8月8日その②
「逃げちゃうんじゃないかって、そう思ったから」
助手席から女子の声がした。おそらく古森だろう。俺は頭についた埃を取りつつ、手足を伸ばした。
「逃げはしねえよ。っていうか、明日だろパーティは?」
「……そうね」
「まさか明日の昼まで監禁するってか?俺どんだけ逃げる思われてんの?信用なさ過ぎ」
そう言いつつ夏が終わった後の新作メニューのレシピに目を通していたら、
「流石にここに慣れ過ぎでしょ?」
と指摘されてしまった。
「やーなんか、ちょっと前に拉致られたから、もう慣れた」
「順応力高っ!」
「このドリンクホルダーに水筒入れていい?」
「や、良いけど……一応私、家族旅行のジュース買ってきてんだけど?」
隣に座る黒服がさっと手渡してきた。前バイト先に代わりに入ってくれた人だ。
「何?松山にでも行ってきた?」
「や、イタリア」
確かにラベルが見たことのない変形アルファベットで書かれていた。
「こりゃまた、一生飲めなさそうなものをありがとうございます」
初めて飲んだ海外のジュースは、思っていたよりも酸っぱかった。オレンジ色だからオレンジジュースなのだろうか。
「ったく、慇懃無礼な奴」
「古森、そんな難しい単語よく知ってたな?」
「私も一応藤高生よ?そこらの馬鹿ほど馬鹿じゃないっての」
少しの沈黙。俺は夢中でジュースを飲んだ。バイト終わりというのもあったが、やはり美味しい。イタリアなんて、海外なんてこの身分のせいでパスポート自体難しいかもだけど、それでもこうしてお土産をもらっただけでそこの風を感じた気分になるから不思議な話だ。
「……なんか、楽しそうじゃない」
突然ポツリと古森は呟いた。
「普通お誕生日って、もっとウキウキして、ワクワクして、ワチャワチャするもんなのに、そんな感じ一切ない」
「ワチャワチャはしないだろ。まあ楽しいというか……そうだな」
だから俺もポツリと呟く事にした。
「わからない、というか」
そうだ。俺はわからない。普通がわからない。誕生日の振る舞い方も、パーティへの心積もりもわからない。俺にとっての誕生日は、他の8月生まれの子達と一緒に、ちょっとだけ甘いお菓子を食べるそれだけの日だったのだから。
体験したことのない幸せなんて、戸惑いしか生まれてこない。
欲してこなかった普通は、もはや異常と変わらない。
「わかんない、か。それがわからんない」
そりゃそうだ。古森の言葉も納得だ。俺だって、わかんない。
「まあ、どうでもいいや。私はあんたのカウンセラーじゃないし」
急に車が止まった。止まった場所はどうやら一軒家のようだ。だが古森の家とは違って、なんというかごくごく普通の家って感じだ。語彙力の無さに我ながら舌を伸ばして反省した。
表札にはこう書いてあった。『近藤』と。
「ちかちゃーん!にーくら連れてきた!」
さっきまでの冷たいトーンは何処へやら、古森はクラス用のハイトーンでインターホンに話しかけていた。
「え?え?でもパーティは明日の昼……」
動揺する俺を見て、古森はニヤリと笑った。
「あんたみたいな誕生日パーティ初心者に教えてあげる。誕生日パーティってのは、絶対にサプライズから始まるのよ」




