8月18日その⑦
お風呂から上がってきた時と、部屋の前に小学生の女の子が登ってきたタイミングは、完全に同時だった。時刻は夜の10時半であり、側には大人の女性がしっかり手を握っていた。親御さんかな?という極々自然な想像はしなかった。なぜならその少女が、濱野京華だったからだ。しっかりこの名で表記しよう。新居なんて苗字は、さっさと無くしてしまうべきだ。忌み名だ。そういう俺は、未だにその名前を使っているわけだが。
「どうしたの?京華ちゃん」
「友一兄ちゃん!!今からピンポン押そうとしてたんだー!!タイミングばっちし」
いや本当にタイミングばっちしだよ!!!もしも少し風呂上がりが遅かったら知らない女の人とマッチングする予定だったんだよ!!!俺は柄にも無い丁寧な言葉で焦りつつ、それを表に出さないように振る舞った。
「そうだね。風呂上がりのだらけた格好で申し訳ございません」
ペコリと頭を下げた先は、桂香ちゃんの手を繋いでいた大人の女性だ。恐らくこの人は、濱野恵子の母親だろう。背の低い所や少し垂れた目が彼女によく似ていると思った。体型は流石に娘さんの方がすらっとしているが。
「いえいえこちらこそ急な訪問になってしまい申し訳ございません。私はこれからこの子を引き取る濱野と言います。失礼ですが新倉さんで宜しいでしょうか」
「はい。新倉友一です」
「最後にお兄ちゃんに会いにきたんだ!遅くなってごめんね!!」
律儀にそんなことをしにきたのか。俺は少し動揺してしまった。別に京華ちゃんにとって俺は親でも無いし、特別親しかったわけではない。
「鷹翅でお世話になった人のところにはみんな回りたいって思いまして……京華ちゃんも乗り気だったので少しお時間をもらっていたんです。新倉さんで最後になりますが」
「濱野さんが提案したんですか?」
「はい。無駄なことかもしれないですが、京華にとって鷹翅の人達は家族も同然じゃないかなと思いまして」
家族……少しだけよろけそうになって、自然な動きで壁にもたれた。家族って何だろう。わからないから目を背けてきたその存在が、今日の自分を苦しめている。俺も、養子になればわかるのだろうか。わからなくて、良いのだろうか。
「ねえ、お兄ちゃん」
京華は少し優しい声色でこう呟いた。
「京華ね、鷹翅で生活できて良かったって思うんだ」
それは諭しているようだった。
「家族同然じゃないよ。あそこに居る人達はみんなお兄ちゃんで、お姉ちゃんで、妹で弟でお母さん!!京華はそう思ってる」
迷う自分に道を示しているようだった。
「だからまた、遊んでね!!」
間違ってないと。
「それと……」
何一つ間違っていないのだから、自信を持って進めと。
「またピアノを弾いてね」
そう錯覚してしまったのだ。いや錯覚でいい。妄想でも思い込みでも過大評価でもいい。その満面な笑みに救われて、俺は再び背筋を伸ばした。
「うん、また弾く時は連絡するね!」
そう言って俺は前を向いた。そのまま2人が帰るまで、アパートの二階からずっと見ていたのだった。2人の影が見えなくなったら、そのまま俺は空を見た。星は見えなかった。雲がかかっていた。でも、見えなくてもいいかなと少しだけ思った。そう思えたことが、何よりもの立ち直りだった。




