12月16日 仙狸、居酒屋に行く
12月16日 夜
千里は着物を着ていた。いつものラフなジーンズにセーターを合わせた格好ではなく、藤色の落ち着いた色合いの着物に身を包んで、手には風呂敷を提げている。包まれたものの形から、傍目にはそれが一升瓶であることは容易に見て取れるだろう。彼女は日本酒を持っていた。
今、部屋には天狗はいない。夕刻に帰ってきて共に夕食をとった後、再度「見回りに出るのである」と出かけてしまった。もちろん、それはいつものことではあるけれど、今日はどこか居住まいが悪いような印象でもあった。
「町で色々言われて、バツが悪かったのかしらねえ」
くすくすと笑いながら、自分も身支度を整える。
「で、あっしは今日は姐御のお供ですかい?」
「そうよ。よろしくね、次郎ちゃん」
玄関先に置かれている一本の番傘。唐傘化けである彼はいつもであれば平太郎と共に町の見回りへと出向いている。しかし、今日は千里に頼まれ供をすることになったのだ。
「で、今日はどちらに行くんですかい?」
「まずはお酒を飲みに行きましょう。
会いたい人がいるのよ。さ、行きましょう」
行く先は商店街から少しはずれたところにある、小さな店だった。
○ ○ ○
―――なかなか良い店を見つけた気がするぞ、これは。
彼は出された小鉢をつつきながらそう思った。和の雰囲気が漂う、静かな居酒屋。店名は何と書いてあったかな。まあいいや、帰りにでも確認して帰ろう。
こう静かだと落ち着かない気もするけれど、不思議と不快な感じはしない。今度、鹿島さんにも教えてあげようかな。秋原さんを誘ってみるのも……いやいや、何を考えてるんだ。
ゆっくりと頭を振りながら、グラスに注がれた透明な液体を一口含む。透き通るように滑らかな味の中にほのかに香る柑橘系の香り。余計なことをすべて洗い流してくれるような気さえする。
店内には、彼一人だけ。カウンターにでも座ろうと思ったが、店主が座敷を勧めるので、せっかくだからと使っている。この町の町長である彼は一つ悩みを抱えていた。
至極、個人的な悩みである。市政の悩みであれば誰かに話すことは解決を導く良手段である。しかし、今日の悩みはそうもいかない。
「天狗、かあ」
誰もいないのを再度見まわした上で、ぽつりと呟く。
数日前に、彼は天狗と共に夜のうろな町を跳んだ。夢でも見たのだろうと思って忘れることにしようとしたが、町長としての前任者である自らの祖父が「町には天狗がいる」といつだったか話していたことを思い出したのだ。
―――いや、別にいいんだけどね。天狗がいたって。でも、あそこまでありありと体験しちゃうと、やっぱりちょっと戸惑う部分はあるんだよなあ。
そう悩んでいると、からりからりと戸が開き彼しかいなかった店にどうやら客が来たようだと分かった。店主が二言三言言葉を交わしているが、座敷からでは入り口近くの様子は分からない。
そして彼のところへやってきたのは、藤色の浴衣を着たうっすらと微笑を湛える女性だった。
○ ○ ○
「さ、着いたわ。次郎ちゃんはくれぐれもしゃべらないようにね」
「へい。しっかしこの店、よくできておりやすねえ」
「ふふ、そうでしょう。今夜限りのお店。面白いでしょう」
イタズラを仕掛けて喜ぶ子どものように、千里はくすくす笑った。すでに、中に目的の人物がいることは分かっていた。
店に入り、手に提げていた日本酒を包みを解いて店主に渡す。それは、平太郎が買ってきたもので退魔の力が存分に込められたものであった。妖怪にとってはかなり危険な部類に入るものである。
店主が少し眉を寄せる。
「話には聞いていたが、随分物騒なシロモンですな」
「触れないように気をつけてなさいな。
たちどころに消えてしまうわ。それもまた、面白いけれど」
「勘弁してください。ではお預かりしますので。
奥の座敷に見えられてますよ」
「ええ、ありがとう」
そういって、千里は町長の座る座敷へと向かった。術でつくったまやかしの店。用があるのは町長のみとはいえ、料理も酒も幻覚ではない。店主が作ったれっきとした実物である。ただし、店主もまた流れ者の妖怪ではあるが。
座敷にいた町長は少し驚いたฺ顔を見せる。
「こんばんは。町長さん。
御一緒してもよろしいかしら?」
「えっと、あの……」
驚くのも無理はない。急な来客の上に、突拍子も無い話である。千里はすかさず本題を告げる。
「天狗のことでお悩みでしょう?
