6月3日その⑦
そろそろ帰ってこないと心配するのではないか。そう思った俺を察したかのように、塚原真琴は切り出した。
「そういやさ、あんた、鷹翅でピアノ弾くの了承したの?」
なんと、これこそ僥倖である。自分から語ろうと思っていたことを、わざわざ向こうから切り出してきたのである。しかしここでは、真実を隠すことにした。
「え?なにそれ?」
もしも乃愛が家にいなかったなら、こんな反応になっていたのだろう。だから間違っていない。うん。嘘は罪だけど、これは嘘じゃないから罪じゃない。
「は?話入ってない?」
俺は全力で首を振った。
「まじでかー。まあ陽川さん適当だからな。というか、2週間前に連絡とってるとかあの人らしくないよな、うん」
「自己完結しているところ悪いけど、俺は何も聞いてないからな」
「んじゃ、今から陽川さんに変わって私が言うわ。日時は6月17日。場所は児童養護施設鷹翅の1ホール。メンバーはeitheとあんた」
「頼さんは来ないんだ」
「流石にお店空ける訳にはいかないんだってさ。何?あの人いないと出たくないの?」
そう言う訳じゃない。残念と言うのは本音だが。
「それとも、私らとするライブは楽しくなかった?」
そう言うわけでもない。むしろ思い出すのは楽しかった記憶だけだ。
「……誰かと予定でも?」
ここだけはしっかりと首を振った。強いて言うならバイトに休みを入れていないくらいだ。
「でもさ、あんた乗り気じゃないでしょ」
図星だ。確かに乗り気じゃない。
「まあ急な話だし、そんな反応になるのも仕方ないっちゃ仕方ないんだろうけれども…」
「今聞いた話だし、それに…」
俺は唾を少し飲み込んだ。ゴクリという音が海馬に響いた。
「俺は、ジャズフェス以外では弾かないって決めてるから…」
一瞬だった。あり得ないほどの速さで、彼女は俺に壁ドンをしてきた。身長差から表情は上から目線となってしまったが、髪の毛に隠れて全く見えなかった。
「ねえ、それなに?」
「え?」
「決めてるって、何?誰が、誰に、どんな理由でそんなこと言ってるの??」
静かに、本当に静かに、彼女は怒り出した。
「楽しくないならやらなきゃ良い。やる気が出ないなら投げだしゃ良い。面倒臭いならブッチすれば良い。それなら私は何一つとして文句は言わないわよ。でも、あんたは違うでしょ?本当にしたいことを目に入れないようしているあんたが、死ぬほどムカつくんだよ!!!!」
そして彼女は顔を上げた。泣きそうな顔だった。俺よりもよっぽど、苦しんでいるように見えた。
「ねえ、いつになったらあんたは自由になるの?もう、あんたを邪魔する奴は誰も居ないのよ。誰も…居ないのよ」
そしてそんな彼女を見ると、こっちの方が辛くなった。
「……考えとく」
そう絞りあげるように呟いて、俺は席へ戻っていった。後ろからついてくる塚原真琴を、俺は一度も振り返らなかったのだった。




