12月13日 天狗、面を取る
12月13日 夜
黒い靄がひとところに集まり、人型を成してゆく。
平太郎の2倍はあろうかという体躯、威風堂々とした雰囲気で高々と天を衝く鼻。
腕組みをしているその人物は、目の前に平太郎を確認すると、ふん、と一つ鼻を鳴らして大きく息を吸い込んだ。
「ち、父上……」
「総一郎の旦那……」
「鬼でも蛇でもあらぬ。我は、我こそは天狗である!
琴科が大天狗、琴科総一郎、見参である!」
琴科平太郎の父である大天狗、琴科総一郎の姿がそこにはあった。予想もしていなかった人物を目の前にして呆ける一人と一本に向けて、総一郎の一喝が放たれた。
「喝ッッ!!」
巻き起こる暴風。まともに喝を受けた平太郎と傘次郎は弾き飛ばされて後ろの木々へと衝突した。
「情けないぞ!これしきの気迫など平然と弾かぬか!
稽古を疎かにしておったのではあるまいなこの馬鹿息子が!」
不敵な笑みを浮かべ、腕を組んだままでそう、総一郎は言った。
傘次郎を杖代わりに起き上がり、平太郎は2、3度かぶりを振ってから父と同じように腕を組み、堂々と立って見せた。呵々と笑い、ばさりと天狗の翼を広げて見せる。
「はっは!父上こそ耄碌したのではありませんかな。
この平太郎、この通り平然としておりますぞ!」
そう言って、二人で高らかに天狗笑いをした。夕闇に、2人の天狗の笑い声がこだまする。
○ ○ ○
辺りには風が渦巻き、時に鈍い打突音がこだまし、それでも渦中の二人の天狗は高笑いをしながら稽古を続けている。いや、はたから見れば稽古かどうかも怪しいほどに二人の動きは実戦さながらであり、さらに言えば平太郎の顔にはいくつもの青あざが浮かんでいた。
「おうおう、そろそろ降参してはどうだ馬鹿息子よ!
膝が笑っておるぞ!」
父である天狗、琴科総一郎が愉快そうに肩をふるわせて笑う。対する息子、平太郎も満身創痍ながら楽しくて仕方がないというように口の端を引き上げ、精一杯の虚栄を張る。
「なんの、微塵も効いてはおりませぬな、父上!」
「あっしはそろそろ限界でさぁ……兄貴、まだやるんですかい?」
平太郎に握られている番傘、傘次郎も等しくぼろぼろであり、傘の骨は数本折れてしまっていた。平太郎は穏やかに笑うと傘次郎を地面に突き立て、ばさりと天狗の羽をふるわせた。
胸の中には様々な想いがある。一つ一つを声にして伝えるなど、野暮なことだ。天狗の稽古は、天狗の勝負は。負けたと言わなければ負けではないのだ。
まだ、父に伝えたいことがある。まだ、伝えたいものは山ほど残っている。剣を交え、拳を打ち合う。それが、幼い頃より行われてきた二人の天狗の意思の交換であった。
「まだまだである。私は負けぬ」穏やかに、傘次郎から手を離した。
再び打ち交わされる拳。舞う枝葉は変わらず二人を中心に渦巻いていた。
○ ○ ○
陽が完全に沈んでしまう頃、父、総一郎は風をゆるめた。
「馬鹿息子よ」低く、平太郎を呼ぶ。
「一撃だ。全てをこめて一撃を放ってみせよ」
片羽は折れ、もはや満身創痍の平太郎は大きく息をしながらそれでも視線は常に父を見据えていた。
越えるべき者。越えなければならない壁。気を落ち着かせて、平太郎はゆっくりと目を閉じる。
父は言った。天狗らしく生きよ、と。
天狗らしさとは何か。時にそれは傲慢さであり、また力の誇示である。
しかし、はたしてそれだけが天狗らしさであろうか。
千里は言った。傲慢であれ。と。
天狗の妖力を回復させるためには町を捨てよ、と。
平太郎は、自らの心の内をゆっくりと探るように、僅かに残された天狗的力を全身に張り巡らせた。町のために全てをかけて駆け回り、町の皆と繋いできた絆。そして300年前に千里と供にあろうとした覚悟。どちらも、平太郎から捨て去れるようなものではない。
平太郎の胸にわだかまっていたもの。それはかつて父を救えなかった後悔であり、一人では町を守り切れなかった不甲斐なさであり、人狼である友を救えなかったことへの贖罪であった。それらが、平太郎が天狗としての妖力を取り戻すことを邪魔していたのだ。
しかし、父と今こうして天狗としての稽古に励み、かつての天狗としての感覚を取り戻すうちに、平太郎が抱え込むものは削ぎ落とされ、かつての天狗としての心持ちが静かにそこにはあった。揺らぐことのない、天狗としての心。
