12月14日 天狗、決着をつける
12月14日 早朝
いまだ、町はしんと静まり返っている。冬の朝は静かで、何者もその静寂を冒してはならぬような雰囲気がある。平太郎はゆっくりと空から降り立ち、木造二階建てアパートの自室の扉を、やはり静かに開けた。外気よりも、一段と冷えた風が、ひやりと平太郎の唐草模様のマントを揺らした。不自然なほどに冷たい妖気。天狗としての妖力を以てしなければ、触れただけで凍るようなそれを、平太郎は涼やかに受け流した。
「いま帰ったのである」
「わたしも、ついさっき戻ったところよ」
部屋には、一人の妖怪。なんでもないような顔をして部屋の中に冷たい妖気を張り巡らせるいたずら好きの妖怪の姿がそこにはあった。
その妖怪。千里はくすくすと妖しい笑みを浮かべながら、天狗の内から溢れている妖力を値踏みするように眺めまわす。
「以前のあなたなら、部屋に入った瞬間に瞬間冷凍。
粉微塵だったわ。妖力を取り戻したのねえ、平太郎」
言葉を発することなく、平太郎はしっかりとうなずいた。
「今日で三日目。約束の日よ。
さあ、答えを聞かせてちょうだいな」
千里はゆらりと立ち上がり、平太郎の前へと進み出る。一歩、一歩と平太郎に近づくごとに冷たい妖気はしんと凍る。辺りを白銀に染めながら彼女が正面まで来たとき、仮面越しに真っ直ぐに千里の目を見据えて平太郎は口を開いた。
「町をとるか、天狗をとるか。そう問うたな。千里よ」
「ええ。どちらにするのかしら」
「何も迷うことはない。どちらもとらせていただこう」
そう言うと、平太郎は心の内で燃える意思を示すかのように自らの妖気を強く解き放った。千里の冷気を押し返し、室内ではばたばたとカーテンが揺れる。凍り漬けになった部屋が再び息を吹き返した。
「あら、おかしなことを言うじゃないの。
妖力が戻っているのなら、町などどうでも良いと思っているのではないのかしら?」
「否である、皆目きっぱりと、だ。微塵も町を捨てる気持ちはない。
私は天狗、琴科平太郎であり、また同時にうろな天狗、天狗仮面でもあるのだ。
千里よ。私は心から礼を言う」
ぴたりと、千里から発せられる冷気が止んだ。平太郎はこれを好機とみて攻勢をかける。
「確かに、千里が言ったように、町を捨て驕り高ぶれば妖力は戻ったであろう。
傲慢であればこその天狗。それは事実に相違ない。しかし―――」
平太郎の奥で、静かに燃える妖気。天狗仮面、琴科平太郎の信念はもう二度と折れることはない。なぜならば、もう二度と折らぬと決めたからだ。
「自尊と傲慢は表裏一体。私は今まで、心のどこかで
一人では何も出来ぬと考えていたのだ」
うっすらと笑みを浮かべたまま、千里は先を続けるように目で促す。
「今の私は違う。
私の内に、一点の曇りもなく己を信ずる心がある。
出来るか、出来ないかは問題ではない。
やると決めたゆえに、私は天狗仮面であると決めたのだ」
今にして思えば、いつかのケイドロ大会の時にもささやかにではあるが己を肯定できたのだろう。妖力をなくしたことを恥じ、周りに対してどこまでも虚勢を張り続けていたかつての平太郎。
外から頼りにされることで、そこに自分の居場所を見つけようとしていたのではないだろうか。それでは自分を保てようはずもない。感情を糧にするのが妖怪である。気の持ちようで、その存在は大きく変じるのだ。
平太郎は真っ直ぐに千里を見つめた。
「私が過去を乗り越え、前に進めるよう計らってくれたのであるな。
術書を皇殿に託したのも、町の妖怪たちに箝口令を敷いたのも、
己の内に答えはあると伝えてくれていたのであろう」
千里はうっすらと笑みを浮かべたまま何も言わない。ただゆっくりと千里の放つ妖気がその冷たさを増していく。笑みを崩さぬままにその口が開かれた。
「わがままねえ、平太郎は。
でも、嫌いじゃないわ」
「姉御、姉御!ならなんで気当たりがどんどん強くなるんですかい!?
