十の峠で
昨晩、幼子のように桜司の着物を涙で濡らしてしまった千鶴は、重い足取りで文化部部室棟を歩いていた。結局あのあと、やはり囮が怖かっただのそれしかなかっただのと部室での言い争いが再開してしまい、理由を言うに言えないまま桜司の社でまた世話になってしまったのだ。翌朝目覚めてみれば、いつぞやと同様自室に運ばれており、靴や服もしっかり届けられていた。それがまた恥ずかしい。
転んだときに擦りむいた膝と、いつの間についていたのかわからない手の甲の小さな傷に桐斗のものと思しき可愛いパステルピンクの絆創膏が貼られていて、利き手を使う度それが目に入る。
「どうしよう…………」
行っても気まずく、行かなくても気まずい。今日行かなければズルズルと気まずさが間延びして、余計に足が遠ざかってしまうだろう。
そうこうしているうちに部室の前についてしまった。中でどれほど騒ごうとも廊下に声が漏れてこないのは、部室自体が半分異界だからだと聞いた。随分聞き捨てならない言葉だったが、聞き返したところで現実味のある話は聞けないのだ。ならばもう彼らの存在同様、そういうもので片付けるべきだろうと千鶴は諦めた。
「不思議空間はいいんだけど、気配がしないとちょっと怖いんだよね……」
恐る恐る、扉を開ける。―――と、視界の端からなにかが飛びついてきた。
「わーん! 千鶴来てくれたー!!」
「……!!?」
そのなにかは桐斗だった。きつく抱きしめながら、困惑する千鶴を余所に「もう来てくれないかと思った」と涙声で訴える。
「え……ど、どうしてそんなことに……?」
「だって……それしかなかったとはいえ、怖い思いさせちゃったし……」
「それはそうですけど、わたしもちゃんと覚悟して挑みましたから大丈夫ですよ」
桐斗の背を撫でて宥めながら、室内を見回す。部室には既に神蛇と柳雨以外は揃っており、桜司は千鶴と桐斗を複雑そうな顔で見つめていた。
「黒烏先輩と小夜子先生はまだなんですね」
「んと……ちょっと遅くなるから、遊んで待ってよ」
桐斗に手を引かれ、隣同士で腰を下ろす。そして鞄から花札を取り出すと、机の上に絵柄が見える形で広げた。
「千鶴はこいこいのルールわかる?」
「えぇと……前の学校のパソコンに入っていたので、何となくは……」
「じゃあ、簡単に教えるから一緒にやろ! 初心者でもおーじになら勝てるっしょ」
「何だと!」
にやりと挑発的に笑う桐斗の顔を見て、桜司は僅かに瞠目した。その表情の真意を、長年の付き合いで言葉を介さず理解すると、ふっと笑い返して正面に座った。
「千鶴相手とて手加減はせんからな」
「はい、よろしくお願いします!」
手札が配られ、場が調い、初心者と連敗王者の何とも言えない対戦が始まった。
「―――小夜ちゃん、さすがにこれは多すぎるんじゃね?」
「大丈夫よ。皆、成長期の男の子だもの」
「小夜ちゃん、オレら、十代違う」
口では抗議しながらも、大荷物を抱えたまま神蛇に従い、部室を目指して歩く。その手には大量の紙袋やビニル袋が提げられており、二人分の足音を消す勢いでがさがさと音を立てている。
「そういや小夜ちゃん、南風里って子はどうなった?」
「あの子は……不登校になってしまったようね。彼女たちにいじめられていたことを皆知っていたから……次は自分かも知れないと恐れた他の子たちが、避けるようになってしまったの」
「願い通り、いじめる人はいなくなった、か……」
手が塞がっている柳雨に変わって神蛇が扉を開ける。と、
「えっと……すみません、雨四光です」
「はーい、千鶴の勝ちー!」
「な……!」
大荷物の向こうから、意外な勝者といつもの敗者の声が聞こえてきた。
部室は会議用長机を二つ並べて簡易的な大机にしており、ソファに近い奥側がいつも花札の舞台となっている。今回もソファに伊月、扉から見て左側に桜司、そして右側に桐斗と千鶴がいる。
柳雨は荷物を手前に下ろすと肩を軽く回し、桜司側に腰を下ろした。
「お前さん、おチビちゃんにも負けたのか」
「う……うるさい。それより何だ、そのあほみたいな荷物は」
「あれ、これ駅前のタピオカ屋さんの紙袋じゃない?」
桐斗が大量の荷物の中から目敏く流行り物のロゴを見つけ出すと、柳雨は「それだけじゃないぜ」と言って次々袋から中身を出しては机に広げていった。
「お菓子とファストフードとお菓子とお菓子……」
「神蛇先生、これは」
桐斗が目を丸くして呟くと、珍しく伊月がお菓子の山に反応して神蛇に尋ねた。その神蛇はというと、いつものように嫣然と微笑んで見せ、千鶴の頭を撫でる。
「千鶴ちゃんと桜司くんの元気がないって聞いたものだから、柳雨くんにお願いして、お買い物してきたの」
「えっ」
千鶴と桜司の声が重なる。
「でも、千鶴ちゃんの好みがわからなかったから……取り敢えず良さそうなものを全部買ってみたのよ」
「小夜ちゃん先生、豪快過ぎでしょ」
ハンバーガーに、クリームたっぷりのドリンク、明らかに家族向けの大きな袋菓子や土産用の箱菓子と、様々だ。
「千鶴、なんか好きなのある?」
「え、えぇと……わたし、こういうの食べたことなくて……」
「うっそでしょ!?」
声を上げた桐斗だけでなく、桜司と柳雨、更には伊月までもが目を瞠った。萎縮して細い声で「本当です……」と答える千鶴をぽかんとした顔で見つめていたかと思うと、桐斗はいちごミルクの上にホイップが乗ったものを千鶴に差し出した。
「じゃあこれ! 僕のお気に入りだから飲んでみて!」
「は、はい……って、赤猫先輩のお気に入りなら先輩のでは……?」
「いーから、ほら!」
「い、頂きます……」
好きなものを自分で味わう以上に反応を期待している眼差しで見つめられては、断るわけにもいかない。付属の太いストローを差して一口飲むと、どろりとしたスムージーだけでなく細かい粒も飛び込んできた。かみ砕いてみると、どうやらフリーズドライの苺のようだった。果てしなく甘いドリンクに、苺の酸味が丁度良い。
「……美味しいです」
「ほんとっ!? じゃあ今度一緒に行こうよ! 他にも可愛いのいっぱいあるからさ! おーじたち、全然付き合ってくんないんだもん」
「はい、わたしで良ければ」
「やったー!」
無邪気に喜ぶ桐斗を微笑ましげに眺めながら、神蛇は他の皆にも勧めた。その中で、ホットチリや激辛と書かれたものは、皆の手によって伊月の前に積み上げられていく。そして伊月も普段の無表情を崩すことなく、真っ赤な食べ物を口に運んでいる。
桜司は箱入りの和菓子を選び取り、柳雨は辛くないファストフードを選んだ。一番のお気に入りを千鶴に譲った桐斗は、同じ店の別のドリンクを選んで飲んでいる。緑色と白の二色で構成されたそれは抹茶ミルクのようで、底に細かい小豆寒天が沈んでいる。
皆と、ずっとこうして―――
少なくともいまは、正しく願いが叶っているのだと、そう思うことにした。