それについてお話がしたいと思ってきたの」
町長の返事を待たずにするりと対面に座り、赤い番傘を隣に置いた。
「単刀直入にお願いするわ。
天狗の一件はどうかお忘れになっていただけません?」
町長の目が丸くなる。しかしお構い無しに千里は続けた。
「もちろん天狗も私もこの町に住むわ。これからも人知れず。
だけど、アナタは妖怪を知ってしまった。理解をしてしまった」
すらりと千里の目が細くなる。
「決して交わってはいけない領域はあるの。
うちの天狗がその辺りを踏み越えてしまったことはお詫びするわ」
「も、もちろん僕は口外するつもりも言いふらすつもりもありませんよ?
ただ、ちょっと理解が追い付かなかったというか……」
「ええ、もちろん疑ってなんかいないわ。
それでも、私たちは妖怪で、あなた達は人間なのよ」
町長がぐっと息を呑む。そこへ、店主が飲み物を運んできた。千里が用意してきた酒である。おそるおそる店主がグラスを置き、一礼して去った。
「こ、これは?」
「おねーさんからのおごりよ。
さっきまでのお酒も美味しかったでしょうけれど、これも格別」
退魔の術の込められた、大吟醸。
「今のあなたは、少し天狗の妖気にあてられているの。
いわば、清めの杯といったところかしら」
「い、いただきます……」
有無を言わせない千里の雰囲気に、なにやらうすら寒いものを感じたのか、町長は静かに酒の入ったグラスを口元へと運んだ。
さきほどまで飲んでいたものを透明と評するならば、これは白だ。それも、一点の曇りもないほどの。まばゆいまでの。
その純白を飲み下しながら、彼の意識はそこで途絶えた。
○ ○ ○
穏やかに眠っている町長を後に、千里は店を出る。起きた時には、この店のことも天狗と空を跳んだこともきれいに忘れているだろう。退魔の術のおかげで、今後は彼が怪異と近づくこともない。
「気は済んだか」
店先の路地で、不意に声をかけられる。鋭い声。
「あら、ごきげんよう。早かったのね。
もう少し後で来ると思っていたのだけれど」
声の主は芦屋伊織。町にいる陰陽師である。妖怪どうしのいざこざならば知らず、人間に影響を与えるような真似を彼が放っておくはずがない。
「おねーさんは一言謝りたかっただけよ。
そちらとしても、彼が妖怪から遠ざかるのだから好都合でしょう?」
「あの半天狗といい、お前といい……。
この町の妖怪は訳がわからん」
「いいじゃないの。悪いようにはしないのだから。
それとも、おねーさんを相手にするのかしら?」
目を細める。しかし、何事もないかのように芦屋伊織は鼻を鳴らした。
「遊びたいならいつでも相手をしてやる。
今回の件はそっちから仕組んだんだろうが」
「ふふ、そうねえ。あなたが言うように、ちゃんと指名の妖怪を使ったわよ。
では、後のことはお任せするわね」
「ふん、何をするか知ったうえで膳立てするとはな」
「あら。ケンカをしたいならいつでも買うわよ。
おねーさん、面白いことは大好きだもの」
「町に危険を持ち込めば、いつでも相手になってやる」
しばらく沈黙を交わした後、お互いにそれ以上は話すことはないと視線を逸らした。そして千里は夜の街へ、伊織はまやかしの居酒屋へと入っていった。
妖怪に関する記憶を町長から消す。そのために千里は陰陽師に連絡をとったのだ。町に余計なことは持ち込ませまいとする陰陽師と利害が一致した結果である。芦屋伊織と、その妹である梨桜が用意した酒を町長に飲ませることで祓いを行い、眠らせた町長を家まで運ぶ。
表向きには千里は何も関わっていないことになってはいる。町の妖怪たちに知れれば、また不信感を煽ることになってしまう。
後は、あの陰陽師がなんとかうまくするだろう。自分の役割は、この町の妖怪たちを取りまとめることだ。下手に町の人間に存在を多く知られてしまうのも都合が悪い。
しばらく歩いたところで、千里は少し伸びをした。
「ご苦労様、次郎ちゃん。もうしゃべっていいわよ」
「……息が詰まりそうでございやした。
姉御、どうしてあっしを連れてきたんですかい?」
「平太郎にそれとなく釘をさすのはあなたの仕事よ。
こうやって後始末に駆け回るおねーさんの姿を見てもらおうと思って」
「へい、肝に銘じやす」
やはり、一番敵に回してはいけないのはこのお方だ。そう傘次郎は深く実感するのだった。
藤色の着物がゆっくりと闇に溶けるように、千里と傘次郎は夜の街を歩くのだった。
朝起きた町長はすっきりした目覚めで仕事に行かれたことでしょう。
これで芦屋兄妹の仕掛けたお酒も回収!
寺町さんの陰陽師、芦屋伊織と、シュウさんより町長をお借りしました。
ちなみに、幻術で作られた居酒屋で町長が最初に呑んでいたのは大吟醸、しぼり酒です。三衣が今もっとも呑みたいお酒です。