あっし、そろそろ凍っちまいそうなんでさぁ!」
平太郎の手に握られたままの番傘が焦ったように口をひらくが、まるで聞いていないかのように千里は言葉を続ける。
「でも。力のない正義は、ただの妄言。
何事かを成し遂げたいならば、力が必要」
冷気はまだ強くなる。
「さあ、見せてちょうだい。
あなたの力。あなたの覚悟。
あなたの言う、正義とやらを」
瞬間、解き放たれたように吹き荒れる千里の妖気。それはまるで吹雪であり、極限にまで込められた妖気は殴りつけるように平太郎に襲い掛かる。
傘次郎を構え、平太郎も負けじとその身に、その手の得物に妖気を纏わせる。平太郎から溢れ出るのは裂帛の妖気。冷たく軋む全てを遍く照らす、決意の激情が込められていた。
互いの妖気は拮抗し、ぶつかり合った力は見かけだけの静けさを見せる。平太郎と傘次郎はそれを充分に理解しており、少しでも気を抜けば荒れ狂う妖気の奔流に呑まれてしまうことに何の疑いも持たなかった。気を抜けば、やられる。全身全霊で以てそう感じていたのである。
平太郎も傘次郎も、全力で妖気を放出し続けている。天狗面の奥で額に汗が滲む平太郎とは対照的に、千里の顔はとても涼やかなものだった。
「あ、兄貴……こりゃあ随分と分が悪いんじゃありやせんかい?」
「そのようであるな……しかし、私は私を以てして退かぬと決めたのだ」
千里の口の端がさも楽しそうに上がる。
「どうしたの?もうおしまい?。
遊びはおしまいにしてそのお面を取ったらどうかしら」
「そ、その通りですぜ兄貴ぃ。総一郎との大旦那と仕合った時の力を今一度……」
「甘く見られたものであるな。私は天狗であり、同時に天狗仮面でもある。
それを貫き通すためには、この面を被ったまま千里に勝つべきなのだ!」
千里からの圧力が増し、平太郎はこらえるように姿勢を低く落とした。そしてなおも続ける。
「私は負けるつもりは微塵もない。私が天狗仮面であるという自負ある限り!」
「ご立派ねえ。でも、この如何ともし難い力の差はどうするつもり?」
千里がさらに妖気を強める。力の均衡がついに崩れた。それまで微塵も動いていなかった辺りの空気がぴしりと軋んだように音をたてて再び室内に吹雪が吹き荒れる。先ほどまでの風が穏やかだったと思えるほどの豪風。蓄積された妖気が暴れまわっているようでもあり、どこか寂し気なその極寒の世界は千里の心の内を示しているかのようでもあった。
平太郎は吠えた。体の底から絞り出すように。己の全てを出し切るかのように。
「力の差など、埋めて見せるッ!」
―――もう、千里を孤独にはせぬ。
私は誓った。いつまでも供にあろうと。
信心には、信頼で応えるのが天狗である。
天狗としての力を、そして矜持を取り戻した今、その想いはより強く、より深くなった。
想いの丈を力に変えるのが妖怪だと言うのならば、今の私は誰にも負けない。負けるはずがない。
「これまでも、そしてこれからもッ!
私は供にあろう!永久にだッ!」
氷漬けになり、氷塊吹き荒れる部屋の中でそう叫ぶと平太郎はこれで最後と力を振り絞った。どこまでも力が湧いてくる気さえする。その心意気が手にも伝わったのか、傘次郎は傘のままでぶるりと一つ身震いをした。
「次郎よッ!これで決めるのである!」
「合点!最大風速で参りやしょう!」
最早、口上も名乗りも必要ない。ただただ想いの丈をその風に込めて。
「ただ見よ!
