11月3日 仙狸、酒を振る舞う
11月3日 夕方
猫塚千里は歩いていた。ショッピングモールに働きにいく時のようなラフな格好ではなく、髪を結い上げて藤色の和服を着ており、その手には一升瓶を包んだ風呂敷が提げられていた。
「千里のねーさん、今日はどちらに?」
歩く千里の後ろを付従うようについてくる鼠顔の男。彼は旧鼠という妖怪であり、人間の姿をとっていてもどこか鼠の雰囲気を漂わせている。名を松と言った。千里がうろな町に住まう妖怪達のまとめ役を引き受けてから、彼女の目付け役を頼むと千里を良く思わない者から依頼されたのである。
「厳蔵さんの所よ。夜には商店街のクトゥルフで馬頭に会うわ。
厳蔵さんの所では少し話すことがあるから、あなたは外で待ってなさいな」
「ねーさん、そいつぁ……」「いいから」
その話の内容が大切なんだがなあ、と松は思うが立場上は付き人として傍にいる以上、あまり深く立ち入る事も出来ない。しぶしぶ、松はそれを了承した。
○ ○ ○
松を家の前で待たせ、妖怪一顔が広いと言われる鬼、鬼ヶ島厳蔵を訪ねる。「来たか!上がってくれい!」と奥から声が響き、千里は玄関で履き物を脱いだ。
「あら?」
三和土に、厳蔵のものではない靴が置いてあるのを見る。どうやら他に客人がいるらしい。どう見ても厳蔵のものとは思えない小さなサイズの靴の隣に、自らの履き物を置いた。
居間に入ると、厳蔵と共に一人の初老の男性が座っているのが見えた。
「おや、お久しぶりですね」
優しく声をかけてくる男性に、千里もまたにこやかに返事を返す。柔和な外見に似つかわしい雰囲気をもったこの男性の事を、千里は知っていた。
「こちらから挨拶に行こうと思っていたのに。先を越されちゃったわね。
今は何と名乗っているの?ハマナーンはさすがに古いかしら?」
「あれは昔の名前ですので、忘れてください。
別段深い意味はありませんよ。貴女ならば存じているでしょう?」
千里がかつての男の名を呟く。『ハマナーン』。ラテン語で『人間』を意味するその言葉を彼は名乗っていた。それが真の名前なのか、それとも何かの意味を込めていたものなのか。
「ええ。もちろんよ。他に、ルチアというのもあったわね」
「ふふ、本当にお人が悪い。しかし最近はよくその名前で呼ばれますね…
戻しましょうか、いや、止めておきましょう」
数百年後、次に会った時には黒髪の少女の姿をしていた。その際、彼は自らをルチアと名乗っており、「随分と古めかしく、高貴な名前だこと」と千里は思っていた。彼が人外であることは当時既に知っていたが、その正体までは分からなかったし、詮索する気もなかった。現在でもそうである。
男性が穏やかに笑い、千里もまたくすくすと笑う。そのやりとりを見て、家主である厳蔵は二人に声をかけた。
「なんじゃ!おぬしら既知の仲じゃったのか!」
「そうですね。幾度かお会いしたことが」
「まさかこの町で会うとは思っていなかったけれど。ねえ?皇さん」
「名前、知っているではないですか。相変わらず人が悪いですね」
「いいじゃない。私は人ではないのだから。
それに、おねーさんは何でも知っているものでしょう?」
初老の男性、皇悠夜と千里は昔の顔なじみであった。あれこれと積もる話もあるが、今日は昔話をしに来た訳ではない。千里は卓の向かいに座り、居住まいを正して厳蔵に向かって一つ礼をした。
「鬼ヶ島厳蔵様。今日はご挨拶に参りました。
この町の妖怪を取り纏めます仙狸、姓を猫塚、名を千里と申します。
どうぞ、よしなに」
しずしずと頭を下げて礼をする千里を見て、厳蔵の動きが一瞬止まる。
「はっは!まったく似合わぬのう!」数瞬後に、腹を抱えて笑いだした。
「貴女のそのような態度には初めてお目にかかりますね」皇も目を丸くする。
「あら、二人共ひどいじゃないの」千里が少し頬をふくらませる。
千里は持ってきた風呂敷包みを指し「せっかく良いものを持ってきたのに」と言った。
彼女が風呂敷に包んで持ってきたものは酒であった。鬼ヶ島厳蔵は無類の酒好きであり、千里もまた酒が好きである。手土産にと持ってきたそれを風呂敷から取り出し、机にことりと置いた。
「日本酒か!」「ええ、とっておきよ。皇さんは飲めるのかしら?」「嗜む程度でしたら」
半分程すでに空いている事を謝りながら「美味しかったから是非一緒にと思ったの」と言い、『海江田の奇跡』とかかれたラベルを指でつつき、瓶を傾けてみせた。とぷん、と酒が鳴る。
厳蔵が持ってきたグラスに注がれた、うっすらと山吹色をしている液体。くい、とグラスを傾けてそれを飲み干す。
「こ、これは!」「ほう……」
「ね?おいしいでしょう。おねーさんのとっておき」
それは、水羽と名乗る水神が加護を与えたものであった。千里と水羽は古くからの友人でもあるのだ。