そこに行き着いた刹那、平太郎はハッとする。そうとも。
天狗仮面であることを捨て去る必要は微塵もなかったのだ。
力を、天狗としての妖力を取り戻せていなかった唯一の原因。ただ一つのその原因は、平太郎が自らを信じていなかったこと。ひたすら前を向き、自らの出来る最大限を以てして、自らが成すと決めたことを成す。傲慢や驕りに近くして、また対極にあるとも言える感情。
『自尊心』
―――心の底から思え。町を守れるか守れないかではないのだ。守るのだ。それ以外に選択肢はあろうはずもない。天狗仮面だから町を守るのではない。私が町を守る故に、私は天狗仮面なのだ。
私は、天狗であり、また天狗仮面であるのだ。
すべては、矛盾などせぬ。なんと単純で、なんと力強いことか。
「天狗仮面・琴科平太郎。参るッ!」
そう言い切った平太郎の心に後悔は微塵もなかった。すべてを受け入れ、ただ前へと進むことを決意した一介の天狗の姿がそこにはあった。
大きくうねる風を集め、静かに傘次郎を引き抜く。己の体の内からは、堰を切ったように天狗としての妖力が溢れだしていた。その妖力は傘次郎に伝わり、その身を硬く変じさせる。
真紅に燃える平太郎の固い決意を映したような、朱塗りの木剣。
高く跳びあがり、構えている父の額へと全霊をこめて木剣を打ち下ろす。大天狗、琴科総一郎は一切の身動きをせず、その切っ先を真っ直ぐに見つめ続けた。
○ ○ ○
静寂。
舞い上がった落ち葉がかさかさと降り積もり、最後の一枚が地に着いた時、静かに平太郎は木剣を収めた。
父は変わらず威風堂々と立ち、今は静かに目を閉じている。
「……見事な一撃であった」
低く、それでいて穏やかな声。総一郎は続けた。
「琴科の名を継ぐに相応しい剣閃であった。
本来であれば山を継ぐが天狗の流儀であるのだが、この山はすでに夜叉の守りがある。何も遺してはやれぬが、努めて、天狗らしく生きよ。よいな」
「私は、守るべき山は持ちませぬが、守るべき町がございます。
父から授かりし琴科の流儀も胸に。ただ……」
何事かと怪訝な表情をする総一郎に、平太郎は何かを言いかけ、すぐにかぶりを振って「いえ、なんでもありませぬ、父上」と言った。
「お前も、もう一人前の天狗であろう。気弱になるものではない」
総一郎は息子の頭へと手を置く。
「私の負けだ。平太郎。良い天狗の顔になった。
お前は、この私に勝ったのだ」
平太郎の言葉が詰まる。平太郎が呑み込んだ言葉。父に、名を呼んで欲しいという願いを、総一郎は静かに汲み取った。目頭が熱くなり、胸にさらなる想いが込み上げる。
俯き、肩を震わせる平太郎に総一郎は頭に手を置いたままなお続ける。天狗の流儀では、負けたと思わなければ負けではない。つまりそれは、負けたと思えば明確な負けなのである。
「平太郎。子は親の背を越えてゆくものだ。
この父に勝ったというのに、俯く者があるか。
胸を張れ。前を見てしっかと歩くのだ」
「父上……」
朱塗りの傘次郎をきつく握りしめ、父の言いつけどおりに顔をあげようとする平太郎の頭上で、大きく、大きく息を吸う音が聴こえた。
大気を震わせるほどの、大天狗、琴科総一郎の一喝。至近距離でまともにくらった平太郎は脳天から爪先、羽の先にいたるまで激しく痺れ、やっとその痺れがおさまるころには、辺りには誰も残っておらず、六道辻の陣に使われていた108の石群も、跡形もなく消え去っていた。
「いってしまわれたのですね、父上……」
まるで夢であったかと思うほど辺りの闇の中には何もなく、ただしんと広がる夜があるばかりだった。自らの内に感覚を向け、妖気の奔流に父の遺した意思をしっかりと感じた。
「うむ。私は、天狗である。
同時に、天狗仮面である。
一切の迷いは、ない」
自らを縛り付けていた己の負の感情を受け入れ前を向いた平太郎は、今はっきりと、自分が天狗であることを理解したのだった。
「あのう……兄貴ぃ」
悦に入っている平太郎に、木剣姿のままの傘次郎が遠慮がちに声をかけた。
「どうにもこの姿は落ち着かねえんですが、そろそろ元に戻してもらえやせんかい?
