8月21日その②
「旅行……羨ましい」
お店から出て駐輪場へと向かって行く途中に、塚原真琴はポツリとつぶやいた。
「旅行行かないのか?そっちの家では」
「行かないわよ。散髪屋は正月すら休むか怪しいのよ」
「そうなのか。ここじゃあるまいし」
「サービス業ってのはそんなもんなの。だから外出したって言ったら実家に帰ったくらい……あ、勿論塚原家のね」
そりゃそうだな。塚原真琴の旧姓、新原家には実家なんて概念がないのだから。
「どの辺なんだ?塚原家の実家」
「熊本の片田舎よ。水道通ったのがここ10年くらいの」
「……それ、日本なのか?」
「最近新幹線ができたおかげで行きやすくなったけど、昔は車で数時間飛ばしても全然つかないくらいの秘境だったんだって。そこにお母さんの祖母が住んでる。父さん側はもういない」
塚原真琴はそう言ってこちらから視線を逸らした。
「まあでも熊本に行くのが旅行みたいなもんだろ?」
「まさか!!こんなこと言っちゃあれだけど、要介護なおばあちゃんの相手をするだけよ。周りからは実家を捨てたのによく戻ってきたとかお母さんの悪口言われてるし、ほんと田舎って嫌い!!」
お、おう。家族にも色々あるみたいだ。今のところサンプルが遠坂しかないものだから、あんな暖かい家庭が普通なのだと思っていた。
「やっぱり私、もっともっと都会に住みたいなあ」
「今のお店は?」
「勿論、あれが一号店よ!でももっともっと街中に出店したい!原宿とか、渋谷とか、新宿とか!!」
「全部東京じゃねえか……その前に河原町とか心斎橋とかだろ?」
俺はそう言いつつ自転車の鍵を開けた。漕いで帰ろうとする俺に向けて、塚原真琴は冷たい目をして言い放った。
「わからない時はわからないって言うんだよ」
その真意はわからなかった。でも彼女が、めちゃくちゃキリッとした目をしていたから、真剣にアドバイスをしようとしていたから、俺はペダルに足を置いたまま彼女の方を見ていた。
「興味がないことには興味がないって言うんだよ。したくないことにはしたくないって言うんだよ。不安なことには不安だって答えるんだよ。私が思うにあんたは、普通の男子高校生と呼ぶには遠い存在なんだから」
「ひどい言われようだね」
俺は軽く受け流すように笑った。それでも彼女の顔は変わらなかった。
「何もない自分を肯定して。その自分を押し通して。そこからじゃないと、何も始まらない」
「はじまら?」
「誰かを傷つけることになる」
と、ここまで言って、塚原真琴が先に漕ぎ出した。
「私から言いたいことはこれだけ、旅行楽しんできてね」
彼女は菩薩のように微笑みつつ俺の前から姿を消したのだった。




