8月17日その①
出発は朝からだった。
「朝からいかんと暑さで死ぬやろ」
とのことだった。まあ正論だと思ったものの、俺からしたら別に平気だった。しかし今回我儘を振る舞ったのは乃愛だ。なら彼女の意見を聞くのが正着というやつだろう。
朝の4時半の槻山は、いつも以上に人通りが少なかった。車の排気ガスの匂いもないし、自転車のチリンチリンもなかった。木々のふんわりとした空気が、俺の身体を纏って鼻へ抜けていった。朝焼けもまだ始まらない空の、その透き通るような青が、星の光を遮りつつこれからの晴天を写していた。
「気持ちええ朝やなあ」
乃愛はそう言ってうーっと腕を伸ばした。彼女の今日の格好は、まるで昔の彼女のような、少し物の良さそうな水色のワンピースを着ていた。脇が完全に露出していたので、俺は思わず目を逸らした。
「眠たいけどな」
「そらな、一応5時間ちょいくらいは寝とるんやけどな」
そんなことを言いつつ2人で大きなあくびをかました。あくびがうつったのではない。同時にあくびをしたのだ。そのタイミングがあまりにも一致していたので、あくびが終わったら2人で笑い合った。
「なんやろ、一緒に暮らしとるからかな?」
「あくびのタイミングまで一致するとか、どんだけよ」
おかしかった。心底おかしかった。もしかしたら乃愛からしたら、偶然の一致を面白がっていただけかもしれない。でも俺は違った。あの乃愛が、こんなにも近い存在になったのだと。精神的にではない、物理的にだ。そうだな、強いて例えていうならこれは、チャップリンのような笑顔だ。皮肉のたっぷりブレンドした、ちょっとたちの悪い笑顔だった。
「今日のルート、確認しよか」
そう言って乃愛はスマホを開いてGoogleマップをタップした。もう既に神戸へのルートは登録済みだった。
「ここから川の方に出て、ずっと走っていって、茨田市も吹上市も抜けてなにわまでいく」
「うん」
「そこから十三辺りで北に向かって、尼崎で山手幹線に入って、そのままずっと西へ向かう、以上」
「簡単なルートだな」
「わかりやすい方がええやろ?長旅やねんから」
そう言って乃愛は自転車に跨った。既にボロボロのママチャリだが、昨日虫ゴムの状態を確認し空気を入れ直した。
「壊れないで欲しいなあ」
「ほんまそれな」
そんなことを言いつつ、俺も自転車に跨った。
「んじゃ、お水は?」
「もったやで、タオルは」
「持ってる、念のためのお金は?」
「あるやで、それじゃ……」
まだ暗い暗い夜明け前が、2人を歓迎することなく迎え入れた。
「行こっか?」