妖力が大きすぎて体中がぴりぴりとするんでさぁ」
「おお!あいすまぬ!
そうだ。次郎よ、礼を言う。
私と次郎、二人の力で父に、己に打ち克つことができた。
今、元に……」
「兄貴?」
「どうすれば戻るのであろうか。
なにぶん、こういったことは初めてである……」
「そりゃあねえですぜ兄貴!ずっとこのままですかい!?」
「い、いや待て次郎。なんとかするのである」
妖気を調節したり、地面に立ててみたりとあれこれ行い、傘次郎が元の姿に戻れたのはそれから数時間後の話だった。
○ ○ ○
天狗としての妖力を取り戻し、平太郎はうろなの町の夜空を駆けた。千里と相対する前に、どうしても寄っておかなければならない場所がある。
すべるように夜を抜け、平太郎は結界を張り誰にも見られないように注意を払いながら目的の場所までたどり着いた。
ベランダでくつろいでいるように見える人物めがけて、驚かせることになるが致し方なしと平太郎は滑空する。
「夜分の急な訪問、大変かたじけないのである」
「うおわぁ!」
背後から急に声をかけられれば、誰しもこのような反応になるに違いない。しかも夜もそれなりに更けた我が家のベランダであればなおさらだ。
「え、ちょ、て、天狗さん!?」
「いかにも、我が名は天狗仮面。常日頃から世話になっているのである」
「あわ、え、あの、ここ、僕の家なんですが……」
「無礼は承知の上である。しかし、どうしても町長殿に話をする必要があったのだ」
「は、はぁ……そういうことなら……いい、のかな?
え、いいのか?どうなんだろう……」
未だ目を白黒させている町長に対して、どこまでも泰然とした態度で平太郎は彼の前に膝をついた。
「天狗仮面、琴科平太郎である。見ての通り、私は天狗だ。
それはもう、きっぱりと、だ」
「え、と。はい、そうですね。今日はらしい恰好に羽までありますもんね。
あ、でも仮面はそのままなんですね……」
つい、と顔を上げて、平太郎は玉鋼で出来たその面をゆっくりと外した。妖気のコントロールも、今の平太郎であれば造作もないことだった。
面の下の素顔を妖怪以外に見せるのは、めったにない事だ。
「私は、この町を守る天狗である。それゆえ、町の長である町長殿に挨拶に参った次第。
今後とも、どうか町を守らせていただきたい」
「え、あ、はい。
あの、でも今までも守ってくれてませんでしたか?」
「少しばかり、事情が変わったのでな。無論、今までもこれからも私は町をまもる天狗仮面である。
先ほど名乗った私の名は、町長殿の胸に留めていただけると有難い」
こくりと頷いた町長の手を取り、「え?」と困惑する町長と共に平太郎は宙へと跳んだ。
眼下に見下ろすは、寝静まったうろなの町。
「ここが、私が守る町である。そして、町長殿が発展させてきた町である。
私は、この町が好きなのだ。ただ、それだけなのである」
「ここが……僕の町……」
少ししてから、再び町長宅のベランダへと降り立つ頃には、町長も落ち着いた態度であった。
「なんだか、すごい体験をした気がするなあ」
「喜んでもらえてなにより。
なに、ちょっとした夢とでも思っておいていただければよいのである。」
「確かに現実味はないですねー、ハハハ」
「しかし、天狗仮面がこの町にいることは、真実であり、揺るがぬ事実である。
これからも、よろしく頼むのである」
平太郎が差し出した手を、町長がしっかりと握る。
満足そうに頷いて、平太郎は天狗笑いをしながら夜空へと再び舞い上がった。
町長は、しばらくその場で夜空に響く高笑いをどこかふわりとした愉快な気持ちで聞いていたのだった。
ついに話は終盤へ。
シュウさんの町長をお借りいたしました。
町長の前で天狗面を取るのは、ケイドロ大会の辺りで決めてあれこれ考えてきたシーンです。
あと、一喝して最後に顔を合わせずに去る総一郎も。
書けてよかった……




