前編
どこかにありそうな話だけど、書きたくなったから書いてしまった。そんな話です。
ただ少しほっこりしてもらえたら嬉しいです。
ーーあの子の婚約者、ライセル様の弟なんですって。
ーーライセル様と親戚になれるなんて羨ましい!
ーーでもそれって……あの夜会にいても亡霊のようで声を聞いた者がいないって噂の引きこもりの次男?
ーーそうよ。フォルツェン伯爵家といえば、ご当主は騎士団副団長、ご長男のライセル様は近衛騎士を勤める騎士家系なのに。
ーー家柄がよくてもそんな人嫌よね。
なによ、影でコソコソ噂して! 折角の社交界デビューなのに、彼の悪口ばかり。彼の事を全然知らないくせに!
ーーエリー、やはり婚約を破棄すべきだと思うのだが。
ーーお父様! 突然何を言うんですか!? まさか夜会での噂話に影響されたなんて言いませんよね?
ーーしかし、エリーは一人娘。彼には婿養子になってもらわねばならない。そんな彼があのようなままでは……。
ーーお父様の分からず屋!! お父様なんて嫌いですわ!
ーー待ちなさい、エリー!
お父様まで彼の事をそんな風に見ているなんて。私が彼との婚約を願ったのに。彼のことが大好きだと知っているくせに。
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門を潜ってすぐに飛び込んでくるのはレンガの敷き詰められた赤い道と両脇に多くの木が生えた緑の庭、道の先には色とりどりの花々に囲まれた赤い屋根の大きな屋敷がそびえ立つ。
私はこの家が大好きだ。王都のように屋敷がギッシリと並んでいる訳ではなく、王都から少し離れた位置にあるここは自然の中にいる気分になれる。
いつものように屋敷の中に入らず、そのまま庭へと進んでいく。十年間も変わらず続ける行動ゆえ、今では侍女が土の上を歩けるようにヒールのない靴を用意してくれる。淑女としてはいけない事だけど、ドレスの中で見えることはないから気にしない。
私の目指す先には、木陰の下で椅子に座って大きなキャンパスに向き合う男性がいた。黙々と手を動かす彼の邪魔にならぬように静かに近づく。幼い頃、駆け寄ってモデルにしていた鳥達が逃げてしまい機嫌を損ねた事があったのだ。今日は咲いたばかりのマーガレットを描いているようだった。
椅子に座った彼の隣にそのまま座る。普通の貴族令嬢は絶対にしない。だってドレスが汚れてしまうもの。でもここが私にとっては特等席なのだ。
「今日は来るのが早いな」
キャンパスに向き合ったまま声がかかる。そう、ここは私の屋敷ではなくフォルツェン伯爵の屋敷。ちなみに私はエレイン・ハルベルト……ハルベルト伯爵家の一人娘だ。
そして黙々と絵を描いている櫛を通していないボサボサの茶髪に覇気のない表情、白いシャツと黒のズボンという到底貴族には見えない彼、フォルツェン伯爵家次男ロベルトは私の二歳上の婚約者である。
「お父様と喧嘩したの。顔が見たくないから飛び出して来たわ!」
「……」
「お父様ったら私の気持ちを全然理解してくれないんですもの」
「……」
「そうそう! 昨日は社交界デビューしてきたのよ。初めての夜会……素敵だったわぁ! それからねーー」
一言も返さない彼に一方的に話していく。それが私達のスタイルだ。幼い頃は返事をしてとごねたりもしたけれど、今では返事がなくても聞いてくれているとわかるから、そんな事は言わない。
ロベルトとは父親同士が友人ということで私が5歳、彼が7歳の時に会った。お転婆だった私は、10歳の彼の兄ライセルと共に走り回って遊んでいたけれど、ロベルトは一人黙って絵を描いていた。
『ねぇねぇ! 一緒にあっち行こう!』
『……』
『ねぇってばあ!』
『今、空を描いてるから駄目』
『おそらぁ?』
彼の絵を覗きこめば、そこには本物と変わらない青空が描かれていた。いや、淡いタッチの絵は本物よりも幻想的で、私は一気に引き込まれた。それから彼の隣は私の特等席になったのだ。
兄のライセルと違い、身なりは気にせずボサボサの茶髪にボーッと何処かを見つめる翠色の瞳、白い肌、細身な身体、どこか不健康そうな彼はいつも必要なことしか話さない。話しかけても頷かない。興味のある事しかやらないし、集中したら私は蚊帳の外。
それでも私を邪険に扱う事はないし、一言も話さないなんて事もない。動物や植物を愛し、その愛したもの達を絵に描く。そんな優しい心の彼にどんどん私は惹かれていった。そしてお父様にお願いしたのだ、彼のお嫁さんになりたいと。
両家の親は可愛らしい少女のお願いを聞き入れてくれた。お互いに嫌になればやめればいい、今は初恋に夢見ればいいと、口約束で婚約を認めてくれたのだ。
「そうそうあとねーー」
「それでエリーのお父様とは何故喧嘩したんだ」
「そ、それは……」
描き終えたのかペンを置いた彼が突然返した言葉は、最初に話して誤魔化した話への問いだった。かなり前に話した内容であるが、一番話したかったのはその内容だとバレてしまっていたようだ。
別に今のロベルトに不満はない。ロベルトの両親は諦めて放っておくことにしたようだが、私は絵を描いている、したい事をしている彼が好きだったから。でも、今のままの彼に家を任せられないというお父様の気持ちもわかるのだ。私だって、彼を悪く言うような噂を聞くのは嫌だし、もう少し貴族としての振る舞いをしてくれたらお父様は安心するのだろうということもわかっている。
だから少しでも彼を助けられるようにと領地の経営についての勉強などもしてきたし、外ではお転婆な私を隠して、お淑やかな貴族令嬢を演じてきた。それで彼の側にいられるならと努力してきたつもりだ。でも彼の事を言われてしまえば私にできることはない。最も簡単な方法は……
「ロブは……私と夜会に出てくれたりする?」
その私の一言に怪訝そうな顔をするロベルトを見て、やっぱりそうよねと思う。彼は人と話すのが嫌いだ。身なりを整え、探り合いのような貴族の会話をする夜会なんてもっと嫌だろう。
周りの人が彼に好印象を持ってくれるだけでも、かなり違ってくるのだけど。やっと夜会に出られる年齢となった私と一緒なら、ほとんどの夜会に出席しない彼も出てくれるのではと思ったけれど無理のようだ。
「無理ならいいの! 気にしないで!」
「何故?」
「え?」
「何故そんなことを?」
「それは……」
お父様が婚約破棄を考えているから、なんて言いたくない! しかも昨日、見てしまったのだ。お父様の机の上に私の婚約者候補の男性の資料があるのを……お父様は本気かもしれない。本気で婚約破棄をしようとしているのだわ。
「エリー」
「……」
彼が名前を呼ぶのは私だけ。彼に呼ばれるのが特別な関係を思わせ、私の喜びとなっていた。そんな彼が優しく私を呼び話を促す。ほらね、やっぱり……彼はこんなに優しい人。ちゃんと話を聞いてくれる。
「お父様が」
「……」
「婚約を破棄するって」
「……」
足元の草を見つめながら決死の告白をしたというのに、彼は無言で立ち上がるとそのまま屋敷へ帰って行った。
「ロブ? えっ……ちょっとロブ待って!」
大きな庭の木の下にはマーガレットが描かれたキャンパスと色とりどりのペン、彼のいない椅子、そして固まったままの私だけがぽつんといた。




