昔の話③-1
新倉友一はクラスの人気者になった。
彼が弥生さんに激賞を受けたこと、日本でも有数のコンクールへ出場すること、それらを全て担任の先生がバラしてしまったのだ。というかもう、大々的にクラスで発表して、みんなで応援しましょう!という流れへ持って行ったのだ。
1つの強い興味は、組織をより強くする。当時のクラスはまさにそんな感じで、あんなに荒れていたクラスが一気に纏まりをみせ始めたのだ。音楽の授業以外もみんな授業を聞くようになったし、先生の話を聞くようになった。それら全てが友一のお陰だとは言わないが、その一端であることは確かだろう。
恐らくその頃の友一は、私と話したかったのだと思う。
でもそれは、クラスメイトの集団に阻まれてしまい、いつだって話しかけることができなかったのだ。
友一は断れない性格だ。ピアノを弾いてと言われたら、ああそうかと先生に言いに行っていた。ピアノの発表会の練習という名目を立てたなら、どんなことだって叶うのではないかと錯覚するほど優遇されていた。そしてクラスみんなの前で、リクエストされた曲を弾きつつみんなで歌う。たまにリコーダーがバットになっていたのはご愛嬌だ。
それだけじゃない。下級生向けに大人数での椅子取りゲーム大会を開催した時に、音源を用いず友一のピアノで行わせた。ここまでくると完全にパフォーマンスで、担任の先生は耳にタコができるほど我が生徒を自慢していた。それでもその会は非常に盛り上がった。ピアノに聞き行って椅子に座るのを忘れた生徒が出たほどだった。彼のピアノは、体育館という広いホールでも鈍らなかったのである。
徐々に彼を推し始めたのはクラスから学年、学年から学校と変遷していった。そりゃあそうだ。猿でもわかる。親がいない不幸、施設で暮らす不遇、それらを糧にピアノに打ち込む少年。これをドラマと言わずなんというだろう。最初は小さな学級新聞だった。荒れたクラスを立て直した子供として賞賛する記事だったような、そんな気がする。そこから始まり、気づいたら地方紙が取材に来るほどになった。まだ何の実績も残していない小学生になぜ取材が来るのかと言ったら、ひとえに彼の境遇のせいだろう。みなしご、施設在籍、貧乏。わかりやすい逆境に立ち向かう純粋な少年の姿は、人々の共感を呼びやすかったのだろう。
そんな中でも、友一は私に話しかけようとしていた。
そして私は、それをわかりながらも絶対に見てやるもんかとそっぽを向いていたのだった。




