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受難の恋  作者: 安芸
第二章 すれ違う日々
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20 ゼクス ・恋の煉獄


「誰のことだ」


 ゼクスは問い詰めた。

 我ながらひどく冷やかな物言いだった。抑えきれない嫉妬が、殺意めいた激しい感情が声に滲みでていた。


「……誰ですって?」


 エミオンは一瞬固唾をのんで身を強張らせたが、ゼクスが睨むと睨み返してきた。


「ああ。誰のことだ」


 愛しいのに、憎らしい。

 そもそも最初に騙し討ち同然に婚姻を結んだのは自分だが、こんなにも堂々と浮気を告白され、他の男のために流す涙を見せつけられるとは、どんな地獄だ。


 いや、それよりなにより、問題は――。


 ゼクスはエミオンの細い腰を更にグッと引き寄せ、華奢な手首を締めつけた。押し殺した声で続ける。


「……いったい誰を引き止めたいと言うのだ。あなたが動かしたい心とは、止められない思いを捧げる相手は、断ちたくても断てないほど想い焦がれている男は――誰なのだ。言え!」


 殺してやる。

 それが無理でも、エミオンの眼の届く範囲から排除してやる。社会的地位を、存在そのものを抹消してやる。息の根を止められた方がましだと思うくらい痛めつけてやる。


「……っ」


 ゼクスは衝動的にエミオンを掻き抱いた。噛みしめた奥歯から「フーッ」と息を吐く。怒りにかられた心臓が猛烈に音を立てて脈打っている。同時に、エミオンの鼓動もはっきりと感じた。熱く、確かな、生きている証。


 ――こんなにも好きなのに。

 ――この腕の中にあなたはいるのに。

 ――なぜ私ではいけない。どうして。


 ゼクスは激しい慟哭を迸る激怒に転じて吠えた。


「……どこの誰であろうと、あなたを泣かせる奴は許せぬ。私自ら、あなたが流した涙の数だけ血で償わせてくれる。罰を与え、嫌ってくらい後悔させてやろう。あなたを傷つけた罪で厳罰に処してやる。だから――…なぜそんな不審そうな眼で私を見るのだ」


 エミオンはいかにも怪訝そうな様子で眉間に皺を寄せていた。

 ゼクスがイライラしながらエミオンを注視すると、エミオンは疑念の塊のような視線をゼクスに浴びせてきた。


「……なにをおっしゃっているのかわかりません。動かせない心をお持ちなのは私ではなく殿下です。断ちきれない想いに悩まされて、足踏みして、私を巻き込んで……! なにが、許せないですって? 誰を罰するですって? 私を泣かせているのは殿下でしょう」

「なんだと?」


 ゼクスはエミオンの言葉に眼を丸くした。唖然とし、硬直する。


「退いて」


 エミオンは身動ぎしてゼクスの腕を振りほどこうとしたがびくともしなかったので、恐ろしい眼でキッとゼクスを睥睨した。


「放してください」


 反射的に従うと、エミオンは自由になったその手でゼクスの胸をドン、と叩いた。


「なにを勘違いしているか知りませんけど! 私は殿下に泣かされているんです! 私を傷つけているのは殿下なんです! ひどい、ひどい、ひどい人!」


 エミオンは「わーっ」と子供のように泣きじゃくりながらポカポカとゼクスの胸を叩き続けた。力の入らない拳の攻撃など痛くも痒くもなかったが、エミオンの眼からとめどなく流れる涙の一滴一滴にゼクスは心臓に杭を打ち込まれるかの如く全身に激痛が奔った。

 しばらく、ゼクスは一方的に責められるままになっていた。


 ――まったくもって、わけがわからない。

 ――勘違い? なにが? どこからどこまで?


 やがて叫び尽くしたエミオンは啜り泣きはじめた。

 時折小さくしゃくり上げるエミオンをゼクスはそうっと抱きしめた。嫌がられやしないかと様子を窺いつつ、恐る恐る背中を擦ってやるとエミオンはゼクスに身体を預けてきた。


「……すまない」

「……なにを謝るんです」

「……わからないが、すまない」

「適当に謝るなんて最低です」

「適当ではない。理由はともかく、あなたを泣かせているのが私なら私が悪いに決まっている。煮るなり焼くなり、好きにしてくれ」

「じゃあ、もういいかげんに……」


 ギクリとした。

 ゼクスはあわててエミオンの口を手で塞いだ。その先の言葉をどうしても聞きたくなかったのだ。


「『解放してくれ』とは、できないから、言うな。あと、『離縁してくれ』というのもだめだ」


 ゼクスは顔を伏せた。


「最低の夫で、すまない……」


 ゼクスはエミオンの頭を抱え込むように抱きしめながら詫びた。エミオンの怒りと悲しみの矛先はどうも自分に向けられているようだが、情けないことに原因がさっぱりわからない。

 ただ言えることは、自分は愚鈍で気が利かない仕事しか能のない男で、伴侶としては不十分なのだろう。愛想を尽かされても文句は言えない。


 ――それでも、離れたくない。離さない。たとえどんなに疎まれようと離縁はしない。


 ゼクスは床に視線を這わせたままポツリと嘆願した。


「なるべくあなたの傍にいないようにするから……許せ」


 言葉通りゼクスはエミオンから距離を取ろうとしたところ、いきなり袖を掴まれ、食ってかかられた。


「『許せ』? なにをです。なるべく傍にいないようにって……これ以上まだ私を一人にするつもりですか!」


 エミオンの充血した眼が火を噴いて激した声がゼクスに叩きつけられる。

こめかみに青筋が浮かび、手は震え、なんだか恐ろしく憤っているようだ。

 エミオンはきつい眼つきのままベッドの上で膝を揃え、畏まってゼクスに向き直った。


「……なにか、私に言いたいことがあるんじゃないですか」

「……なにを?」


 エミオンの思惑をまったく読めずにゼクスが首を傾げると、エミオンはよりいっそう眼光を鋭くした。

 はっきりと、問い詰めてくる


「どうして離縁をお願いしてはいけないのです?」


 絶望感がゼクスを直撃した。


「……やはり、私と離縁したいのだな」

「違います。そうではなくて」

「違うものか。あなたは私と離縁したいのだ」


 いつそれを言いだされるかと、この二年、日々恐れていた。

 ゼクスは眼を瞑った。胸が張り裂けそうだ。いや、いっそ心臓が止まればいい。そうすればこの叶わぬ恋の煉獄から逃れられるだろう。


 ――どうすればいいのか。

 ――どうしようもないのか。


 離れることなどできない。

 離すことはもっとできない。


 瞼を開ける。

 エミオンと眼が合う。ただそれだけで嬉しくて心躍る。子供のころはそれで満足だった。それで満足していればよかったのだ。

 欲を出さなければ。

 もっと傍にいたいと、望まなければ。

 あのとき、あの場で、出会わなければ。

 ゼクスはポツリとこぼした。


「……私になど好かれなければよかったな」

「え?」


 これしかない。


「離縁はできない。もし是が非でも私と離れたいと望むなら」


 ゼクスは腰に帯びていた剣をスラリと引き抜き、エミオンの前に差し出した。


「殺せ」


 他に解決法はない。

 生きている限りエミオンを手離せない以上、これが唯一の策だ。


「あなたの手で、私を」

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