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受難の恋  作者: 安芸
最終章 もう一度はじめから
28/35

27 エミオン・夜会にて・7


 なにを言われているのかわからなかった。


 ゼクスの言葉は理解不能で、エミオンはスッと無表情になった。

 だが心に届いていないわけではなく、湖面に落とされた小石が波紋を投げかけゆっくりと湖底に沈んでいくように、ゼクスの告白はエミオンを揺さぶった。


 遡ること十四年前から今日に至るまで――どの記憶の中にもゼクスはいた。

 春も夏も秋も冬も。

 はじめて会ったときから、ゼクスは折りにつけ屋敷を訪ねてきた。

 初対面が最悪だったこともあり、エミオンは彼を避けるため、力の限り逃げ隠れした。

 だがゼクスはしつこくて、エミオンを見つけるまで探し続けた。そのくせ顔を見れば「ブス」と言い、エミオンが無視を覚えると、今度は服装をからかわれたり、髪を引っ張られたり、手を掴まれたり、虫を見せられたりした。


 当時ゼクスがエミオンと接触を持つ機会は主に兄クアンを介してだったはずだが、それにしてもゼクスは頻繁に姿を見せた。

 こちらが顔を忘れる隙を与えず色々な理由にかこつけて現れては、その都度、神経を逆撫でするようなことを言われ続けてきたのだ。その嫌がらせは子供時代を経て手を変え品を変え続いていた。


「花がきれいだったから持ってきた。これを眺めていれば鬱も晴れあなたも少しは華やかになれるのではないか」

「鬱なのは殿下が鬱陶しいからですし、地味な顔はもとからです」

「おい、暑さで頭がおかしくなってはますます嫁の貰い手がないぞ」

「暑さで頭がおかしくなろうと嫁の貰い手がなかろうと、殿下に関係ないでしょう」

「珍しい菓子を手に入れた。食せ。貧相な身体つきよりは多少肥えた方が見栄えもよかろう」

「凹凸のない身体で見栄えが悪くすみませんね」

「風邪をひいただと? なんとかは風邪をひかぬはずだ、油断が過ぎるぞ。私が早くよくなるよう見張っていてやるからとっとと治せ」

「なんとかってなんですか! 早く治したくても殿下に傍にいられては治るものも治りません。迷惑ですから帰ってください」

「エミオン姫、待て。逃げるな」

「嫌です、逃げます。追ってこないでください」

「徹夜で読書だと? それでそんなに顔が悪いのか」

「顔色が悪いの間違いではないですか!?」

「社交界デビュー? デビュタント? 王宮で母に挨拶だと? イブニングドレスにディアデムか……なんともお粗末だな。あなたのつたない社交術でサロンに出かけては恥だろうに」

「大きなお世話です!」


 ……思い返せば思い返すほど、腹立たしい会話しか記憶にない。


 ゼクスはしょっちゅう花だのお菓子だの手土産に持ってきてくれるのだが、いつも一言余計で、素直に礼を言えたためしがない。

 パーティに行くといえば眉をひそめられ、晴れのデビュタントに「おめでとう」もなく不機嫌な顔をされて、お茶会に誘われたと話せば「相手は誰だ」と詰め寄られ、本当に、うるさくて、鬱陶しくて。

 兄の友人でなければ、王子という身分がなければ、とっくの昔に絶縁状を叩きつけていただろう。


 そのゼクスの口から、なんて?

 よりによって、『この世で一番美しい人』?


 ゼクスの声がエミオンの耳を通り胸の奥にようやく到達したとき、感じたのは怒りだった。


「――嘘です」


 ふつふつと猛烈な怒りが込み上げてきてエミオンは身をブルブルと震わせた。


「嘘です、そんなこと。なんのためにそんな嘘を吐くのですか。そんな歯の根の浮くようなお世辞で私を惑わせようなんて、なにを企んでいるのです」


 真面目な顔で、そんなに悲愴な眼をして、懺悔かと思えば――あからさまな機嫌とり。

 エミオンはベンチから立ち、ゼクスを非難の眼で睨みつけた。


「心にもないことをおっしゃらないで。私の機嫌をとる目的は? もしや、す、好きなお相手に子供でも出来たのではなくて?」


 本妻ではなく妾妻に先に子供が出来た場合、本妻の地位は揺らぐことなくとも立場は微妙なものになる。子供が男児だった場合、事態は更に深刻だ。ゼクスが認知しなければ後継者問題に発展することはないだろうが、認知しなければしないで禍根が残るだろう。

