6月7日その④
第1ホールと言ってもそこらの公民館の部屋の少し大きい版であったが、それでもそれは良く映えていた。
「あの……樫田さんこれは……」
「ああ、古村さん家から届けられてね。また戻ってきたんだよ」
そう、そこにあったのはかつて愛用したピアノだった。高価なグランドピアノは、ここに置いておくのも、俺が使うのも分不相応なほど立派なものだった。何年も放置されていたからか埃が遠くから見えるほど山積していた。俺はゆっくりそれに近づき、さっと埃を撫でた。
「すまないね。日頃は忙しくて埃を取ることもできていないんだ」
樫田さんは少し申し訳なさそうに顔を歪ませていた。特に気にしていなかった俺は、ポーンとドの音を鳴らした。
「えー?お兄ちゃんってピアノ弾けるの??」
京華ちゃんの明るい声が響いた。
「昔少しだけ、ね」
「ほんと!?いいなあ。そのピアノきたのに誰も弾いてくれないし、触ってたら怒るし」
「触ってて怒られたのは上に乗って遊んでたからでしょ?」
樫田さんが優しく諭すように話しかけたら、京華ちゃんはぶーたれてしまっていた。
俺はそこから、無心にピアノを触っていた。残念ながら調律する道具までは持ってきていないから、少し音がぼやけていても気にしなかった。何の曲でもない、何のメロディでもない音の羅列を、一音一音響かせていた。
そういや最初はこんな感じから始まったんだったよな。ホールの端っこに置かれたピアノを適当にポンポンと弾いて、何となく耳障りのいい旋律を覚えて、思いつくまま好き勝手に弾く。誰に聞かせようと思ったわけでもない。ただ音の世界に没頭するところから始めたんだっけか。
迷ったら自分の過去を見て見つめ直したらいいじゃないか。そんなことを提案してくれた乃愛の言葉を、今は噛みしめるように心へ染み込ませていた。自然と指は、かつて弾いた曲へと移行していた。ルパン三世でも、嘘は罪でもない。ピアノ協奏曲第9番変ホ長調。通称ジェノーム。作曲者は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。俺が初めてにして唯一出たコンクールで弾いた曲だ。フランスの女流ピアニスト、ヴィクトワール・ジュナミに贈呈したとされるこの曲は、どこまでも真っ直ぐで凛としていて、それでいて明るさも失わないそんな女性を称えているようだった。
触りだけ弾いてふうと一息つくと、部屋から京華ちゃんが居なくなっていた。そしてそのタイミングを見計らったかのように、樫田さんは口を開いた。
「やはり、帰ってきにくかったかい?追い出された実家に戻るっていうのは」
すまなかったという顔色が全面に出ていたその雰囲気に、俺はしっかりと嘘偽りなく答えた。
「全然。恨んでも憎んでもないですよ。むしろ感謝してます。しっかり育ててくださって、お陰様で今でも人並な生活が歩めていますし」
「でも……」
「それに、追い出されたなんて思ってないですよ」
樫田さんの方を向いて、俺は笑った。
「安心してください。ここに来なかったのは…ほら、便りがないのは良い便りってやつです」
実際そうだ。別にここに来る用事がなかったから来なかっただけだ。恨みなど、万に1つもなかったのだ。




