼がこの町にやってきてすぐの頃、平太郎は町をあちこち見回しながら歩く彼を見つけて声をかけたのだ。最初こそ彼は驚いていたが、平太郎に敵意がない事が分かるとすぐに打ち解け、以来、町で出会えば軽く話をするような仲になったのである。
その夫妻も、今や人の親である。
よくよく考えてみれば、あの夫妻にはこの一年であまりにも多くの出来事が起こっていると思い至り、何もそこまで生き急ぐことはないのではなかろうかと考えがよぎったものの、己の友人であることに変わりはないと思い直した。
「私は、やはり渉殿を困らせることはしたくないのである。
千里よ、一つ頼みがある。次郎も聞いてくれるか」
「楽しい事かしら?」
「へい、何でやんしょ」
千里は口の端をにい、と釣り上げて平太郎が続けた言葉に耳を傾けた。彼の言葉に傘次郎は意外そうな顔をしたが、さらに続く説得を聞いて「兄貴がそう仰るってんなら……」と納得した。
千里は唇を笑みの形に保ったまま、「もちろん引き受けるわ」と上唇を舐めた。
○ ○ ○
夜になり、平太郎はいつも通り町の見回りに出ると言った。いつもと唯一違うのは、傘次郎を持って行かないという点である。
「兄貴、本当に大丈夫ですかい」
「もちろんである。私は天狗仮面なのだから」
「次郎ちゃんは今日は家にいなさいな」
心配する傘次郎を置いて、平太郎は月が霞む春の夜に出掛けて行った。
町の様子は、何も変わらない。しかし夜になればまだ多少寒さはある。天狗である平太郎には寒暖差など気にもならぬが、それでも今夜の風は少し冷たく感じるのだ。
住宅街を抜け、病院の前を通り、中央公園にさしかかる。思えばここでケイドロ大会や夏祭りをしたことがまるで昨日の事のようである。
歩みを止めることなく、平太郎は一時間ほど時間をかけてうろな町の東部に位置する浜辺まで進んだ。ちょうどその辺りは平太郎が初めて梅原司に会った場所だった。
「懐かしいものであるな」
夜空にかかる月を見上げ、一人思い出に浸る。
しかし穏やかな時間はそう長く続かなかった。平太郎は背後から何かが風を裂いて飛んでくる気配を察知し、身を翻してそれを避けた。炎を纏って飛来したそれは地面に刺さり、燻ったように炎が消える。
「何奴っ!」
街灯に照らされた夜の向こう側から、ゆらりと一人の少女が現れた。
左手には八角の棍、右手には数枚の人形。その目は鋭く平太郎を見据えながらも、どこか困惑と怯えの混じったものだった。
彼女は一度きつく目を閉じた。そして再びその眼を開いた時には、静かな決意だけが灯っていた。
「芦屋流陰陽師……芦屋梨桜。
あなたを、滅します」
春の夜風は未だ冷たく、しかしどよめく気配を孕んでいる。
朧月に照らされた天狗と陰陽師は、静かに対峙するのだった。




