第四章
「それで……その条件を呑んだんですか?」
放課後の保健室。深山沙織は、緩んでしまった包帯を保健の先生に巻き直してもらいながら、少しばかり呆れたように紫苑を見上げた。
「硬式テニスで前衛後衛を完全に分けることなんて、できませんよ。軟式テニスじゃないんだから。球のスピードについていけるわけないじゃないですか」
「……そう、だよね……」
「でも、どうして前衛しかやりたくないんでしょうね。後衛で動き回るのが嫌いなんですかね? 走るのが得意じゃないとか?」
「そんな理由じゃないと思うけど……。それに、夏川さん、たぶんテニスが大好きだよ。動きたくないとか、そんなことじゃないと思う」
「……そうですか」
包帯を巻き直すと、紫苑と沙織はそろって保健室をあとにした。そして、その足でテニスコートを目指す。
「あ、部長。副部長も、お疲れ様です!」
「今日は沙織先輩も参加されるんですね」
「沙織先輩、腕の調子はどうですか?」
コートの整備をしていた、一年生の宮本えりか、椎名彩葉、羽生モモが、その手を止めて紫苑と沙織を迎えてくれた。特に沙織は、通院などで忙しく、部活に顔を出すのは実に一週間ぶりのことだった。
「腕は順調に回復しているよ。ありがとう」
笑顔で応えながら、沙織の目はコートの端でストレッチをしている部員に向いている。
遠目に見る彼女は、一言で表すなら華奢だ。もともと細身なのだろうが、黒のTシャツに黒のパンツ姿がそれをさらに引き立てていた。だが、彼女はただ細いだけでないことも、すぐにわかった。
『あの腕……いい筋肉してるわ』
沙織は、ストレッチを続ける彼女へと歩み寄ると、
「こんにちは、夏川さん」
と挨拶をした。
「私は深山沙織。夏川さんと同じ二年生だよ。インターハイまでの間、よろしくね」
「……夏川瑞希。よろしく」
随分と簡潔的な自己紹介だなと、沙織は思った。中学生の時には全国大会で優勝した経歴もある彼女のテニスの腕前は確かなのだろうが、この態度はスポーツマンとしてはどうなのだろうか。紫苑は、試合での実績以上に仲間同士のコミュニケーションを大事にするタイプだ。その紫苑を中心とする部員たちもまた、仲間意識の強い面々が集まっている。……一部を除いては。
『夏川瑞希。彼女は、キーマンか。それとも……』
「よおし! 自己紹介が済んだなら、早速練習を始めようか。今日もラリーからいくよ!」
紫苑の言葉に、部員たちはそれぞれ位置に着いた。沙織はベンチで部員たちの部活動を見守る。
紫苑と瑞希は同じベースラインに、一年生たちは逆側のベースラインに立つ。そして、紫苑が音頭をとってラリーが始まった。
「よおし、次はボレーね」
ラリーを続けながら、紫苑の号令で部員たちはすぐさまボレーの体勢をとる。瑞希もその流れに従った。それも十分ぐらい続いた頃、
「はい、サーブ&レシーブ! 私と夏川さんがサーブ、一年生たちはレシーブに回って」
と紫苑が言った。紫苑のフラットサーブを、えりかがなんとかラケットに当てる。しかし、当てるだけで精一杯だった。紫苑の放った球は、えりかの持つラケットのフレームに当たって、あらぬ方向へと弾かれた。
「えりか、いいよ! よく当てたね」
紫苑の言葉に、えりかははにかみながらレシーブを待つ列の後ろに回る。次のレシーバーは彩葉だ。
「え……」
サーブを打とうと構えた瑞希のフォームに、紫苑は言葉を失った。だが、驚いたのはそれだけではない。
「え……?」
反対側のコートでは、レシーブの構えのまま、彩葉が微動だにできずにいた。球は、回転しながらネットすれすれに落ちると、ほとんどバウンドすることもなく、彩葉の足元に転がってその動きを止めた。
「……スピン? スライス? 何、今の……」
ベンチから声が上がる。身を乗り出すようにして、沙織が状況把握に努めていた。
「……つ、続けるよ」
紫苑の言葉に、茫然としていた彩葉も我を取り戻したようで、レシーバーを後続のモモと交代する。
紫苑のフラットサーブは速くて重い。えりか同様に、モモもなんとかラケットに当てたものの、握力の弱いモモは、球の重みに耐え切れずにラケットを弾き飛ばされてしまった。
「いいよ、モモ! 初めてラケットに当てたね。さ、ラケットを拾って。次は弾かれないようにね」
そして、またも瑞希のサーブが回ってきた。迎えるえりかに明らかに緊張が走る。えりかは、サービスラインの手前で構えた。
それを見届けた瑞希が右手で球を放り、打つ。
球は、激しく回転しながら、サービスラインを舐めるようにして跳ね、えりかの脛当たり抜けて茂みの中へと消えて行った。
「……はい、休憩! みんな、ちょっと休憩しよう」
みなが唖然とする中、真っ先に落ち着きを取り戻した紫苑が号令をかける。一年生たちは互いに顔を見合わせ、沙織は紫苑と瑞希を交互に見つめていた。
コートを出て行こうとする瑞希に、紫苑が声をかける。その表情は、沙織がこれまでに見たこともないような、真剣なものだった。
「夏川さん、あのフォームはだめ。これ以上続けたら、危険だよ」
そう言った紫苑の言葉が、沙織には聞こえてきた。瑞希はどういう表情をしているのだろうか。そう思って彼女を見たが、その表情からは何も読み取れない。まるで、そのことに対して一切の関心がないかのように、ただ無表情で紫苑の言葉に耳を傾けていたのだった。




