朝の部その④
拍手がひとしきり続いた後に、すっと人がばらけた瞬間を狙って、3人は店の中に入っていくことにした。その時、入り口付近に居たのは、どや顔の乃愛だった。先に店に入る2人を横目で見つつ、俺はお金をひらひらさせている乃愛を見て一言こう言った。
「すられないようにしろよ」
ピシッと敬礼する乃愛。俺はそのままお店に入っていった。声を掛けなかったのは、俺がイヤホンをしていたからだろう。本番前のイメトレを兼ねているのならと邪魔しなかった配慮のかたまりだ。別に話して来ても良かったのだが、その心遣いを汲んでまっすぐピアノの方へと向かっていった。
「あー新倉来た!」
「おーかっこいい!!その白シャツ似合ってる!!」
「新倉君?の、乃愛ちゃんは…?」
そしてお前らはもうちょっと遠慮という言葉を理解するのだな。まだぼけっとした顔でこっちを見ていた衛藤と遠坂は許そう。武田と梅野と竹川。君達は乃愛の爪を煎じて一気飲みしていただきたい。
俺はイヤホンを外してマスターの机に置いた。もうこれは必要ない。少なくとも、今日はもう必要ない。
「来てくれてありがとう」
ニコッと笑う。少しはにかむ。これくらいの御礼はしないと、せっかく来てもらったのに申し訳が立たない。
必要なことはこれだけだ。これだけでもう充分だ。足りないものは、乃愛がやってくれる。俺は踵を返してピアノの前に座った。
店内は雑然としていた。そりゃそうだ。バンドとバンドのアイドルなのだから、人の入れ替えや先ほどのバンドの感想、更には今後の予定や注文、合間の時間で話す近況トークなんてものもあるかもしれない。でもそれらを、俺は音楽家らしく無駄な音だなどとツノを立てる気はなかった。寧ろもっとやって欲しかった。俺の音楽は、高尚でも権威でもなんでもない素人なものなのだから。
どうやら乃愛が、現田さんとともに到着したようだ。何を話しているかまでは聞き取れなかったが、竹川がとても楽しそうにしていたのは見て取れた。最前列のソファーは4人掛けなのだが、ぎゅぎゅうと詰め込んで7人掛けへと変貌させていた。いやまあ、なんか申し訳ない。
ポーン、ポーン、ポーン、♯ドを3回鳴らして息を1つはいた。調律はしたのだから、音が出る確認さえできればそれでいい。寧ろ確認すべきはペダルだ。ソフト、ソステヌート、ダンパーと一音ずつ噛み締めるように踏みつけた。うん、上々だ。
天を仰いだ。その先に青空なんてない。くるくると回転するシーリングファンと、こじんまりとしたシャンデリアが俺を見下ろしていた。
至福の1時間半が幕を開けようとしていた。最初に弾くのは、自分で決めたジャズの名曲。それもソロで、だ。
サックスの調整が終わったAさんと、心地よいリズムを刻んで満足顔のBさん。2人を出し抜くかのように、俺は鍵盤に指を置いたのだった。