これが天狗であり、天狗仮面であり、そして私であるぞッ!」
熱風が巻き起こり、それは吹雪を溶かすように取り込みながら部屋を満たしていく。
凍り付いていた空間は熱を帯び、熔けた妖気はちりちりと輝きながら掻き消えていった。
○ ○ ○
風がやみ、平太郎の目の前には変わらずうっすらと笑みを湛えた千里が立っていた。その笑みはどこか優しさを備えているようでもあった。
千里は何も言わなかった。ただゆっくりと、その身を平太郎に預け、平太郎はそっと千里の肩に手を回す。
「―――おかえりなさい、平太郎」
ただ一言、「うむ」と頷く。
平太郎の決意の熱を纏った妖力が部屋を満たす。千里の冷たく張りつめた心を溶かすように。しんと冷える孤独な朝を暖めるように。
○ ○ ○
しばしの静寂が破られたのは、傘次郎の遠慮がちな咳払いによってであった。慌てて千里に回していた手を引っ込めた平太郎と対照的に、千里は平太郎にゆっくりとしなだれかかりながら不満を口にした。
「あら、もう少しいいじゃない平太郎。
次郎ちゃんも意地悪しないでほしいのだけれど」
「すいやせん。置いてけぼりだったもんで……
えーっと、こりゃあ、解決したと見てよろしいんですかい?」
「そうねえ。ちゃあんと平太郎に妖力が戻ったもの。
おねーさんとしては大円団といったところかしらね」
嬉しくて仕方がないといった表情をつくり、くすくすと笑みを浮かべる千里に対して、どこか子供のようだと微笑ましく思いながら平太郎は彼女の頭をゆっくりと撫でた。
この無邪気にはしゃいでいる千里と、常々の冷徹にも見える千里はいったいどちらが本当の顔なのだろうか。いや、きっとどちらも千里の持つ顔なのだ。彼女もまた、平太郎が力を失くしてしまったことにどこかで責任を感じていたのかも知れない。
「千里よ。そして次郎よ。今まで迷惑をかけた。
しかし、これからもどうか力を貸して欲しい。
私はこの町を守る天狗であるのだから」
「合点承知でさあ。あっし自身もどんどん強くなっていきやすぜ!」
「そうねえ。平太郎が楽しませてくれるなら、おねーさんはそれでじゅうぶん。
ねえ、ところで平太郎?」
「む。どうしたのであるか」
「さっき吹雪の中で言っていたこと、もう一度言ってくれないかしら。
風がうるさくてちっとも聞こえなかったのだもの」
少し拗ねたように口を尖らせながら平太郎を見上げて言う。対して平太郎は慌てたように顔を背けた。
「ち、力の差など埋めてみせると言ったのだ。
今は無理かもしれぬが、先は長いのだ。いつか必ず……」
「違うわ、そのあと」
「そ、その後か。
うむ、不思議なほどに妖力が溢れてきたのでな。
これで決めると言ったのだ」
「おしいおしい。
その前が聞きたいの」
「そ、そこまで分かっているのならば聞こえているのではないか!
ええい、次郎も何とか言ってやってくれ!」
「いやあ、そういうのはあっし抜きでやっておくんなせえ。
見てるこっちが恥ずかしいですぜ」
○ ○ ○
三日にわたる天狗と仙狸の大喧嘩は、これで幕を閉じることになる。といっても、いつものように仙狸が天狗をからかって遊んでいたことに変わりはないのだけれど。
「ええい、出かけるぞ千里よ!今日も町を見回るのである!」
「ふふ、誤魔化されちゃった。おねーさん悲しいわ」
天狗、琴科平太郎はこのうろな町を守ると決めたただ一介の天狗である。これからも多くの苦難が彼を待ち受けているに違いない。
時には警察に世話になることもあるかもしれない。
時には町を脅かす者を人知れず退治しているかもしれない。
「しかし今日は町の皆に騒動を起こした事を詫びにいかねばなるまい。
厳蔵殿の所にも礼を持っていかねばな」
「兄貴。商店街にも参りやしょう。あとは警察署ですかねえ」
近所の奥様方には変わらず冷ややかな目で見られ、中学教師に目の敵にされるだろう。整体院の院長と相撲をとっているかもしれない。町ゆく子らに、道徳を説いているかもしれない。
様々な繋がりが今の平太郎を支え、またかけがえのないものになっているのだ。
「しかし、妖怪連中はともかく、町の人にはなんと言えばよいか……。
千里よ。何か妙案はあるだろうか」
「痴話喧嘩、ということにしておきましょう。
あながち間違ってもいないのだもの」
「尺の大きい痴話喧嘩でございやしたねえ」
そしてこれからも変わらず二人と、そして一本の傘はこの町に住み、この町の一員として暮らしていくことだろう。
町の人たちにとって、彼はいつまでも天狗面をつけた不審な青年である。
「さ、兄貴。参りやしょう。新しい唐草紋の外套はここに」
「本当に、平太郎といると退屈しないわ。
ふふ、どうしてかしらね」
平太郎にとっては、それは何よりも喜ばしいことだ。
なぜならば―――
「決まっているのである。
私が天狗仮面であるからだ!」
青い二本線が入ったジャージを着て、唐草模様のマントを揺らし。
赤い番傘を携えた天狗面の男はうろなの町を今日も往く。
大きな筋書きはこれにておしまい。
あとは後日談として皆様のところにご挨拶に参りますよー。
たぶん、そこで全部野放しになっていたネタを拾いきれると思うのですが。
「あの話題、あるよね!?」
なんて思う方はこっそりメッセージいただければ、内容の相談と共にお返事をお返しいたします。




