4 ゼクス ・冥界の王になど
「なにもお召し上がりになりません」
「……なにも?」
「はい、お食事にはまったく手をつけられておりません」
それでは身体を壊すだろう。
エミオンにつけた侍女からそう報告を受けたゼクスは厨房に立ち寄った。彼女の好物であるラクの実(かんきつ系の果物)の皮を剥いて皿に盛り、これを持参した。
侍女を一人伴ってエミオンの部屋を訪ねたものの、ノックをしても返答がない。
「……姫? エミオン姫?」
やはり返事がない。
胸騒ぎがした。
ゼクスは扉番を務める二人の女騎士に「開けろ」と命じた。
ためらわずに踏み込む。部屋はシン、と静まり返っていた。
ゼクスはすぐに異変を感じ取った。おかしい。人の気配はするのに奇妙な緊迫感が漂っている。
「……エミオン姫?」
名前を呼んでも沈黙が返ってくる。
ゼクスは嫌な予感がして皿をテーブルに置き、急いで奥へ向かった。無作法は承知で寝室の扉を破るように勢いよく開ける。
まさにその瞬間、エミオンが引き裂いたシーツで輪をつくり、シャンデリアに結びつけて首を吊ろうと椅子を蹴ったところだった。
「エミオン姫!」
ゼクスは荒々しい叫び声を上げ、鞘から剣を抜き放ちながら中に飛び込んだ。白刃が閃く。シーツは一気に両断され、エミオンは急落下した。
「っ」
ゼクスは体勢を崩したエミオンを片腕で受け止めた。
「無事か!?」
エミオンは激しく咳き込んだ。
「……で……」
「しっかりしろ!」
問いかけるゼクスの手は冷たく振り払われた。触れられるのも我慢ならないというように、エミオンは身体を捩り、弱々しくもゼクスを突き放そうと暴れる。
「……わ、たし、に……さ、わら……ない、で……っ」
苦しいのか呼吸が細い。
もしかしたら一瞬首が絞まったのかもしれない。
ゼクスは嫌がられるのも承知でエミオンを横に抱き上げてベッドに運び、水を注いで持っていった。
身体を抱き起こし、水を飲ませようとするとしたところ抵抗された。
エミオンは怒りと憎しみに燃える眼をゼクスに向けて言い放つ。
「さ、わらない、で、と言っている、で、しょう……っ」
頑なに拒まれる。
だが蒼褪めて身体をくの字に折り曲げ、喘鳴を漏らすエミオンは苦しげでとても黙って見ていられず、ゼクスはむりやり水を飲ませた。
「はあっ、はあっ、はあっ……っ」
「……大丈夫か?」
ゼクスはエミオンの呼吸がおさまるまでずっと背を撫で擦っていた。
その間、エミオンはまったく緊張を解くことなく、声が出せるようになると開口一番こう叫んだ。
「誰も助けてくれなんて言っていないでしょう!」
怒り心頭、ゼクスを睨む。
「……なんだと?」
ゼクスはエミオンの無事に一旦は胸を撫で下ろしたものの、安堵はすぐに湧き上がる怒りにとって変わった。
千切れたシーツを手に取りエミオンの眼の前に突きつける。
「……これはいったいなんの真似だ」
「短剣がなくて他に死ぬ方法を選べなかったんです」
あっさりと自決の覚悟を表明するエミオンにゼクスは言葉を失った。
凍りついたように身動きしないゼクスの前で、エミオンはゼクスが触れた部分を汚らわしい、というように手で払って言った。
「あなたの妻になるくらいなら、死んで冥界の王の妻となる方がましです」
これ以上にないはっきりした拒絶にゼクスは打ちのめされた。
エミオンの顔はどれほど号泣したのか涙の痕も痛々しく腫れ上がり、眼は真っ赤、憎々しげな眼光だけがゼクスに注がれている。
――憎まれている。
嫌悪なんてものじゃない。憎悪されている。
迷わず死を選ぶほど憎まれている……!
エミオンの激情を目の当たりにしてゼクスは深く胸を抉られた。
身を引き裂かれる痛み、とはこのようなことを言うのだろうな、とショックに麻痺した心でぼんやり思った。
「そうか……」
それほどまでに嫌われているのか。
「……こんなに好きなのに、私ではダメなのか……」
ゼクスの微かな呟きはエミオンに届かない。
失意のどん底に滅入りながら、ゼクスは寒々しい微笑を浮かべた。
なにかどす黒いものが身の内から噴き出してくるのが感じられた。
エミオンがハッとして危険を察し身を退きかけたところ、ゼクスは素早くエミオンの手首を押さえつけた。
「……許さない……」
低いゼクスの唸り声にエミオンの顔が畏怖に歪む。
ゼクスはエミオンをきつく見据えたまま「入れ!」と怒鳴った。
おずおずと、寝室の入り口に侍女が立った。その姿を見てエミオンは驚愕した。
「チャチャ!」
「お嬢様!」
「動くな」
ゼクスの容赦ない厳しい一声で侍女がびくりと静止した。
「……エミオン姫」
こんなことを言えばまた嫌われるだろうな、と暗澹たる思いにジクジク心を痛めながらゼクスはエミオンを冷たく見つめた。
地を這うような低い声で凄んで言う。
「もしもあなたがまた同じことをしたそのときは、その娘を犯して殺す」
「ひっ」
侍女が恐ろしげに大きく息を吸い込んだ。
エミオンは信じられないという面持ちをして胴震いした。
ゼクスは更に声音を深め、眼光を鋭く研ぎ澄まして続けた。
「その娘を逃がしても、母親、縁者、すべて殺す」
「……なんて人なの!」
ゼクスの脅迫にエミオンは恐怖よりも怒りが先立ったようで、怒気に肌を赤く染め上げた。
憎々しげに光るまなざしを浴びてゼクスは切なくなった。
いつもいつもどうしてこううまくいかないのだろう、と不思議に思う。
怒らせたいわけではないのに怒らせて、ますます関係がこじれていく。
――だがそれでも譲れないことはある。
たとえ憎まれようと。
たとえ死ぬまで拒まれようと。
ゼクスは狂おしい恋情を胸に秘めたまま、気丈にも睨み返してくるエミオンの顔を覗き込んだ。
「……あなたを冥界の王になど渡さない。いや」
ゼクスはエミオンから離れてゆっくりと立ち上がり決然と告げた。
「他の誰にも渡さない」




