昼の部その①
挨拶など要らなかった。そんなことをしないでも、自然とみんな黙ってくれた。遠坂達みたいに初めて来る人も居ただろうに、みんな曲の開始とともに静まり返ってしまった。別に俺としては、寧ろ話し声が徐々に無くなっていく感覚が好きだから、多少うるさいくらいでも良かったのに。これも配慮のかたまりというやつなのだろう。恭しく受け取り、人差し指で鍵盤を摩った。
そのまま流れるように奏で出した曲名は、『It’s a sin to tell a lie』。『嘘は罪』と訳されるこの曲は、1936年にBilly Mayhewが作曲したとされるジャズの定番曲であり、ピアノレッスンでも時折使われている名曲だ。それを俺は、少しだけ気持ち早めに流していた。
歌詞は普遍的な内容を歌っている。好きだ愛していると言って来る一方と、それを信用できない、口だけじゃないかと訝しく思うもう一方。前者が男性、後者が女性という想定がなされがちな該当曲だが、別に逆でも成り立つのではないかと思うのは俺だけだろうか。そして作中、何度も告げられるIt’s a sin to tell a lieと言うフレーズ。一見するとそれは物悲しく、悲痛の叫びのように思える。
それが自分にとっては嫌だった。
できるならこの曲は、喜劇として奏でたい。
男性なら、女性と多くの関係を持ったことのない捻くれ者の僻みのように
女性なら、相手の浮気が気になりすぎて何を言っても悪く捉えてしまう自嘲のように。
コメディとして演奏すれば、何1つだって怖いことはない。
だってそうだろ?
信じていた人から裏切られて、嘘を罪とまで断ずるなんて、シリアスに起こっていい話ではないからだ。
スタッカートを多用した。ピンッ!ピンッ!と節の終わりを跳ねさせた。ダンパーペダルよりソフトペダルを多用した。気持ち早めに弾き続けた。まるでこの曲の作意が、モダンタイムスのスマイルのようだと錯覚させるように、俺は鍵盤を叩いていた。こんなの、コンクールなら減点対象なんだろうな。でもこれはライブだ。誰1人として咎める者はいない。
ほら、チャップリンの映画を観た後のように、この男女を笑ってやってくれ。笑い飛ばしてやれ。そう思いながら時折和音をアレンジで組み込んでいた。こんなの、コンクールなら失格だ。でもライブなら誰1人として演奏を止めさせてくるものなどいない。
楽しい時間の幕開けは、過去の精算から。そう決めたかのように、俺は最後までその調子で走り続けたのだった。
《参考資料》
Moonlight Jazz Blue『カフェで流れるジャズピアノBEST40』
https://www.amazon.co.jp/カフェで流れるジャズピアノ-Best40-Moonlight-Jazz-Blue/dp/B009R26EP2
若生りえ Jazz Songs & Diary 2013年5月9日記事
『IT’S A SIN TO TELL A LIE ~嘘は罪~』
https://blog.goo.ne.jp/wakorie/e/95166c15aa53e5d517b9d33f3645be3b
kintarou uncle『♪嘘は罪 おとなのためのピアノ教本(3)P.40 the adult piano course - It's a sin to tell a lie -』
https://m.youtube.com/watch?v=CfOb99hpgbc
Harry Völker『Billy Mayhew - It's a Sin to Tell a Lie - piano - improvisation - Harry Völker』
https://m.youtube.com/watch?v=2MSMTaCYHPU
音楽用語集
http://www.geocities.jp/officekoro/family/keiko/yougo/ongaku




