昼の部その⑥
乃愛はまるで生まれて初めてピアノを触ったかのような手つきだった。人差し指をピンとたてて、ド♯をポーンと鳴らした。そしてそのまま連打を始めた。ド♯連打。レ♯連打。ド♯レ♯交互に連打。こんなメロディとすら呼べないものでも、なんとなく心地いい即興曲になるのが凄いと思った。詳しい理論についても軽く解説されていたが、時間がなく読み飛ばしていたから今度該当動画をチェックしておこう。
本当は該当動画の指の動き全てを覚えようとしていたらしいのだが、無理だったらしい。まあトレモロとかアルペシオとか、俺も鳴らすの難しそうに見えたし、乃愛なら余計だ。
しかしこれだけは覚えたらしい。某全国チェーンコンビニの有名な入店音。それも微妙に音を外していたが、どうやら観客には伝わっていたらしい。溢れた笑いがそれを物語っていた。
隣の乃愛は、お客さんに見えないような位置で、こちらをみて笑いかけた。その笑みは、幸福純度100%の、混じり気ひとつない美しさを表現していた。そんなにも、隣でピアノを弾きたかったのだろうか。あまりそんな話、聞いたことないのだが。
「うわーすごい!」
幸福純度は100%でも、誤魔化し指数は0に近かった。いつも学校で見せている演技力はどこに行ったんだと睨みつけたくなったが、
「え?私もやってみたい!」
という声が上がって、場が流されたから良かった。声を上げてくれた武田に感謝だ。
武田は少しだけ慣れた手つきで黒鍵を鳴らしていた。確か彼女は軽音部だったから、多少楽器への扱い方は理解しているのだろう。弾いていたのは…去年流行った映画の主題歌。
「魅音歌え!歌え!」
衛藤からそう言われた武田は、少し照れながらマイクを通じて歌い始めた。綺麗でうまい歌声、そういやボーカルやってるって去年言ってたような言ってなかったような…2年同じクラスなのにこの記憶力、残念ながらほんのりも反省しなかった。
サビの部分を歌いきると、若い世代中心に拍手が巻き起こった。そしてこれが、後の体験者に見本となってしまった。
「最近の曲か??わかんねえよ!!おっさんにもわかる曲をやってやる!!」
そう言って飛び出してきたのは先程反応していた金髪だった。手に持っていたスーパードライはいつのまにかプレミアムモルツに変わっていた。高くなったのか安くなったのか、高校生の俺には分からなかった。
金髪のおっさんが隣に来た瞬間に、アルコールの匂いが鼻を刺激してきた。この人、本当に大丈夫なのか?
おっさんは本当に適当に黒鍵を叩きつつ、調子外れな歌を歌い始めた。
「ろっこ〜おろ〜しに〜さーあっそーとー」
あ、これ知ってる。この辺りで人気の某プロ野球球団の歌だ。そしてここでもそのチームは人気だったのか、謎の大合唱が始まってしまった。
「おーっおーっおっおー!◯神タイガース!フレーフレッフレッフレー」
1番が終わると拍手。拍手が終わると今度は2番がスタートしていた。もはやこれ、ピアノ関係ないのでは??
3番まで終わりぺこりと挨拶したのを見計らって手を上げ始めた。
「今度は俺やりたい」
「私やりたい」
「俺に歌わせろ!」
いや最後のはもう趣旨と完全に異なっていたものの、この伴奏のおかげか演歌もフォークソングもウルフルズも全部しっくりきた。流石は魔法の伴奏などと呼ばれるだけあるなと実感していた。
そうして参加者希望が絶えないまま、時刻は気づけば3時を過ぎていたもう十分なほど時間を稼いでいた。
「えーそれでは時間もそろそろなので、ここらで打ち切りたいと思います!お疲れ様でした!」
これを言ったのは俺ではなくAさんだった。結果としては、非常に盛り上がれて良かった。急増した割には参加者も満足な出来になったと、そう思いたい。少なくとも演奏してくれた方は満足そうな顔をしていた。
乃愛の顔を見た。相変わらずの笑顔だった。それだけで俺は、ああ成功したのかと思えた。
参考資料
『阪神タイガースか好きなんや』より、20160312掲載記事ー六甲おろしー
http://www.hanshin.site/posts/620233/




