8月20日その①
「そういやさ、友一」
バイトを終え、貸していた傘も回収した俺は、さっさと布団に入って寝てしまおうかと思っていた。歯磨きを終えて、ほんの少し残っていたチャートの問題を解いていた時だった。乃愛は編み物の手を止めないで話しかけてきた。
「んー?」
「今日昼間どこ行ってたん?」
「バイト」
「その前やて。朝から出かけていったやろ?朝起きて誰もおらんかったから、めっちゃびびったわ」
今日、と言っていたがもう日付は超えていたので正確には昨日だった。いやそんな話をここでしたいのではない。
「伝えてなかったっけ?」
「伝えてなかった。聞いとらんかったで」
乃愛はそう言って頬を軽く膨らました。俺はそれを傍目に、ベクトルの問題と向き合っていた。1学期にやった内容のはずなのに、あまり覚えていなかった。
「近藤がさ」
「うん」
「服とか色々見に行きたいって言っててさ」
「うん」
「だから一緒に行ってきた」
「へえええ」
しばしの沈黙。鉛筆が紙を滑らせる音のみ部屋中に響き渡っていた。普段陽気なキャラ立ちでもなければ特段何か黙っていて欲しいことがないわけではない。所詮は自分の過去のことも知らないような一般人だ。
「2人で?」
「2人で」
嘘はつかなかった。つく必要なんてなかった。夫婦でもなければ浮気でもないのだから、言う必要など皆無だ。
「デート?」
「それをそう呼ぶのなら」
「呼ぶやろな」
「呼ぶのか」
「服見ただけ?」
「後ピアノ弾いた」
乃愛は一瞬とても意外そうな顔をしたが、すぐに元に戻った。俺はいつまで経っても交わらないベクトルにてこずっていた。
「どこで?」
「JCカフェ」
「誰と?」
「1人で」
「誰に向かって」
「お客さん」
「なんで弾こうと思ったの?」
一呼吸あけた。あえてあけた。
「弾いてくれって頼まれたから」
「誰に?」
「近藤」
「ちかちゃんかあ」
そしてようやく数学の問題が解けた時、彼女は意地になったかのようにこう呟いた。
「私もなんか買いたいなあ」
「1人で……」
「友一、一緒にいこ!」
「いや、別に……」
「い・っ・し・ょ・」
ギロリと睨まれた。どうやら俺の方を睨んでいるようだった。それを無視しつつ宿題をやっていた。
「別にいいけど」
と一言添えるのは忘れなかった。心なしか乃愛の声のトーンが高かった気がした。気のせいか。




