旋律は止まらない
ピアノを弾くことは知っていた。そのピアノで、ジャズフェスを盛り上げていたことも知っていた。なんなら、演奏しているところも、非合法な手段なら見たこともあった。
でもここまでだとは思わなかった。とても楽しそうに、何者にも邪魔されず、明るく楽しくそれでいて正確に指を運んでいく。その姿はまるで、ピアニストのようだった。
私にはピアノに関する知識なんて皆無だ。モーツァルトも最近聴き始めたばかりで、それまでクラシックの演奏に批評をつけるどころか、クラシック自体に興味のなかったのだから。でも一つだけ思ったことがある。
彼はピアノを弾いている時が、1番輝いている。
塚原さんが執拗にピアノを弾けとせがむ理由がわかった気がする。そりゃ、あんな嬉しそうな顔を見せられてしまってはもう一回と頭を下げるだろう。
「次は何がいい?」
周りに人が集まってきていたにも関わらず、新倉くんは私に声掛けてきた。え……あっ……口籠っていると、周りからリクエストが飛んできた。
「あれ弾いてくれよ!!この前のジャズフェスで1発目に弾いたあれ」
「結構しっとりした曲ですけどいいですか?」
「いいとも!」
店内どころか、店外にも人が集まっていた。先ほどのショッピングモールよりも人がいる気がした。
「それでは、『It's a sin to tell a lie』」
流暢な英語とともに、しっとりした曲調の旋律が流れてきた。こんな曲も弾けるんだ。モーツァルトだけじゃないんだ。
「なあ、お嬢ちゃん」
集まってきた人の1人に話しかけられた。タンクトップを着たいかにもおじさんっ!って風貌のお方だった。
「君が、この子をここに連れてきたのかい?」
違う。ここに連れてきたのは彼だ。私はただ、案内されただけだ。それでも私は首を縦に振った。その言葉の真意を理解していたからだ。
「そうか……ありがとう。あの子のこと、とても心配していたんだ。なんせ一年に一回しか聞けないからね。元気でやっているのかなあって」
「そ、そうなんですか」
私は少し動揺しつつ答えた。本音を言うなら、ピアノを弾く彼に視線と集中を最大限向けさせたかったのだ。
「今でも思うよ。もしも彼に、ほんの少しの欲があれば、欲を持てる生き方ができていれば、今頃ピアニストの卵として日本全国、いや海外にもいけたんだろうなあって」
「無欲、なんですか?」
「欲がないんじゃない。多分彼は欲の持ち方をわからないんだ。せめてもう少し……」
とここで黙った。演奏中に話しかけたことを反省したのか、そこからは静かに演奏を聴いていた。一つだけわかったのは、ここにくる人たちは私以上に新倉くんのピアニストとしても側面を理解しているのだと言うことだった。私はわからないから、ただただ楽しそうな彼を見ていた。見続けていた。




