夜の部①
俺が今回推した曲は2つだ。1つはIt’s a sin to tell a lie、そしてもう1つが、この曲だ。The boy next door。男性ボーカルならboyがgirlに変わるのだが、どちらも近くに住む気になる異性について歌った可愛いラブソングだ。
『一目彼の笑顔を見た時から、彼は私のタイプだとわかったの
悲しいことに私達は出会っていない
でもいつだって夢を見てるの』
英語は苦手だから、訳し方に首を傾げられるかもしれない。でも自分には、こんな歌詞にしか思えなかった。
『どうやって隣の男の子に気づいてもらおうかしら
言葉で言うよりも、彼を愛しているの
同情しようとしないで!
絶対からかわないで!
だって彼には一目も私を見てくれないのだから』
サックスはボーカルだ。このバンドでは少なくともそうだ。恐らくこんなサックスの使い方をするのは我々くらいかもしれないが、下手な歌を歌うよりそれは胸に響くものだと自負していた。
『私はただ彼を崇拝しているの
だから私は彼に気づかない』
最後までしっとりと引いた。これがクライマックスだとわかるように、素敵な時間に感謝するように…
『The boy next door』
Largo、 Largo、Largo cantabile。最後にピロンと余韻を残したら、待っているのは万雷の拍手。
みんなが自分をたたえているような、そんな王様のような気分で頭を下げた。こんなにも大勢の人が、自分の演奏を聴いてくれていたのかと動揺しつつ、スタンディングオベーションに頭を下げ続けた。
至高だ。最高だ。こんなにも楽しいことなんて、これ以上ない。終わっていく幸福な時間に後悔などない。また来年になれば体感できるのだから。何も求めなくていい。これ以上なんて何もいらない。毎日学校に行って、バイトして、そして1年に一回、この場所に立てたら文句なんて何もない。だってそれ以上に幸せなことなんてないだろう?それ以上に幸せなことなんて、あるはずがない。
「以上、A nor Bでした!宜しければ今から投げ銭回しますので、1円で良いのでよろしくお願いします!」
このジャズストリートは、全ての演奏が無料で聴ける。しかしながら投げ銭と言って、自主的にカンパを募る行為は禁止していなかった。お客さんはその演奏を聴かせてもらった対価を、自分で決めてお金を払う。お客様は神様だという風潮蔓延る現代日本において、それは異質であり、そして理想だと思った。
Aさんは箱を持って投げ銭を募っていたが、すぐに人が集まってきてお金を投入しまくっていた。っていうか、乃愛今お前千円札入れなかったか?いやおっさん達は万札入れる人も居るけど…というか今年は、多分歴代最高の投げ銭額だろう。集まる人が去年と段違いだ。このお金のうち1/3が我が家の懐に入る。大した額にはならないけれども、ちょっとだけ嬉しいのは事実だ。
乃愛達がこちらに近づいてきた。そのまま8人で他愛のない話をしていた。特に武田と衛藤は是非キーボードとしてバンドに参加したいとお願いするほど熱く語ってくれた。現田も今度新聞部のネタにしたいから写真欲しいと言ってきた。遠坂や竹川、梅野、そして勿論乃愛も、労いと褒賞と、呼んでくれてありがとうという感謝を送ってくれた。滅多にない体験だった。でもたまには良いのかもしれない。そうだ。今日だけは、1年で唯一わがままの言える日なのだか……
「新倉ぁ!」
怒鳴り声が耳を劈いた。モーセのように空いた人影を縫って、その女は近づいてきた。皆が困惑する中、乃愛だけは視線を合わせないようにしていた。
顔をしかませて、最大限睨みつけて、塚原真琴が俺の腕を掴んだ。
「先輩がお呼びだ。さっさとこい」




