7月31日その③
舞台に上がってからのことは、ろくに覚えていない。覚えていないふりをしているのではなく、本当に記憶からすっぽり抜け落ちてしまった。今ならドとソを間違えて弾く自信もあるし、好きなものを嫌いと言ってしまう錯誤をしてしまう自覚もあった。
気づいたらピアノを弾いていた。気づいたら時間が経過していた。フラッシュバックのように、傍観者視点で俺の脳内が映し出す。気づいたら舞台を降りていた。気づいたら周りにバンドメンバーが寄ってきていた。褒めてくれたり、感謝された気がするけれど、その一字一句どこを切り取っても覚えていなかった。
市役所前のグラウンドでしか行われない、小さなお祭りだ。乃愛も真琴もバイトに行っていて不在だし、遠坂も近藤もそれぞれ用事でこの街を離れていた。だから?そんな、まさか……
いやいやそれはない。これまでだって彼女のいないステージでピアノを弾いたことくらいあった。ここ数年のJCカフェでの演奏とか、彼女は全くと言っていいほど足を運んでいなかった。それでもこんな、記憶に残らないほどガラクタな演奏をした経験なんてない。それが理由ではない。それを信じたかった。だって、もしもそうならダサすぎるじゃないか。
結局俺は、王女様にピアノを聞いてほしい、だだそれだけだったなんて……
すっと視点が己に帰ってきた。それと同時に言い知れぬ不安感が俺にまとわりついてきた。吐き気が襲ってきた。なんの吐き気がわからないから、余計に重い症状に思えた。嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!!!認めたくない。認めたくない。
5月3日、本当は王女様がもう一度聞いてくれるのを待っていたなんて……
認められるわけがない。絶対にありえないんだから!!!
「んじゃこれから祭り満喫しよーぜ!」
「さーんせ」
「おっ、なんもしてないこもちゃんがきた」
「は?新田てめーマジ覚えてろ?お前の大事にしてるパーカスキャンプファイヤーに入れるぞ?」
「や、……やめたげて……」
おそらく俺は、大きく寄れたのだろう。それに真っ先に気づいたのは、かつての俺を、どこまでかはわからないけれど、知っている古森采花だった。
「にーくら、もしかして疲れた?」
その言葉に返事もしないで、俺は土埃を立てて走り出した。古森の言葉がトリガーなのではない。もう走り出さなければ、自我が保てなかったのだ。
群衆を縫うように進み、祭りを後にして、そのまま近くの小川に沿って走り続けた。走りながら言葉にならない言葉を発し続けた。
「うああああああああああ!!!!!!」
なぜ叫んでいるのかわからなかった。なぜ走っているのかわからなかった。胸に滞留して俺を苦しめる不安感と恐怖心が、何から来るものなのかわからなかった。
「うああああああああ、うああああああああああ!!!!」
こんな時でも俺は、自分の感情を把握することが下手くそだったのだ。ただただ、泣いて助けを請う赤子のように、息が切れるまで走り続け、叫び続けたのだった。




