山雨来たらんとして風楼に満つ
あれから伊織は、学校でうっかりミスを多発させることはなくなった。彼の曾祖父は一週間ほどの入院と検査を経て、何事もなければそのまま退院出来るとのことだった。
そのことを報告するべく休み明けの部室を訪れた千鶴を、桐斗がひらひらと手を振り出迎えた。隣の椅子を引いて座面をペタペタ叩くのを見、誘われるまま腰を下ろす。
「今日は赤猫先輩だけなんですね」
「おーじはさっきクラスの女子に呼び出されてたから、そのうち不機嫌全開で来るよ」
どういう意味だろうと首を傾げていると、突然、がらりと音を立てて扉が開かれた。思わず肩が跳ね、うるさい心臓を押さえながら千鶴は扉のほうを見る。
「ほらね?」
言った通りでしょう、と得意げな桐斗の言葉通り、見るからに不機嫌だとわかる顔の桜司がそこにいた。桜司は千鶴に気付くと気まずそうに目を逸らし、桐斗の正面の席に腰を下ろした。
「先輩、どうしたんですか……?」
「………………何でもない」
明らかに何でもない様子ではないが、言いたくないならと口を噤む。会ってなかった日数はほんの数日なのに、何ヶ月も会えなかったような錯覚に陥ってしまい、元々どう会話をしていたのかも思い出せない。
「まーた告白されたんでしょー」
が、桐斗はそんな千鶴の遠慮を大きく飛び越えて、にんまり笑って楽しげに言った。そして、その言葉が正解であると、桜司の苦々しい表情が物語っている。
「うるさい」
「ほんと、君ってば人間嫌いだよね」
ふて腐れている桜司を見て、桐斗はけらけらと笑う。
桜司は決して自分から口にはしないが、女子生徒から告白される回数が多い。四人でいるときの人懐っこい表情と一人でいるときの近寄りがたい雰囲気の差が、より女子の興味を引くらしい。だが、学年で一番の美人だろうと、放っておけない雰囲気の可愛い後輩だろうと、彼は一切の区別なく断り続けている。同性のクラスメイトは、やっかみ半分に「選ばれしイケメンのみ赦されたえり好みだ」と言っているが、彼の態度を見た限りだと、どれほど優れた美人でも選ばれることはなさそうに思えた。
そしてなにより、美人でも優秀でもないことを自覚している千鶴は、尚更彼らの目に叶うことはなさそうだと思った。自分で出した結論に胸が痛んだ気がしたが、これまで世話になる一方で彼らの助けになれたことすらないというのに、今以上を望むことなど烏滸がましいにもほどがあると、振り切るように首を振る。
「モテるっていえばさー、千鶴の友達もモテそうじゃない? 伊織って子なんか学校にファンクラブまであるらしいし」
不意に話を振られ、千鶴は自責と自嘲の渦から浮上して桐斗を見た。
「言われてみれば……あんまりそういう話はされないですけど、でも……」
そこでふと課外授業でのことを思い出し、複雑な心境になる。彼女たちは、千鶴さえ転校してこなければ伊織と同じ班でいられたのにと言っていた。それが恋愛感情からのものかはさておいて、人気があることは間違いないだろう。
「真莉愛ちゃんはずっとわたしの傍にいたのでわからないですけど、課外授業のときも伊織くんは色んな人に呼ばれてました」
「だろうねー、そんな感じするもん」
二つに結い上げた髪を指先で手持ち無沙汰に弄りながら、桐斗が頷く。
暫く他愛ない雑談に興じていると、伊月と柳雨も部室を訪れた。その際、伊月は元々仏頂面だからいいとして、柳雨がなにやら面白いことでもあったかのような表情をしていることに気付いた桐斗が、率直に「どしたの?」と訊ねた。
「そこのお狐さんが不機嫌な理由と一緒だと思うぜ」
「あー」
