6月4日その①
あたし、嫌い
声が響く。
あたし、あんたがピアノ弾いてる姿を見るの大嫌い
懐かしい声が響く。
2度と弾かないで!2度と私の前でピアノを弾かないで
思い出したくない声が響く。
もしも弾いたら、許さない
でももう一度聞きたくなる声が響く。
また、あんたを爪弾きにしてあげる
その声は、未だに俺の心を巣食って離さない。
ねえ、わかってるの?
その声の主は…声の主は…
「ゆういちー!ゆういち…」
はっと目を覚ましたら、隣で悶える乃愛がいた。なぜか分からないが、乃愛の手首を強く掴んでいたらしい。
「友一、痛い」
「あーごめんごめん!」
そうして俺はパッと手を離した。灯りをつけて乃愛の手首を確認すると、真っ赤な跡ができていた。
「うわー赤くなってる。本当にごめんな」
「いやまあ全然大丈夫やけど、むしろ友一の方が大丈夫なん?あんた相当魘されとったで。なんか悪い夢でも見とったん?」
そう言われて身体を見てみたら、大量の引っ掻いた跡が滲み付いていた。首や肩、胸にもあった。
「え?え?ちょっとほんまに大丈夫??」
「いやまあ痛いわけじゃないから身体的には大丈夫だと思う」
「いやあんたのメンタルが心配やわ。とりあえずシャワー浴びてき?今の時間やったら他に使っとる人おらんやろし」
時刻は午前2時を差していた。所謂丑三つ時だ。幽霊の一つくらい出てこないだろうかと好奇心するほどの余裕はなく、俺は何も考えずにシャワーを浴びて来た。洗い流そうとしても引っ掻いた跡は中々に落ちてくれなかった。そりゃそうだ。これは汚れじゃなくて傷なのだから。修復には温水ではなく時間が必要なのだ。
それでもシャワーは、大量にかいた寝汗のベタベタを洗い流すに最適解であった。深夜に入るシャワーというのは中々に新鮮だった。それだけでリフレッシュとはならなかったが、多少の気分転換にはなったと思う。
思い切って下着も変えて、部屋に戻って来た。乃愛はもう目が冴えてしまったのか、布団を端に避け卓袱台を出して、そこに肘をついてスマホを見ていた。
「おーおかえりー」
「完全に起きてんのな」
「眠気なくなってもうた。しばらく起きてよかな」
「それはすまなかったな」
「友一も、付き合ってや」
そして乃愛はコップを2つ取り出して、そのどちらにも水を入れていた。貯水タンクに入った神社の井戸水だ。ここの水道よりは衛生上良好であろう。
「ほら、なんかこれ、お酒みたいやない?」
「透明なお酒って何だよ」
「結構あるやろ。日本酒とか」
「日本酒コップで飲んでたらすぐ酔いそう」
そんな軽口を叩きつつも、俺は乃愛の対面に座って水をいただき始めたのだった。