「神酒、ですか」「しかし、元も相当良くなければ、加護を得たとてこの味わいにはならんのう!」
皇も厳蔵も良い反応を示していた。それを見て千里は二人に気づかれないように、にやりと口の端を上げる。
「少しだけしかないけれど、楽しく飲みましょう」
ぽむ、と手を叩き、厳蔵と皇のグラスに再び酒を注いでいく。自らのグラスにも注ぎ、3人で朗らかに、しかし厳蔵だけは喧しく酒を交わした。
○ ○ ○
一升瓶の残りが3分の1程になった所で、千里は二人に言った。
「皇さん、手に入れて欲しい本があるのだけれど」一つの紙切れをすっと差し出す。
「何でしょう?厳蔵さんの方が伝手は広いように思えますが」
「あら、餅は餅屋と言うじゃない。それに、おねーさんのお酒飲んだでしょう?」
「やれやれ。相変わらずの天衣無縫ぶり。いいでしょう。探しておきます」皇はそれを受け取って、中身を確認してぴくりと眉を寄せた後、懐にしまった。
厳蔵が一升瓶から手を放しぎくりとする。
「すると何か!儂にも無理難題を押し付けるつもりか千里よ!」
「いやねえ。そんなに警戒しなくてもいいじゃないの。
もちろん、聞いてくれるのならお願い事はたくさんあるけれど」
一呼吸置いてから、千里は「そうまで言ってくれるなら、一つだけ」と指をぴんと立てた。
「手出し口出し、一切無用よ。それだけ」
「なんじゃ!お主、また悪巧みしておるのか!」
「ええ、そんな所」
水神・水羽の依代である少女、雪姫に手を出さないこと。町の妖怪にそういった旨の触れは回っているが、目を盗んで力を手に入れようとする者がいるかも知れない。そういった考えを持つものに釘を刺すために千里は挨拶まわりと称して町を巡っているが、表立って雪姫の名を口に出すことはしなかった。
変な考えを持つものでなければ、十中八九“千里のやることに”という解釈をするだろう。悪心を持たぬものには、そのように解釈をさせ、何事か企んでいるものには牽制をかける。それが千里の狙いだった。
「よろしくね、お二人とも。おねーさん、そろそろお暇するわ」
静かに立ち上がり、ちらりと皇を見る。
「少し、姿を借りるわね」
二言三言呟き、ひゅるりと体を回せば、そこには皇と瓜二つの姿があった。
「変化の術はずいぶん久しぶりだけれど、大丈夫かしらね」声は元のままである。それに気づいた千里は喉に手を当てて一つ咳き込んでから、
「これでどうですかな?」と声色までも真似て見せた。
「おお!瓜二つじゃ!それで何をするつもりなんじゃ!?」
「表で待っている子がいるのだけれど、遊んであげようと思って」
まったく、性格の悪い。どうせそのまま放って帰るのだろうと厳蔵は思ったが、先ほどお願いされた手前、何も言えなかった。事実、酒は美味かったのだから。
「それじゃ皇さん、本が手に入ったら取りに行くわね」
「あなたも今は皇さんでしょうに。分かりました、ご連絡しますので」
ぺこりと頭を下げて、皇の姿をした千里はその場を去った。玄関先で松にぺこりと頭を下げ、千里は笑いを堪えながらうろなの町へと消えていく。
○ ○ ○
「まったく、あの悪戯好きにも困ったものじゃのう!」
「ええ、本当に。しかし楽しそうで何よりです。
一時はとてもつまらなさそうにしていましたからねえ」
「お主、何か知っておるのか?」
「ええまあ、少々」曖昧に答える皇に、それ以上は話さないという意思を感じ、厳蔵は黙り込む。
しばらくすると、鼠顔の男がおずおずと玄関から顔を覗かせた。
「あのう、千里ねーさん?そろそろクトゥルフに行かねえと、
馬頭のオジキの御機嫌が……あれ?」
千里の履き物がない。これはおかしいと焦って居間へと飛び込む松が見たのは、先ほど帰ったはずの皇と、済まなさそうな顔をしている厳蔵の二人だけだった。
「松よ……お前も大変じゃなあ。まあ、飲め」グラスに注いだ海江田の奇跡を哀れみの視線と共に松に寄越す。一口飲み「鬼ヶ島の大旦那の酒は格別ですが、あの、千里のねーさんは……」と辺りを見回した。
「松さん、先ほど私が帰りませんでしたか?」皇が声をかける。
「え、ええ……」
「それが千里さんです。先にクトゥルフに行くと伝言を受けました」「ええ!?」
こうしちゃいられねえと叫び、松はどたばたと商店街に向けて走って行った。グラスの酒を律儀に飲み干してから。
「今度、松の所に美味い酒でも持っていってやるかの。
しかし、いつの間に言伝など受けたのじゃ」
「先ほどの紙片に書かれてありました。用意のいいことです」
皇は溜息をつき、厳蔵はがしがしと頭をかいた。
このすぐ後、クトゥルフに慌ててたどり着いた松は馬頭に「御付が離れてどうする愚か者!」と叱責されることになるが、それはまた別の話である。
零崎虚識さんより鬼ヶ島厳蔵を。
蓮城さんより皇悠夜を。
影響力が大きすぎる三人のちょっとした集まりでした。
うろな三人議会とでも名付けようかしらん。




