2日目夜の部その④
家に帰ってきたのは夜11時前だった。夜が深くなるとアパートの近くは暗闇で覆われてしまう。それにももう慣れてしまったが、いつもよりも階段の軋む音が響いた気がして感触が悪かった。
「ただいまー」
あえて声を出して部屋に入った。ぎししと音が鳴った。あえてどんと鞄を置いて、ぱっと布団を見た。もう既に、乃愛は就寝していた。
仕方がないからシャワーに行く。服を取り出しても、彼女は起きようとしない。シャワーを浴び終わってから歯を磨く。歯磨き粉を出す音だって気にしない。そして最後に鍵を閉めて、控えめに部屋の端っこで蹲った。ここで月をのんびり眺めていたら、ふっと夢の世界まで落ちていくのだ。
元々は、こんな2人だったのにな。俺は思い出したかのように去年の今頃を思い出す。バイトの時間が終わって帰ったら、乃愛は度々こんな風に先に寝ていた。だから俺はそろりそろりと寝支度をすませ、窓の外の月明かりに1人思いを馳せていた。
同衾するようになったのは何時頃からだろうか。真冬の寒い日に入って来いって言われたからだろうか。洗濯物を2人のもの同時に洗うようになったのはいつからだろうか。水の無駄と指摘されたのは覚えている。バイトが終わってもずっと起きててくれるようになったのはいつから?飯を作って待つようになったのは?
彼女と《共同生活》を始めたのはいつからだ?
いつの間にかそれは当たり前になり、この家には彼女が住んでしまっていた。本当は仮宿の筈だったのに、まるで実家のように生活してしまっていたのだ。こんな、王室とは似ても似つかぬスラムスで。彼女も俺も、それに慣れてしまったのだ。
しかしなんとなく知っている。乃愛の戻るところは古村家ではない。鷹翅がいつこちらへ仕掛けてくるかもわからない。そうじゃなくても、彼女が今後狙われ続けるのは自明だ。
何かできることなんて、今は考えたくなかった。あるわけがない。ここは異世界じゃないし、俺にはチートも何もない。社会的地位すら曖昧で、戸籍すら揃っていないのに、彼女を救う手段なんて一つとしてない。
ここに居たって、不幸になるだけだ。もっと、力のある人のもとへ行ったほうがいい。絶対にこない答えを待つよりも、スラムの汚い生活に慣れてしまうよりも、よっぽどいい。
ああ、そうか。俺は彼女といて楽しかったんだ。
ようやく気づいた、生活に入り込みきった乃愛の大きさ。でもそれを自覚しても、もう遅い。チクタクなる隣の家の目覚まし時計の秒針が、処刑を待つカウンドダウンのように部屋中に響いていた。
何もできない俺は、ただ月を眺めていた。自然と落ちるはずの眠りは、全く来る気配がなかったのだった。