桐斗が納得した声を上げると伊月の眉間に皺が寄り、桜司は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「人気があるっていうのも大変なんですね……」
思ったままの言葉が口から零れ出て、ハッとして周りを見る。苦笑する柳雨と、渋い顔の桜司に、それを面白いものを見る目で見ている桐斗、とっくに興味をなくしていた伊月と、四者四様の反応がそこにあった。
「てゆーか、おーじたちがモテてる話はどーでもいいんだよ。伊織くんだっけ? 彼、大丈夫だった? あのときいきなり病院に拉致っちゃったけど」
「はい、何とか……びっくりされましたけど、詳しくは聞かないでいてくれました」
あのあと、お礼がしたいからと夕食に招かれた。そこで聞いた話では、曾祖父からの連絡で奥座敷のお膳にカルピスが供えられるようになり、時計もあれから壊れることもなく元通り時を刻んでいるそうだ。
そのことを一通り話してから、千鶴は改めて背筋を伸ばして皆を見回した。
「先輩、わたしの友達を助けてくれてありがとうございました」
言い終えるや隣から軽い衝撃が千鶴を襲った。飛びついてきた桐斗が、そのまま腕の中に千鶴を閉じ込め、ぎゅうぎゅうに抱きしめている。
「千鶴いい子ー!」
「……お主に関わりないことだったゆえ、我は触れずにいただろうが」
「もー! おーじはすぐそういうこと言うー!」
桜司に文句を言いながら、千鶴を抱きしめたまま頭を撫で回す。されるがままにしている千鶴と桐斗を睨むと、桜司は突然立ち上がり、机を迂回して二人の背後まで来た。千鶴は桐斗にがっちり固められているため、後ろを見ることが出来ない。桜司がどんな顔をしているのかも、なにをしに来たのかもわからず、固まったまま二人のやりとりを聞いていることしか出来ずにいた。
「なーに? おーじは人間嫌いなんだからいいでしょー」
悪戯そうに笑いながら言う桐斗に、桜司は無言でデコピンをした。
「いったーい!」
それに驚いたのは千鶴で、自分の後頭部付近から景気の良い音がしたことと、元気な抗議の声にビクッと肩を跳ねさせた。
「あの、先輩……??」
背後でいったいどんな攻防が繰り広げられているのかわからず、困惑する。見かねた柳雨が「子猫ちゃんもその辺にしてやれよ」と笑うと、渋々といった様子ながらも腕の檻から解放された。
身動きが出来るようになった千鶴が背後を振り向くと、眉を寄せてどこか苦しそうな顔をした桜司に見下ろされていた。
千鶴は、この表情に見覚えがあった。
「千鶴」
「っ、はい……?」
呼ぶ声と共に手を掴まれ、そしてそのまま、ふっと意識が遠のくのを感じた。
微かに春の香りがする風が室内を吹き抜け、その瞬間、ひとひらの淡い桃色の花弁を残して、二人の姿が消えた。柳雨も桐斗も、桜司を止めようとする素振りすら見せずに二人を見送る。伊月に至っては、端から本に目を落としたまま顔を上げることすらしていない。
「……あーあ、思ってたより重症だね」
「おチビちゃん次第ではあるけど……どうする、賭けるか?」
柳雨が一枚の花札を伏せた状態で差し出す。桐斗はひらりと手を振り、柳雨の出した一枚の花札を表に返して笑った。桜に幕と、松に鶴。二枚の絵柄を向き合わせるようにして擦り合わせてから再び表に返すと、絵柄が消えて真っ白な札となっていた。
手品のように一瞬で真っ白な札になった二枚の花札を机に並べて、桐斗は笑う。
「賭けにならないからやめとく」
札の上に手を翳すと、松に幔幕が添えられたものと、もう一つ。桜と鶴が一枚の札に寄り添うようにして描かれている札が出来ていた。
彼らの未来を表わすかのような二枚の札を指先で弾き、元通りの絵柄になった花札を他の札に混ぜ合わせながら、桐斗は「遊んで待とう」と柳雨を誘った。




