昔の話②-8
そこからは、本当に楽しくない時間だった。
「弥生ー!」
「わーお疲れ様ー!」
「わざわざ時間取ってもらってごめんねー。忙しいのにさー」
「ええってええって!家におったってどうせ暇しとうからさ」
「またまたー今日こっちに返ってきたんでしょ?めちゃくちゃ忙しいって耳に入ってきてるんだからね!」
「ほんま、最近家で標準語話すか海外で英語話すかしかしとらんから、気ぃ休まっとらんくて……」
「私は実家より落ち着くのか笑」
「そりゃそうやって。遠くの親より近くの友人やって言うし」
「私、遠い友人だろ?」
「いやいや心の問題」
「あ、なるほど!」
そんな2人のやりとりを私はぼーっと見ていた。恐らく隣に立っていた友一も同じ感想だったのではないだろうか。どこかの繁華街にあるスタジオを借りていたが、外からはジャズの音が少しだけ流れていた。白い部屋にポツンと置かれた黒いピアノは、神々しさを放っていた。
「乃愛ちゃん!久し振りだね。前会ったのは6歳の時だっけ?大きくなったねえ」
弥生さんはこちらに来てぎゅっと抱き締めると、頭をポンポンと撫でて来た。髪が少しだけ揺れていた。多分この人には、本家の愚弟、弥生さんからしたら従兄弟にあたるが、その人に酷い目に遭わされかけた情報などまだ入って来ていないのだろう。
少しだけ嬉しく思ったのはつかの間、彼女はすぐ隣にいた友一に声をかけていた。
「初めまして、新倉友一君?」
友一はこくこくと首を上下していた。
「鷹翅弥生って言うの。よろしくね。初めて会う人で緊張するかもしれないけど、怖がらないでね」
相変わらずこくこくと頷いていた。
「あんた、子供の前では神戸弁隠すんだ」
「いやだって!通じとらんかったら意味ないやん」
「弥生さんって神戸出身なんですか?」
「や、んなことないよ。ちょっと、ね。昔色々あって」
詳しく聞かないでって顔をしていた。だから詳しく聞かないことにした。そんななんてことないやりとりの間に、彼はピアノの元へ行き、もう座っていた。多分その頃の彼に、弥生さんなんて眼中になかったのだろう。
「お、やる気だねー!いいねー!何弾く?30番とか?」
弥生さんはニコニコしながらピアノの方へ視線を向けていた。
「弥生、彼は言ったように誰からも教えてもらったこともないし、ピアノ教室の経験もない。だから……」
「あーそっか!んじゃ友一君?どんな曲でもいいよ!アニメの曲とか、アイドルの曲とか、なんでも」
その弥生さんが言い終わる前に、友一は弾き始めた。何をって?そりゃ、彼がこんな時に弾く曲は一つしかない。
新倉友一は、いつだってモーツァルトが好きなのだ。