 いずれにせよ、エミオンにとってはショックだ。

 ゼクスは眼を瞬き、間の抜けた声を出した。


「は? 子供?」


 戸惑う様子のゼクスの白々しさが恨めしい。

 エミオンはじわじわと気が昂って言った。


「とぼけないでください。それとも、もっとひどいことを隠していらっしゃるの?」


 ゼクスは陰りのある美貌をいっそう暗くして不審そうにエミオンに訊ねてきた。


「待て。あなたはさっきからなにを言っているのだ。隠しごと? 私が、あなたに?」


 まるで心当たりがない、というとぼけ顔が憎らしい。


 エミオンの涙腺が決壊した。ポロポロポロと涙が両方の眼からこぼれる。

 途端にギョッとしゼクスが慌てふためく。


「な、なぜ泣く?」

「泣いてなどいません!」


 ただ眼から勝手に涙が溢れてくるだけだ。

 エミオンはうろたえるゼクスをまっすぐに見つめてアギルから「訊いてみるといい」と言われていたことを一気にまくしたてた。


「殿下は隠しごとだらけではないですか! そうではないとおっしゃるならお答えください。ジョカ殿下はなぜ第二王位継承権を放棄したのです? 殿下が朝から晩まで仕事しているのは政務が忙しい以外に理由があるのですか? 私を軟禁しているのはどうしてです? 殿下が――執着しているただひとつのものって、なんですか」


 心がきりきりと痛む。

 絞るような掠れ声でエミオンは最後に訊ねた。


「殿下が心をそっくり明け渡すほど恋焦がれている相手って、いったいどこの、どなたですか……?」


 ゼクスはエミオンの剣幕に唖然としたのも束の間、エミオンの流れる涙を拭おうとおずおずと手を伸ばしてきた。

 エミオンはその手を払った。いまは触れられたくなかった。

 ゼクスは拒絶された手を宙で止め、物憂い声で一言呟いた。


「それがあなたのしたい話、か?」

「そうです」

「私は……答えなくてはいけないだろうか」


 ゼクスに静かに眼を伏せられて、エミオンは深く失望した。


 ――やはりどこまでいっても、わかりあえることはないのか。


 所詮、名ばかりの妻なのだ。


 みじめだ……。


 エミオンはこれ以上になく傷ついて、しばらく声も喪って立ちつくした。

ややあって、虚ろな眼をして言った。


「――もういいです」

「エミオン姫」


 ゼクスの呼びかけを無視し、エミオンはドレスをつまみ、くるっと身を翻した。


「エミオン姫、待て」


 待たずに駆け出した。

 ゼクスから一刻も早く少しでも遠くに離れて思いっきり泣きたかった。

 どうして好きになってしまったのだろう。

 あんなに冷たい人をなぜこんなに好きなのだろう。

 自分を好きでもない相手を好きになるなんて愚の骨頂だ。不毛なことこの上ない。

 エミオンは石畳に突っかかった。前のめりに倒れかける。

 だが転ばなかった。寸前でふわりと腰に腕が回され、身体を支えられた。


「急に走るな。危ないだろう」

「離してください」


 すぐにゼクスの手が離れたのでエミオンが再度振り切ろうとすると手首を掴まれた。

 振りほどこうとしたが力が強くて叶わなかった。


「離してください」

「……離さない。離したら、私はあなたを失いそうな気がする」


 エミオンは嗚咽を抑えた低い声でぴしゃりと言った。


「私のことなどどうでもいいのでしょう。追ってこないでください」


 するとゼクスは恐ろしく低い声音で言い返してきた。


「あなたのことがどうでもいいわけないだろう。追うに決まっている」

「離してください!」

「断る!」

「どうして離してくださらないの!」

「あなたのことが好きだからだ!」


 夜の静寂にゼクスの激情のこもった叫びが弾けた。

 ついで、心の奥底に秘めていたものを引き摺りだすような苦しげな声音でゼクスは囁いた。


「……はじめて会ったあの日から、ただあなたのことだけが好きだからだ……」


 エミオンは茫然と佇み、ひたと激しい眼を向けてくるゼクスを信じられない思いで見つめた。



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