8月19日その⑨
そのまま俺は、時間が来るまでピアノを弾き続けた。カフェを出る頃には、もうバイトの時間が迫りつつあった。まだまだ弾き足りないくらいだったが、生きるためには仕方ない。
「また弾きにきてよ」
そう一言残した店長に、にっこり笑って答えた。
「ごめんね、思ったより時間かかっちゃって」
俺はそう言って近藤に頭を下げた。
「いや全然!!!すっごい楽しかった!!!それに、私から言い始めたことだし」
近藤がそう言ってくれたから、俺はとても安堵した。もしかしたら邪険に思われたのではないか。暇していたのではないか。そんな不安があったのだが、彼女はそんな顔一つ見せずに笑っていた。
「にしても、別人みたいだった。昔からピアノ弾いてるんだよね?」
昔からだな。確かにそうだ。
「そうだね」
「また聞きたいなあって、そう思った。あの場に集まったみんなが、そう思っていたのかな?」
そうだと良いが、そうなのだろうか。わからない。わからないし求めてもいない。
「そう、かな?」
「そう、だよ!」
そう言って朗らかな顔をする近藤は、その赤色の髪も相まってとても輝いて見えた。多分彼女は、こうやって誰かをほっこりした気分にさせるのがうまいのだろう。現に自分は、とても明瞭な心持ちになっていた。
「多分だけど、魅音ちゃんも采花ちゃんも同じこと思ってるんじゃないかな?そりゃ聞きたいもん。誰だって聞きたいもん」
「そういうもんかな?面白がってるだけじゃないか?」
「そんなことないもん!!だって君の……」
少し言葉に詰まった近藤を、俺はあまり視界に入れず待っていた。
「……クラスメイトの意外な一面なんて、そりゃ誰だってみたいって思うし、それに演奏だって、すごい良かったし!」
「ありがとう」
「本当はさ、みんなの前で、ピアノ弾きたいって……思ってない?」
そうなのかな?どうなのかな?思考する前に、近藤が口を開いてしまった。
「いやいやごめんごめん差し出がましいね!!そんな人を看破する感じなんて良くないね!!ごめんごめん」
と凄い勢いで訂正を入れられてしまった。そんなこと、思っていなかったというのに。
「近藤さん」
俺は改めて宣言することにした。
「気が向いたら弾くから、気が向いたら言うね」
ここで頑なに否定しないところは、少しずつ呪縛が解けているのだろう。そもそも、家にあいつが上がり込んだ時点で、その効力は落ちているのだから。
「……うん!」
近藤は、心底嬉しそうな顔をしていた。嬉しい顔を、直視できるようになった。そのまま2人別れた後も、その顔を思い出しては少し心が弾んだのだった。




