7月31日その⑤
「いきなりどっか走ってくからマジびびった。どうしたん?」
そう言っていた本人である新田は自転車を2つ押して推定1キロ離れた河原まで到達していた。流石はパーカッション、腕の筋肉があるということか。すでにクールダウンしきって頭を抱えていた俺は、彼の到着を知覚するや否や真っ先に自転車を取り帰りたい衝動に駆られた。恥ずかしいという感情に支配されていたのだ。
「はい、これ自転車」
オンボロ自転車だが見捨てられない。これでも立派な愛車だし、なによりバイト先まで行くのが億劫になる。俺はふんだくるように取ろうとしたが、流石にわざわざ持ってきてくれた新田に悪かったのでそっと受け取った。
「ありがとう……」
「どーいたしまして、つうかよくこんなとこまで走ったな。マラソン大会以外で走りたかねーよこんなの」
「……あれだよ、気分的に走りたくなった」
「マジか?ランナーズハイみたいなやつ?」
新田は自然な動きで隣を歩き始めた。いや俺はさっと帰りたいのだが。
「それとも、俺がなんかまずい事でも言った?」
ガチガチな身体をした新田が、少し小さく見えるような小声でそう呟いた。
「別に何も?」
「ほんとか?ピアノ楽しい?とか本番前に言ったの、結構反省してるんだけど」
「そんなことで感情を乱すほど俺は直情人間じゃねえよ」
結構な嘘である。めちゃくちゃ動揺したし、演奏にも集中できなかった。それでもそれは新田のせいではない。勝手に自滅した自分のせいだ。そんなこと百も承知だからこそ、何も言わないで皮肉だけ言っていた。
「じゃあなんでこんなとこまで走ったんだ?流石に走りたくなったからは本当の理由じゃないだろうし……それともあれか?」
ん?俺は少し首を傾げた。
「あれか!演奏がうまくいかなかったから、みたいな?」
あーそれにしとこーうんうん。俺は深く突っ込まれる前にセーフティネットを貼るべく嘘八百に同意した。
「へえーー、結構メンタルに来るんだ」
「あんまり人前で演奏しないから、ちょっと苦手でさ」
「意外なタイプ」
「そ、そうか?」
それから2人は、何気ない音楽の話に没頭していた。と言っても時間としては、3分くらいだけど。
「んじゃここで曲がる!じゃあな」
そうして帰っていく新田の姿を見て、俺は完全に安堵してしまった。その上で胸のつっかえも取れたかというと、そんなわけではなかった。彼との去り際に、黒色の車が背後をばああああと横切ってしまっていった。それはまさしく、ほぼ1週間前に俺が拉致されたあの車にそっくりだったのだった




